第5章:時の重さ、静寂の音

 都市の中枢は、重力の中心ではなかった。なのに、あらゆる“意味”がそこに引き寄せられているようだった。


 塔の中心へと至る階段は、始まりと終わりがねじれて繋がった螺旋構造で、足を踏み入れるたび、階段そのものが「記憶」を刻んでいくような錯覚に襲われた。


「……気をつけて」


 ノアがぽつりと呟く。その声に、ふと風の音が吸い込まれていった。


 誰かが歩いた痕跡が、すでにそこにあった。

それは靴の跡でも、影でもない。“時間そのものが、何度も通過した痕”だった。


 ハルカと久賀は最後尾にいた。ハルカは無言のまま背中を押されるように進み、久賀は意味もなくカメラを回していた。録画ランプは消えたまま。映像記録すら、ここでは意味をなさない。


「もう少しで中心部……」


 そう呟いた時、塔の壁面が音もなく変質した。


 目の前に広がったのは、直径十数メートルの透明な球状空間だった。壁も天井も床もなく、境界すら曖昧だった。だが、その中心に浮かぶ“何か”だけが、異様な重みでそこに在った。


 それは、結晶だった。


 だが鉱石とは異なる。脈動している。鼓動している。光でもなく、色でもなく、出来事の断片を発していた。


 俺は言葉を失った。弟・瑛の手帳にあったスケッチと、まったく同じだったから。


《時相結晶核。ノアと、何かが繋がっている。》


《もし彼女が“観測”をやめたら、都市は崩れるかもしれない。》


 ノアは一歩、結晶核へと歩み出る。そして、ぽつりと口を開いた。


「ここで、わたしは何度も死んだの。でも、毎回、戻されるの。ちゃんと死ねないの。観測してるかぎり、世界は終わらない。都市も、時間も、止まらない」


ハルカが息を呑む。


「それって……」


「わたしがここに残れば、みんな外に出られるよ」


 ノアは微笑んだ。優しく、でもどこか遠い場所を見ていた。


俺は、その目を正面から見つめ返した。


「そんなの、納得できない。お前が“道具”としてここにいるなんて――そんな世界に戻って何ができる」


 ノアは首を振る。


「わたし、怖いの。ここを出たら……自分が自分じゃなくなる気がする」


「じゃあ、確認しよう。お前がここに縛られている理由を、もう一度」


 弟の手帳を広げ、ページの端に滲んだインクをなぞる。


《彼女は、観測者であると同時に、代替不可能な存在だった。》


《都市が彼女を選んだのか、彼女が都市を生んだのか、それはもうわからない。》


「もし、お前がこの都市の“夢”そのものなら、俺は――」


 言葉の続きを飲み込んだ時、ノアの頬に涙がひとすじ流れていた。


「お兄ちゃん……ありがとう。でも、もういいよ。そろそろ、誰かが終わらせないと」


 そして彼女は、結晶核に手を伸ばした。その瞬間、都市が震えた。音もなく、形も変わらず、ただ“時間”だけが大きく軋んだ。


 そして、ノアの姿がゆっくりと消え始めた。


 ノアの輪郭が薄れていく。


 まるで記憶の中から削り取られるように、静かに、静かに。


「ノア!」


 手を伸ばす。だが、指先は空を掴んだ。


 彼女は振り返ることなく、都市の中心にある“時間の結晶”の中へと溶けていった。その瞬間、結晶核が青白い光を放ち、都市全体が音もなく――深く、呼吸した。


「リセットが……来ない」


 久賀の震えた声が響いた。


 たしかに、何かが変わった。


 空が動いている。太陽が沈んでいく。さっきまでの“止まった日没”ではない。本物の時間が流れ始めていた。


 塔の外に出た瞬間、ハルカが思わず膝をついた。遠くに見える空中都市の輪郭が、徐々に霞んでいく。


 それは崩壊ではなかった。都市そのものが、“時間から剥がれ落ちて”いくようだった。


 俺は塔の最上部に立ったまま、空を見上げていた。


 ノアはもう、いない。彼女の気配も、声も、観測記録のどこにも残らない。結晶核の崩壊と同時に、ノアという存在の痕跡は都市とともに消去されていく。


だが、自分の中には確かに“触れた記憶”があった。


 彼女が見せた微笑み。何度も繰り返されたはずの会話。そして、別れ際に残した最後の言葉。


「わたしが消えても、誰かが覚えてくれていれば、それでいいの」


 ノアがいなくなったあとの都市は、まるで重さを失ったように空中に漂い続けていた。風が吹いても動かず、ただ透明な軌道を描くように浮かぶ“空白”。


 ハルカがぽつりと呟いた。


「……あの子、都市だったんだね」


「都市であり、鍵でもあり、なにより――人間だった」



 ハルカの声は沈んでいた。


「生まれた時からこの空間に取り込まれて、それでも“生きよう”とした」


 俺は頷いた。


「彼女は自分の役割を知ってた。……でも、それは“生きる理由”にはならなかったんだ」


 久賀は小さく録音装置のスイッチを押した。赤く光ったランプは、再び時間が記録できるようになった証だった。


 出口は、開いていた。


 都市の重力場が弱まり、地表と再接続されたことで、地図にない“通路”が形成されていた。あの異常な森を越え、彼らはようやく現実へと戻ることができる。


 けれど、誰ひとり、言葉を発する者はいなかった。


 森を抜け、空を仰いだとき、俺はそっとポケットに手を入れた。そこには弟の手帳。ページの隙間に、くしゃくしゃになった紙切れが挟まっていた。


 開いてみると、こう書かれていた。


《空中都市には、時を繋ぎとめる少女がいた彼女の目は未来を見ていた。だが、未来とは、誰かが“記憶してくれる”ことだったのかもしれない。》


 目を閉じ、深く息を吸った。そして、言った。


「……ありがとう、ノア。お前がいたこと、俺は忘れない」


 その瞬間、空中都市が最後の輝きを放ち、まるで星のように、静かに夜空へと溶けていった。


 まるで最初からそこに存在しなかったかのように。


「ねぇ、お兄ちゃん。わたし、時間の中に住んでいたの。でも本当はね、ほんの少しだけ、誰かと“生きてみたかった”んだ。……それが、わたしの記憶。君の中に残ってくれるなら、それだけでいいの」

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