第3章:ループの狭間
朝がくる。
また、同じ空。
同じ雲。
同じ鳥の声。
でも、昨日の朝とはちがうの。
ほら、わたしの足元に落ちてる葉っぱ、ちょっとだけ形がちがう。
あの木の枝も、前よりほんの少しこっちに曲がってる。
ね、ちがうでしょ?
でもみんな、「同じだよ」って言うの。
“これは毎朝ある朝”だって。
ほんとうかな?
わたしは、森で目をさます。
鳥の鳴き声が聞こえて、風のにおいがして、地面は少しぬれている。
それは“昨日”とおんなじ。
でも、昨日の“次”じゃない気がする。
なんて言えばいいのかな。
“ずっと昨日の続きで、だけど今日はまたはじめまして”っていうか。
うまく言えないけど……わたしには、それが“普通”なんだ。
空の上には、いつも街が浮かんでる。
でも、見える日と見えない日がある。
わたしがそれを「思い出す」と、見えるようになる。
わたしがそれを「忘れる」と、街も眠る。
だから、お兄ちゃんに出会った朝も、たぶん“最初”じゃないの。
きっと、“また”なんだと思う。
だって夢の中で見たもん。
お兄ちゃんの顔。声。歩き方。
夢の中で、何度も何度も、助けてもらったの。
でもそのたびに、わたしは名前を忘れちゃう。
自分の、そしてお兄ちゃんの名前さえも。
お兄ちゃんが来る日は、空が少し違う。
鳥たちの鳴き方が変わるし、風が“左から”吹く。
あとね、時間が……やさしくなるの。
いつもは、時間ってとがってるの。
触るとチクッて痛い。
でもお兄ちゃんがいると、時間はまるくなる。すべすべしてて、あったかいの。
だから、今日も“その日”だったらいいなって思ってる。
また出会えるかどうかは、わたしじゃ決められない。
だけど、思い出すことはできる。
だから、今日もわたしは目をさます。
“同じ朝”に、何度でも。
まだ名前のない、でもとても大事な朝に。
おはよう。
……また、会えたね。
⸻
隊の全員が一時的に別行動になり、ノアとふたりで木陰に腰を下ろす。空は赤く染まり、都市は遠くで静かに光っている。時間の感覚が揺らぐ中、ノアがぽつりと話し始める。
「お兄ちゃん、さっきね、何か忘れたでしょ?」
「……なんでわかるんだ?」
ノアはにこっと笑った。
「わかるよ。忘れるときって、目がちょっとだけ暗くなるの。たぶん、“光をもらえなかった記憶”が落っこちちゃうんだと思う」
「……なるほどな」
と言いながら苦笑した。
「そうか。俺の目、そんなに素直か」
「うん、素直。……あと、すこし寂しそう」
ノアは木の枝を指先でなぞりながら言った。
「わたしね、誰かと名前を交換するの、初めてだったんだよ」
「交換?」
「うん。“ノア”って呼んでくれたでしょ?だから、わたしも“お兄ちゃん”って呼べた。そうすると、この世界がちょっと“ほんとう”になる気がするの」
俺は何も言わず、目を伏せた。
「誰かと、名前を共有するって、時間を分け合うことなんだよ」
ノアは静かにそう言った。
「お兄ちゃんは、わたしの時間を覚えててくれる?わたしが、“ここ”にいたってこと」
「もちろんだ。忘れるもんか」
即座に言った。
ノアはその言葉に、ふっと息を吐く。
「……じゃあ、大丈夫。わたし、消えても怖くないよ」
「消える?」
「ううん。そういう時が、いつか来るだけ。でも“誰かが覚えてる”なら、それは“なかったこと”にはならないから」
⸻
空中都市が、また少し近づいたように見えた。だがそれは、二人だけに見えている現象だった。
“午後五時五分”
腕時計が、またそこを指していた。
何度目だろう――そう考えたとき、自分でもゾッとした。指の関節に残る微かな湿り、脳の奥に張りついた圧迫感。すべてが「初めてではない」感覚を伝えてくる。
しかし他の隊員は、まるで何も起こっていないかのように振る舞っていた。
「少し休憩にしよう」
城嶋カエデがそう言い、荷物を降ろした。木暮は無言で機材を点検し、ナツキは焚き火の準備を始めている。
変わらない。誰も、何も。
いや、“変わっていないこと”こそが、異常だった。
⸻
その夜、夢を見た。
都市の影の中で、誰かがこちらを見ていた。
それは弟だった。
南雲 瑛。
瑛は口を開いて、何かを言おうとした――が、音は届かなかった。
代わりに聞こえてきたのは、少女の声だった。
「お兄ちゃん、“その日”から動けなくなった人の顔って、似てくるんだよ」
振り返るとノアがいた。彼女の目が光っていた。まるで都市の結晶のように、どこまでも透明で、底知れなかった。
「だからわたし、あなたの顔、知ってる気がするの。ほんとうは、ずっと前から。」
目が覚めたとき、また同じ朝だった。
⸻
俺はカメラのフィルムを確認した。やはり巻かれていない。記録されていない。昨日何があったかを、証明できるものがない…
ノアがその背後から声をかけた。
「ねえ、お兄ちゃん。“きのう”って、ここにあると思う?」
「……どういう意味?」
「だって、みんな“今日”のことしか話さないでしょ。さっき食べたものの味も、同じこと言うし。ハルカさんも、ナツキさんも、“何回も”同じ話してるよ。でも、“自分が繰り返してる”って気づいてないの」
辺りを見回した。焚き火の準備をするナツキ、静かに地図を整えるカエデ。
たしかに、昨日も同じ光景を見た気がする。しかも、全く同じ動きで。
「……俺は……覚えてる。昨日と違う“今日”が来てないことを」
「だから、わたしはあなたのこと、“今日”と呼ばないんだよ」
ノアはそう言って微笑んだ。
「あなたは、時間の外に“少しだけ足を出せてる”人だから」
⸻
午後。ナツキがふとした拍子に足を滑らせ、崖から落ちた。
その瞬間、誰もが絶叫した。だが――彼は無傷で、地面に座っていた。“前の自分”のように、同じ姿勢で。
「……え?」
彼はぽつりと呟いた。
「今……俺、落ちなかった?」
久賀が映像を巻き戻す。そこには、ナツキが落下する姿が一瞬だけ写っていた。だが、その後すぐ、画面が巻き戻るように白く飛んだ。
「時間が……戻った?」
ハルカの声が震える。
「ループは、死を拒むんだ…」
俺はそうつぶやく。
「死も、記録も、進行も拒む。その代わりに、“今日”だけをくり返させる。しかも、繰り返すうちに“誰が何を知っていたか”すら、曖昧になっていく」
「それじゃ……この都市は、一体……」
久賀の顔が青ざめていた。
「……あれ? えっと……なんだっけ、俺……」
久賀が、口を開いたまま立ち尽くしていた。
カメラを胸元に抱えたまま、こちらを見ている。目は焦点を失っていた。
俺は慌てて駆け寄る。
「久賀さん? どうした?」
「いや……俺……何か思い出そうとしたら、名前が……」
彼は指先で自分のこめかみを押さえた。
「ここに、“音”がある気がするんだ。でも……それが何を意味するのか、わからない……」
「久賀亮だろ? 記録係の」
そう告げると、久賀は目を見開いた。だが、すぐに首を横に振った。
「いや、それ……違う。違う気がする。それ、たぶん“さっきの俺”の名前なんだよ」
「さっきの……?」
「……俺、今の俺は……それじゃない気がする。だって、“久賀亮”って名前に、感情がついてこない。声に出しても、俺の中に入ってこないんだ」
彼の言葉に、背筋が冷たくなる。“名前”が、ただの記号に変わっていく――その瞬間。
「それってつまり……お前が、都市に“取り込まれ始めてる”ってことなのか……」
久賀は静かに笑った。だがその笑みには、不安も恐れもなかった。ただ“実感がない”という空虚だけがあった。
「名前を忘れるって、こわいね。今、自分が話してるってことだけはわかるけど……“俺”って言葉に、つながってない」
「お兄ちゃん、それが“最初のサイン”だよ」
ノアがすっと俺の隣に立った。
誰が呼んだわけでもない。彼女は、忘れられた名前の“匂い”に気づくように、そこへ現れた。
「名前が消えるとね、その人は自分を思い出すために、“他人の言葉”に頼るようになるの。でもそれって、もう“自分の時間”じゃなくなるってこと」
俺は、久賀の顔を見た。
さっきまで仲間だったはずの顔に、ほんのわずかな“他人の輪郭”が浮かんでいた。
「大丈夫。まだ、全部は消えてない」
ノアが言った。
「でも……このままじゃ、“久賀さん”は久賀さんじゃなくなる。この都市の“音”になっちゃう」
⸻
それは、人間という存在が崩れ始める音だった。記憶よりも先に、“名前”が奪われる。
存在の“輪郭”が、都市に吸われていく――
そういう場所なのだ、ここは。
⸻
その夜、ノアは俺の隣に座って、火の揺らめきをじっと見ていた。
「お兄ちゃん、もうすぐみんな、忘れるよ。カエデさんも、ハルカさんも、名前を呼んでも、返事がなくなる」
「それでも、俺は……覚えてる」
俺は言った。
「お前がここにいることも、弟の顔も、あの都市が浮かんでいることも、全部」
「じゃあ、わたしのことも覚えててね」
ノアはそっと言った。
「わたし、わたし自身を信じられなくなるときが来るから。“わたしって誰だっけ?”って思ったときに、お兄ちゃんの顔が浮かべば、きっと大丈夫」
⸻
翌朝。
俺以外の誰も、ノアの存在を覚えていなかった。
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