第2話 三浦道中猫黒毛
「どこに連れて行ってほしいんだ?」
彼は尻尾を振り始めて黒目を少しずつ太くしながら口を開ける。
「海南神社に行きたい。知ってる?」
「うん、三崎港の近くだよね。なんでそこに行きたいの?」
「忘れ物を探しにね。」
忘れ物ってどんな、と聞いたが、彼は答えなかった。代わりに右前足を僕に突き出し、足首にある、赤黒く変色した肉の切れ目を見せてきた。
「なんだ、うまく歩けないのか、にしても痛そうな傷。」
「この前、近所の猫と喧嘩していたら、引っかかれて、思いのほか治りが悪くて。」
「・・・・へえ。」
「それっぽい嘘をつけばよかった。」
「なんで喧嘩したの。」
「その日は、この辺りに住んでいる人からマタタビをもらってね、どっちが先につけるかで揉めていた。」
「そう。」
「猫にとっては重要だ。」
そう言って彼は前足を地面につけた。ケガもそうだが、ここから海南神社は直線距離で10キロ弱もある。普段あまり遠くへ行かない猫にとっては、長距離といっても過言ではない。これもなにかの縁だと思ったので、僕は連れていくこととした。
灯台を離れ、近くに停めていたレンタサイクルのカゴの中に彼を入れた。車で来ていないのか、と彼は聞いてきたので、僕は給料が少ないこと、ペーパードライバーであることを説明したが、興味のなさそうな欠伸で一蹴した。
移動してすぐ、景色は灯台のあった藪の中から畑が広がる丘陵地へと移った。うろ覚えの知識だが、三浦半島は農業が盛んで、特にダイコン、キャベツ、カボチャ、スイカが有名というのは聞いたことがある。そこかしこに茶色い土が絨毯のように敷かれていて、トラクターが模様をつけている。更に向こう側では野焼きをしているのか、煙が真上に伸びていき、赤い空に溶け込んでいく。時々道路ですれ違う車は一様に横浜ナンバーなので、この辺りが有名な観光地ではないことを連想させる。
「君、気分が落ち込んでいるときにあそこの灯台に来るってさっき言っていたけど、なにがあったの。」
彼は自転車のカゴの中から、顔だけ振り向いて聞いた。
「仕事で大きなミスをした。」
「その前に来たときは?」
「同じだよ。」
「更にその前は?」
「・・・・同じだよ。」
「よっぽど仕事ができないんだねえ、逆に関心するよ。」
僕は返事の代わりに、一時期とても有名になった、泣きそうなあの絵文字と同じ表情をした。
坂を下って小さな漁港のある集落が見えたとき、左前足を突き出して、ここは人に飼われていた時に住んでいたところだよ、て教えてくれた。灯台に行くときは必ず通っていた場所なので、今まではさして気に留めていなかったが、この集落で日常を送っていた人々がいると思うと、不思議な気持ちに包まれる。彼は心なしか郷愁に満ちた表情をして、屋根瓦の家々を眺めている気がした。
その後、丘陵地を上り、そして再度下り、魚介類の生臭いにおいが鼻を突きさすようになると、海南神社のある三崎港が見えてきた。
「着いた!」
彼はそう言った。
空は東の方向にうっすら藍がかっており、西側の地面に飲み込まれそうな太陽とグラデーションを作っている。蝉の声は存在感を薄め、代わりに鈴虫のような声が、夜のオーケストラとしてチューニングを始めた。波は穏やかだが、コンクリートにペチペチと音を立てている。背中の汗はすっかり引いたようで、べとっとした感触はもうない。
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