ウクライナ/断片/列

紙の妖精さん

ウクライナ/断片/列

クラクフの区役所。午前の雨で、入口の黒いマットが湿っている。

番号札はB132とB145。二人はベンチの端に座る。

ポーランド語の案内が流れて、スマホの翻訳アプリが少し遅れて震える。

係員が透明なファイルを配り、身分証と学校の証明書を示すように指で示す。

外では、濡れたアスファルトが雨の匂いを長く残している。

オリーナは青いボールペンを回して落とし、リィナヴェアルンが拾って渡す。

「ありがとう」とウクライナ語で小さく言う。

掲示板の地図に蛍光ペンで印がついている。寮、受付、保険。

アプリの翻訳は「次は窓口3」と言ったが、実際に呼ばれたのは窓口2。

二人は顔を見合わせ、並び直す。

B132が呼ばれ、シェフチェンコワが立つ。

B145の紙が指に少し汗で貼りつく。

窓の外で、雨は細くなる。誰も拍手しないし、音楽もかからない。



バスは夕方の道を、黄色いライトで照らしながら進む。

車内の暖房が効きすぎて、窓ガラスが曇る。

リィナヴェアルンは袖で曇りを拭くが、すぐに白く戻る。

運転手がラジオをつけていて、ポーランド語の天気予報が流れる。

「クラクフ、明日も雨」。

バス停で降りると、舗道に小さな水たまりが点々とあった。

寮の入口には、夜用のランプが灯っている。

紙の張り紙に「22時以降は鍵が必要」と書かれている。

靴を脱ぐと、廊下のカーペットがほんのり湿っている。

部屋は2段ベッドと白い机、椅子が2つ。

壁には前の住人が貼ったと思われるポスターの跡が四角く残っている。

シェフチェンコワがバッグをベッドの上に置き、チャックを開ける。

中からノートと黒いマグカップが出てくる。

マグにはひびが一本、薄く入っている。

リィナヴェアルンは机の引き出しを開け、メモ用紙と青い付箋を見つける。

窓の外では、街灯が丸くにじんでいる。


バスは夕方の道を、黄色いライトで照らしながら進む。

車内の暖房が効きすぎて、窓ガラスが曇る。

リィナヴェアルンは袖で曇りを拭くが、すぐに白く戻る。

運転手がラジオをつけていて、ポーランド語の天気予報が流れる。

「クラクフ、明日も雨」。

バス停で降りると、舗道に小さな水たまりが点々とあった。

寮の入口には、夜用のランプが灯っている。

紙の張り紙に「22時以降は鍵が必要」と書かれている。

靴を脱ぐと、廊下のカーペットがほんのり湿っている。

部屋は2段ベッドと白い机、椅子が2つ。

壁には前の住人が貼ったと思われるポスターの跡が四角く残っている。

シェフチェンコワがバッグをベッドの上に置き、チャックを開ける。

中からノートと黒いマグカップが出てくる。

マグにはひびが一本、薄く入っている。

リィナヴェアルンは机の引き出しを開け、メモ用紙と青い付箋を見つける。

窓の外では、街灯が丸くにじんでいる。


窓から差し込む午後の光が、ほこり混じりの床に淡く落ちている。荷物を置く場所も限られ、壁には寮生たちの注意書きが無造作に貼られていた。


「…思ったより、狭いね」

シェフチェンコワが小さく呟く。


リィナヴェアルンは荷物を床に下ろしながら、窓の外を見た。遠くに見えるバス停に人影がちらほら。心なしか街全体が、慌ただしいのに静かで、不思議な落ち着きを帯びている。


「寝る場所、決めようか。上段と下段、どっちがいい?」

二人は互いに視線を交わし、初めての共同生活の小さな選択に、少し戸惑いながらも笑みを交わした


リィナヴェアルンは上段に荷物を置き、少し身を屈めてベッドに座った。


「じゃあ…私は上段ね」と、小さく笑いながらつぶやく。

シェフチェンコワは下段に荷物を置き、手元のノートをちらりと見た。


「下でいいわ。寝返りも自由にできるし」


部屋の中は静かだった。窓の外から差し込む街灯の光が、カーペットに薄い影を落としている。二人とも荷物を片付け終わると、少し間を置いてから互いにベッドに腰を下ろした。


リィナーヴェアルがぽつりとつぶやく。

「家族、元気かな…弟、ちゃんと学校行ってるかな」


シェフチェンコワはうなずき、静かに言った。

「私も…母と妹のこと、気になる。でも、ここでやれることをやるしかないよね」


二人は窓の外を見つめながら、少しずつ呼吸を整える。暖房の音と外の街の静けさだけが、部屋に響いていた。


やがてリィナーヴェアルは布団に潜り、目を閉じる。

「おやすみ、シェフチェンコワ」

「おやすみ、リィナーヴェアル」


二人の呼吸が揃い、部屋は夜の静寂に包まれた。遠くから聞こえる雨音が、ほんの少し心を落ち着かせる。



朝の光が、カーテンの隙間から淡く差し込む。部屋の空気はまだひんやりとしていて、昨夜の暖房の余韻がわずかに残る。上段のベッドにはリィナーヴェアルのポニーテールがふわりと落ち、枕には昨夜の形が微かに残っている。下段のシェフチェンコワのベッドは、毛布が少し乱れ、ノートとペンが枕元の隙間に置かれている。


床には昨日持ち込んだ靴とスニーカーが整列せず、かろうじて壁際に寄せられている。カーペットの繊維にわずかな水滴の跡が残り、昨夜の雨の湿り気を微かに伝えている。壁には前の住人が貼ったポスターの跡がいくつもあり、四角く色褪せた部分が目立つ。注意書きや掲示物は無造作に貼られ、時間の経過を感じさせる黄ばんだ紙片が隅にわずかにめくれている。


机の上にはリィナーヴェアルの荷物がきちんと置かれ、黒いマグカップはひびの入ったまま、反射する光に微かに輝く。青い付箋とメモ用紙が引き出しから少しはみ出し、整然としていないが、日常の痕跡を示す。椅子は微かに引き出され、壁際に寄せられたバッグの上には、昨夜使ったノートや筆箱が無造作に置かれている。


窓の外では、街灯の光が雨に濡れた舗道を照らし、影が揺れている。遠くのバス停にちらほら人影が動き、夜の名残と朝の静けさが混じる。天井の蛍光灯はまだ点いていないが、自然光が部屋の隅々まで届き、床や家具の輪郭を柔らかく照らす。


部屋の角には小さなラゲッジラックが置かれ、二人のスーツケースが収められている。荷物の上には制服や防寒具が整えられ、布地の折り目やしわが朝の静けさの中で微かに影を作る。ベッドと机の間の狭い通路には、昨日の足跡の形がカーペットに薄く残っており、二人の動線を物語る。


空気はわずかに乾いているが、窓際の湿気がカーテンを揺らし、微かに布の香りを運ぶ。ドアは閉められたままで、廊下からの音はまだ届かず、部屋は二人だけの静寂に包まれている。


リィナヴェアルンは机の上に置かれた薄い紙に手を伸ばした。表紙には「生活のしおり」と大きく書かれており、その下には小さく「移民国籍審査期間中の移民生活ルール」と印刷されている。ページをめくると、朝の光に照らされて文字が少し浮き上がり、二人の目に滑らかに入ってくる。


「朝は7時から朝食、8時までには部屋に戻って自習や読書、9時から11時は自由時間。その後、昼食は12時から13時…」リィナーヴェアルは声に出して読み上げる。シェフチェンコワは横で肩を寄せ、静かに文字を追った。食事の時間、就寝の時間、入浴や洗濯、勉強の時間まで細かく決められていて、生活のリズムが初めて明確になった。


紙面には注意事項も記されている。共有スペースでは大声を出さないこと、ゴミは分別して廊下の指定の場所に出すこと、窓やベランダに私物を置かないこと。部屋の中では互いの荷物の配置や清掃のルールも書かれており、狭い二人部屋でも秩序を保つための工夫が細かく指示されている。


「審査が通れば、この生活を続けられるんだね」シェフチェンコワが静かに呟く。ページの下には「このしおりは滞在期間中有効。審査に合格すれば、ここでの生活はそのまま継続可能」と書かれており、二人の間に少し安堵の空気が漂う。戦争が終わったとはいえ、規則に沿った日常が確実に保障されることは、まだ不安の残る二人にとって小さな希望だった。


リィナーヴェアルはページを閉じ、マグカップに残る昨夜の茶の匂いを嗅いだ。外の街灯が朝の光に変わる中で、部屋は静かに目覚め、ベッドの上に残る毛布や枕、机の上のノートやペンが整然と朝の光を受けている。


窓の外の街灯がまだ淡く光る中、壁の時計が6時50分を指していた。朝食は7時から。二人はそっと時計を見比べ、あと数分で決まった時間になることを確認する。


「朝食まで、少しだけ自由時間ね」シェフチェンコワが低くつぶやく。部屋にはベッドや机、椅子、荷物が整然と並び、前夜の残り香がわずかに漂っている。壁の注意書きや窓の外の街の風景も、静かに朝の気配を伝えていた。


リィナヴェアルンは再び「生活のしおり」を手に取り、文字を指でなぞる。朝の食事、勉強、入浴、洗濯と、審査期間中の一日のリズムが丁寧に書かれている。文字通り時間ごとに区切られたスケジュールは、戦後の混乱の中で二人に小さな秩序を与えた。


時計が7時を回ると、二人はベッドから身を起こす。窓の外はまだ薄暗く、廊下から遠くの棟に灯る朝の光が見える。二人は荷物をまとめ、静かに部屋を出る準備を始める。

リィナヴェアルンが振り返り、部屋の景色を確認する。机の上のノートやマグカップ、壁の貼り紙が、ほんの少しだけ生活感を残したまま朝を迎えていた。


廊下に出ると、時計の針は7時5分を示している。静かな階段を降り、二人は食堂へ向かう。外の空気には雨上がりの湿り気が漂い、街全体が朝の光を受けて、ゆっくりと動き始めていた。


リィナヴェアルンとシェフチェンコワは、寮の廊下を抜けて食堂に足を踏み入れた。木の床がわずかに軋み、窓から差し込む柔らかい朝の光が、長テーブルや椅子に穏やかに反射している。食堂にはまだ他の住人もちらほらと集まり、静かに会話を交わしている。壁際には大きな棚があり、食器やトレーが整然と並べられていた。


二人は小さなトレーを手に取り、並んだ料理を見渡す。温かいスープの湯気が立ち上り、パンやゆで卵、サラダの色鮮やかな葉が朝の空気に香りを添えている。リィナヴェアルンは慎重にパンを一切れ取り、スープのカップを持ち上げた。口に含むと、ほのかに塩気があり、疲れた体をそっと満たす温かさが広がった。


シェフチェンコワは向かいに座り、目の前の皿に盛られた野菜と卵を見つめる。ゆっくりとフォークを持ち上げ、一口一口を味わう。その仕草は落ち着いており、戦火から逃れてきた緊張が少しだけ解けていくのが感じられた。


二人はほとんど言葉を交わさず、ただ食事のリズムに身を任せる。食堂の端では、他の生徒たちが小さな声で笑い、ナイフやフォークの触れる音が穏やかに響く。窓の外では朝の光がゆっくりと広がり、テーブルの上の水滴が輝き、落ち着いた日常の気配を伝えていた。


リィナヴェアルンはふと、スープの中で小さく揺れるカット野菜を見つめ、戦争で変わった日常の中で、こうした普通の食事がどれほど貴重かを思った。シェフチェンコワもまた、同じように窓の外の街を見やり、静かな安堵とともに食事を口に運ぶ。


二人の間には言葉は少なかったが、食事を通して互いに安心感が生まれ、戦後の新しい生活に向けた小さな一歩を、静かに踏み出しているようだった。食堂の空気は、淡い香りと柔らかな光、そして人々の静かな動きで満ちており、部屋での夜とは違う、温かく落ち着いた朝の世界が広がっていた。


周囲では、同じ寮の生徒たちが朝の静かな時間を過ごしている。小さな声で会話を交わすグループ、新聞や教科書を広げて黙々と勉強する者、トレーの上のスープをすする音が、柔らかい光に包まれた空間に響く。二人は互いに距離を取りながらも、視線をあちこちに向けて周囲の様子を確かめた。


リィナヴェアルンはスープのカップを軽く握り、穏やかながらも少し緊張した声で言った。「シェフチェンコワ、聞いた? ウクライナとロシアの戦争、戦争終結が2025年の7月7日に決まったらしいよ」


シェフチェンコワはフォークでサラダを一口すくい、眉をひそめながらも小さく息をついた。「そうなんだ……でも、ここで話すのはやばそうだから、その話は部屋でしようよ」


リィナヴェアルンは少し肩をすくめ、緊張を和らげるように微笑む。「わかった。じゃあ、食事を済ませてから部屋で話そうよ」


二人はトレーの上の料理に目を戻す。リィナヴェアルンはパンを一口かじり、熱いスープを少しずつ飲みながら、目の端で他の生徒たちの動きを追う。隣の席では、笑い声を押し殺しながら友達と冗談を交わす少女たち。遠くのテーブルでは、無言のまま教科書をめくる少年がいる。部屋に比べて広く明るいこの空間の中で、人々はそれぞれの日常を取り戻そうとしているようだった。


シェフチェンコワもまた、周囲を注意深く見回しながら、自分たちの言葉が耳に入らないように気を配る。心の奥では、戦争の記憶や家族のことがちらつき、言葉にするのはまだ勇気が必要だった。


二人は静かに食事を続け、口数は少ないながらも互いの存在を確認し合う。朝の光に照らされた食堂には、柔らかな温かさと、戦後の生活の一歩を踏み出すための静かな覚悟が漂っていた。食事を終える頃には、自然と小さな絆が生まれ、二人はそのまま部屋へ戻り、落ち着いた環境の中で戦争についての話をする準備を整えるのだった。


部屋のドアを閉めると、二人はお互いの視線を一瞬交わし、ベッドの縁に座った。リィナヴェアルンが深呼吸を一つすると、シェフチェンコワはそっとノートを膝に置いたまま、口を開く。「ねぇ、さっき食堂の話しの続きは?」


リィナヴェアルンは少しうつむき、声を抑えながら話し始めた。「……、戦後の統合型復興シナリオっていうのがあるらしい。ウクライナとロシア、そして欧米諸国が協力して、戦争の被害を回復しつつ、民主的な国家を作る計画なんだって」


シェフチェンコワは軽くうなずき、鉛筆を持った手を膝の上で組みながら聞く。「具体的には?」


リィナヴェアルンは目を少し細め、言葉を選びながら続けた。「まず、現政権の消滅。ロシアの今の体制は失効して、国家構造をリセットするんだって。個人的な悪行はプーチンさんの問題として処理されるらしい。だから普通の国民や軍人は無罪にされるみたい」


「ふむ……なるほど。それで?」シェフチェンコワは少し身を乗り出す。


「その後、新しい国家が誕生するんだって。ウクライナを含む新ロシア民主主義国家群として再構築されて、法治や政治の基盤も整備されるらしい。ウクライナは再建を一旦保留にして、その新国家の構造の中で新ロシア民主主義国家群統治に参加する形になる」


シェフチェンコワは軽く息をついた。「つまり、戦争被害を効率的に回復させながら、両方の国民の生活基盤を守る、ってことね」


リィナヴェアルンはうなずく。「そう、それだけじゃなくて、新国家全体の復興計画もあるんだって。インフラ整備や経済基盤の再構築、ウクライナ地域の復興も統合的に進めるらしい」


「でも、国の構造や法律が変わるってことは、生活もかなり変わるんじゃない?」シェフチェンコワは少し不安げに呟く。


「うん……、目標は戦争被害の回復と民主主義国家の成立、そして国民の生活基盤の確保だから………。自由主義連合陣営にロシアが加わる条件で、民主化が進むみたい。つまり、両国の市民が無理なく新しい政治体制に参加できるようにするんだって」


シェフチェンコワは少し黙って考え込む。「なるほど……でも、実際にこれがうまくいくかどうかは、まだ分からないよね」


リィナヴェアルンは小さく笑みを浮かべる。「そうだね。でも、こうやって話を聞いてるだけでも、少し希望が持てる気がするよ。戦争の記憶は消えないけど、少しずつ未来が変わっていくんだって思える」


シェフチェンコワも静かにうなずく。「……私も、少し安心した。まだ信じきれない部分もあるけど、こうやって話せるだけでも心が落ち着く」


二人は部屋の中でしばらく沈黙した。窓の外の光が柔らかく差し込み、二人を包む。戦争の影響は消えないけれど、未来への可能性が少しずつ見えてくる。




部屋のベッドの上にはそれぞれの荷物が整頓され、窓から差し込む朝の光が、ほこり混じりの空気に柔らかく反射していた。


リィナーヴェアルは自分のノートを開き、ページの端に丁寧に書かれた「戦争をする権利がない」の文字を指でなぞる。隣のシェフチェンコワも、自分のノートを広げて自分の「国際憲法 戦争禁止モデル(論理ベース)」の全文を静かに読み返していた。


「…私たち、これを本当に提出したんだね」リィナーヴェアルは小さな声でつぶやく。戦争の爪痕がまだ街のあちこちに残る中で、自分たちの言葉がこうして正式な審査資料になるという現実に、少しの緊張を覚えていた。


シェフチェンコワは静かにうなずき、ページを指で押さえながら言った。「うん。でも、内容としてはもうほぼ完成してるはず。あとは、細かい言い回しとか、誤解されそうな部分がないか確認するくらいかな。」


リィナーヴェアルは目を伏せ、窓の外をぼんやりと眺める。


「私たちが今、やるのはあくまで『提出物として提出する論文』の確認だから。話すのは余談として、軽くで十分。」シェフチェンコワは冷静に応える。その目には、戦争の混乱を経て築く秩序を慎重に見極める力が映っていた。


リィナーヴェアルはノートをめくりながら、考え込む。「でも、あの全文をこうして見ると、少し重複してる気もするね。戦争禁止の論理と、戦争をする権利がない、って部分。」


「本質は同じ。戦争は非効率で、正当化不可能だという点。提出物としては二つに分けた方が、読み手には理解しやすいかもしれない。」シェフチェンコワは静かに説明する。


二人はしばらく沈黙したまま、ノートを交互に見比べる。時折、窓の外の街路で遠くの足音や自転車の音がかすかに聞こえたが、二人の集中を妨げるものではなかった。


「うーん…まあ、これで大丈夫そうだね。」リィナーヴェアルはページを閉じ、軽く息を吐いた。「もし付け加えるなら、戦争防止のための監視機関の部分に、もう少し具体例を入れるくらい?」


シェフチェンコワは少し考え、微かに笑みを浮かべた。「そうね。でも、今の提出物の目的は、私たちが安全に移民として生活できることだから、過剰に書き込む必要もないかも。余談は部屋で話すくらいで十分。」


二人はそれぞれノートを閉じ、机の上に揃えて置いた。提出物としては完成しているという安心感と、不都合な現実とが、部屋の静寂の中で柔らかく混ざり合っていた。


リィナヴェアルンとシェフチェンコワは、提出した書類の予備を机の上に置いたまま、部屋の椅子に腰を下ろした。窓から柔らかい光が差し込み、床に落ちる影がゆっくりと揺れる。外の声は遠く、部屋の中には紙をめくる微かな音と、二人の呼吸だけが静かに響いていた。


リィナヴェアルンは、手元のノートに軽く指を置きながら、視線を窓の外に向ける。日差しが髪に当たり、栗色が淡く光る。シェフチェンコワは机の端に肘をつき、静かに書類の余白に目を落としていた。互いに言葉は少ない。提出が終わった安堵と、まだ結果が出ない不確かさが、空気の中にじんわりと漂っている。


リィナヴェアルンが小さくため息をつき、椅子の背もたれにもたれる。シェフチェンコワは軽く肩をすくめ、窓辺の光を眺める。部屋の中には、書類やノート、鞄、そして二人の存在だけがある。時間はゆっくりと過ぎていき、外の寮庭からかすかに笑い声が届く。


「……、こうして座っていられるのも、しばらくだけだね」リィナヴェアルンが静かに呟く。


シェフチェンコワは微かに頷き、紙の端を指で触りながら「うん」と応える。部屋は静かで、外の世界の喧騒から切り離された、小さな空間になっていた。提出は終わり、今は待つだけ。だが、二人にとって、この時間は確かな安らぎでもあった。


椅子の軋む音、紙の軽い触れ合う音、柔らかな光——小さな日常の感覚が、二人の間に静かに流れた。何も起こらず、ただ時間が過ぎていく。その静けさが、戦後の世界で初めて得た、些細だけれど確かな安寧のように…………。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る