この物件、小町につき。— Another Memory of KOMACHI —

三毛猫丸たま

## 春日小町は、名もなき犬を思い出す。

## 春日小町は、名もなき犬を思い出す。

《夏の土手、花火とふたりの記憶》


ひゅるる……ドンッ! ドドンッ!


夜空いっぱいに色が弾けた。

赤、青、金、緑――いくつもの花が一度に咲き乱れる。


光の粒が川面にぱらぱらと落ち、

はじける音が胸の奥まで響いてくる。


川面が一瞬だけ明るくなった。


――お盆の夏祭り。


灯は土手に座り、手にラムネ瓶。

隣の小町はいつもと同じ桃色の着物で正座、視線は夜空。


花火の明かりに照らされ、小町の横顔が一瞬浮かんだ。


「……犬って、ずっと誰かを待つのよ」


隣の灯が、ラムネ瓶を握ったまま首をかしげる。


「急にどうしたの?」


小町は夜空から視線を外さず、小さく笑った。


「むかし、そういう犬に会ったことがあるのよ。

この前の家で少し思い出しちゃったのよ」


灯は瓶の中のビー玉をコトリと鳴らしながら聞き返す。


「名前は?」


花火の音が、間を埋めるように空に響いた。


「“めだま”」


もう一発、花火。

パーンと音がして、光のしぶきが四方に飛び散った。


☆★☆


八月の終わり。

山あいのムラ。


田んぼの稲はもう頭を垂れ、

軒先ではおばあさんが豆を干している。


川べりでは子どもたちが遊んでいる。

その中に、桃色の着物を着た、金髪の小さな少女、

小町の姿もあった。


「もういっかい!」


竹の棒を持って、はしゃぐ小町。


追いかけっこの最中、細い路地へと入り込む。

曲がり角を抜けると、急に静かになった。


そこに、一軒の家があった。

板塀は色あせ、門戸には鍵もかかっていない。


――空き家だ。


好奇心のまま、そっと門戸を開く。


ギィ……


足を踏み入れ、少し中に入ると、奥から低い唸り声。


木陰の中で、丸い目がふたつ、じっと光っていた。


犬だ。

大きくて、真っ白な毛がふわふわしている。

堂々とした体格だが、警戒心は強い。


「……ご、ごめん。間違えたのよ……」


小町がそろりと後ずさる。

犬は耳を伏せ、牙を見せた。

「ヴゥゥゥ……」

唸り声がさらに低くなる。



次の瞬間――



「ぴぃひゃひゃーーーっ!? 来るでないーーーっ!」


犬が突進してきた。

吠えながら、土埃を巻き上げる。


小町は半泣きで駆け出した。

庭をぐるぐる回り、垣根を飛び越える。


――そのとき。


犬は足を止めた。

敷地の境から、一歩も出てこない。


小町はぜえぜえ息を切らしながら、振り返った。

犬は門の内側に立ち、じっとこちらを見ている。


☆★☆


それから何日か、小町はあの家を遠くから見ていた。


道端に立ち、塀越しにそっとのぞく。

犬は、いつも同じ場所に座っていた。

庭の木陰の中から動かず、誰かを待つように。


「……ずっと、そこにいるのね」


次の日、小町は小さな包みを持ってきた。


握り飯と、干した魚。

ムラの台所から、こっそり分けてもらったものだ。


門の前に立つと、犬がこちらを見た。

唸り声はないが、警戒は解いていない。


「今日は、これを持ってきたのよ」


そう言って、地面にそっと置く。

一歩、下がる。


犬はしばらく動かず、やがて鼻を近づけた。

ひと口かじると、もぐもぐと食べ始める。


小町はほっとして、笑った。


「……食べてくれるのね」


☆★☆


次の日も、その次の日も、小町は包みを持ってきた。

犬も小町も少しずつ近寄れるようになった。


五日目の夕方。

門の内側にしゃがんだ小町の足元まで、犬が歩いてきた。


「……もう、怖くないのね」


犬は鼻をくんくんと動かし、尾をぶんぶんと振った。


小町はふっと笑った。


「よく見ると目がくりくりしてかわいいのよ」


「……めだまくりくり……めだま……っ! めだまっ!」


「よし、決めたのよ。お前の名は――“めだま” なのよっ!」


めだまは一瞬きょとんとしたが、すぐに尻尾をぶんぶん振った。

そして、小町の胸に飛びついた。


「わっ、め、めだまっ!」


真っ白な毛はふわふわで、頬にあたるとやわらかい。

大きな体が押し寄せてくる感触に、小町はよろめいた。


めだまは嬉しそうに、小町の顔をぺろぺろと舐めた。


「や、やめるのよ、くすぐったいのよ!」


小町は笑いながら、めだまの頭をぎゅっと抱きしめた。


☆★☆


小町は毎日のように、めだまの家に通った。


門の前で声をかければ、すぐに大きな白い影が駆け寄ってくる。

ふわふわの毛並みが日に照らされてきらきら光る。


「ほれ、今日は木の枝なのよ!」


小町がひょいと放ると、めだまは軽やかに追いかけ、ガブリとくわえて戻ってくる。

返すか返さないかで引っ張りっこになり、二人して土間にひっくり返った。


別の日は、門の前で相撲ごっこ。


「ぬおぉーっ、負けぬのよー!」


小町が両手で押せば、めだまは胸で受け止め、逆に押し返す。

尻もちをついた小町の顔を、めだまはすかさずぺろぺろと舐めた。


またある日は、縁側で並んで昼寝。

小町はめだまの背中にごろんと寄りかかり、

ふわふわの毛に埋もれながら目を閉じた。

耳元で聞こえるのは、穏やかな寝息と、ときどきしっぽが床をたたく音。


そんな日々が、当たり前のように過ぎていった。



そしてある夕暮れ、小町はふとめだまの瞳を見つめながら、

独り言のようにつぶやいた。


「……めだま……ご主人様はいないのかな?」


独り言のつもりだった。

けれど――


――― 坊ちゃん、帰ってくるまで守ってろって、言ったからな ―――


低く、かすれた声が耳に届いた…………気がした。


小町はぱちぱちと瞬きをした。


目の前のめだまは、尻尾を揺らしているだけだ。


☆★☆


次の日、小町は学び舎に向かった。

縁側で帳面をめくっていた師範の前に、ぱたぱたと駆け寄る。


「ねぇ、師範。このムラにね、大きくて真っ白な犬を飼ってた家って、あったのかしら?」


師範は手を止め、小町をじっと見た。


「……どこで、その犬を見た?」


小町は空き家の場所を指さす。


「あそこの古い家なのよ。庭の木のとこに、いつもいるのよ」


師範は、ふぅとため息をつき、古い巻物を取り出した。


「そこはな……百五十年前のイクサで、家族全員滅んでしまった家じゃな」


「坊ちゃんというのは、そこの次男坊じゃな。イクサに行ったきりじゃ」


小町は少しだけ黙り込む。

昨日の声が、頭の中で響いた。


――― 坊ちゃん、帰ってくるまで ―――


「……そうなんだ……もう、帰ってこられないのね……」


そうつぶやき、ふと空を見上げた。

空は青く晴れ渡り、雲ひとつなかった。


☆★☆


師範の言葉が、胸の奥でずっと響いていた。

落ち着こうとしても、心臓が早鐘を打つように動いて止まらない。

頭の中に、木陰の中でじっと待つめだまの姿が浮かぶ。


あの瞳を、すぐに見に行かなければならない――そんな気がした。

気づけば、もう足が前に出ていた。

ただ一つわかるのは、今すぐめだまのもとへ行きたいということだけだった。


学び舎を出た小町は、胸がざわざわしていた。

息が詰まるような感覚に、足が勝手に早くなる。


気づけば、駆け出していた。


「……めだま……っ!」


喉の奥が熱くなり、視界がにじむ。

袖で涙をぬぐいながら、一直線にめだまの家へ向かう。


門の前まで来た小町は、息を切らしながら立ち止まった。

めだまはいつものように木陰の中に座っている。


「めだま……坊ちゃんはね……」


言葉にすると何かが壊れてしまいそうで、小町はしばらく立ち尽くしていた。


小町は、大きく息を吸い込んで、めだまに本当のことを告げた。


「めだま……坊ちゃんはね……もう、帰ってこられないのよ……」


言葉にした途端、涙がぼろぼろとこぼれた。


「ずっと待ってたのに……ごめんなのよ……」


膝をつき、めだまに抱きつく。

真っ白な毛が顔に触れ、ぬくもりが広がる。


めだまは何も言わず、ただその大きな体で小町を包んだ。


☆★☆


どれくらい泣いていたのか、小町にはわからなかった。

腕の中のぬくもりが、少しずつ薄れていく。


「……めだま?」


顔を上げると、白い毛並みが淡い光に透けていた。


『……そうか。なら、もうええな……ありがとう、娘っ子……』


「い、いやなのよ……そんな顔しないでなのよ……」


必死にしがみつく小町。

だが、ふわふわの毛は指の間からすり抜け、めだまは静かに消えていく。


最後に、小町の頬をぺろりと舐めて。


☆★☆


「……めだまっ!? めだまーっ!」


小町は庭の中を、全力で駆け回った。

草むらをかき分け、物陰をのぞき、裏手まで走り抜ける。


「どこなのよ! 返事するのよーっ!」


右へ左へと駆け回り、必死に名前を呼び続けた。


そして――庭の片隅で、ふと足が止まる。


そこには、古びた犬の石像があった。

小町はしゃがみ込み、そっと手を伸ばす。


ひんやりとした石の感触――

……のはずが、一瞬だけ、ふわふわとやわらかい毛の感触がした。


小町は目を見開き、それからやさしく微笑んだ。


「……めだま……坊ちゃんに会えたかな……」


☆★☆


川の向こうで、最後の花火が咲いた。

ぱちん、と小さな音を立てて、夜空に消える。


灯は横目で小町を見る。


「……その子、幸せだったと思う?」


小町は少しだけ間を置き、ゆっくりとうなずいた。


「……わらわ、忘れてなかったのよ。ちゃんと、覚えてたのよ……」


ふたりは立ち上がり、並んで土手道を歩き出す。

夜風が、浴衣の裾をやさしく揺らした。


歩きながら、小町はそっと灯の手を握る。

灯は驚いたように見て、そして笑った。



春日小町(かすが こまち)

椎名 灯(しいな あかり)



ふたりの背中を、夏の夜風がそっと押していく。


小柄な小町の金色の髪が、やわらかく揺れた。

桃色の着物の背を、大きな三日月が静かに照らしている。

その隣を歩く灯は、猫背を少し伸ばし、小町の手をしっかり握っていた。


頭上には、満天の星。

その輝きが川面にもこぼれ、まだ花火の余韻がふんわりとただよっている。


遠くから、祭りの片づけを知らせる声と、木箱を重ねる音が届く。

月明かりに照らされたふたりの影は、土手道に寄り添うように長く伸びていた。


(おわり)



最後まで読んでいただきありがとうございました。

よろしければ本編も読んでみてください。

https://kakuyomu.jp/works/16818792435711648979/episodes/16818792435712840358

20250815_三毛猫丸たま

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