第5話 - 教室と名前と指導と
放課後の教室は、まだ蛍光灯の光が柔らかく残っている時間帯だった。
俺は、机の上にノートと教科書を広げ、天城に数学を教える準備をしていた。
向かいに座る天城は、いつものツンツン顔。
でも今日は違う。
いつもは無表情で「ねえ、あんた」と呼んでくるのに、目の奥には真剣な光がある。
「ねえ、ここってどうやるの?」
天城は短くそう訊く。声は少し強めだが、集中しているのがわかる。
俺は心の中で少し眉をひそめた。
――また「ねえ」か。正直、ちょっと面倒だ。
これまで何度も呼ばれてきたけれど、やはり呼び方には慣れない。
「……名前で呼んでくれ」
思わず言ってしまった俺に、天城は少し驚いたように目を丸くする。
「……名前?」
「俺の名前は、佐伯直哉。だから、呼ぶときは『佐伯』か『直哉』で頼む」
普段の無表情の奥にある緊張を感じつつも、俺は真剣に言った。
天城は少し考え込んだあと、口元を小さくゆがめて笑ったような気がした。
「……じゃあ、佐伯、ね。わかった」
その瞬間、心の奥で小さな達成感が湧く。
普段はツンツンしていて、話しかけるときだけ当たりが強い天城に、少しだけ歩み寄れた気がした。
⸻
ノートを開き、問題を指さす。
「ここはこうやって計算するんだ」
指導しながら、俺は天城の横顔をちらりと見る。
眉をひそめ、集中しているその姿は、昨日の廊下とはまた違った印象で、少しだけ可愛く見えた。
「ねえ、佐伯、ここってなんでこうなるの?」
短く鋭い質問。
「それは…式をこう変形するからだ」
俺がゆっくり説明すると、天城は目を丸くして頷く。
普段は無表情なのに、理解した瞬間に小さく息をつく。
その微かな変化が、俺にとっては面白くて、少し意地悪心も湧く。
「ねえ、佐伯、もう一回教えて」
何度も訊くその態度に、俺は軽くため息をつくが、心の奥では嬉しかった。
教えることが、彼女との距離を縮める手段になっている気がしたからだ。
⸻
時間が経つにつれ、天城は集中力を切らさず、問題を一つずつ解いていく。
「ねえ、佐伯、ここって…」
「ああ、それはこうするんだ」
少しずつ会話が増え、口調も柔らかくなっていく。
そのたびに、「あんた」と呼ばれることはなくなり、俺の名前「佐伯」が繰り返される。
言葉のリズムが、自然と俺たちの距離を縮めていく。
終わったあと、天城はノートを閉じ、少し顔を上げてこちらを見た。
「……ありがとう、佐伯」
素直に名前で呼ばれたことに、胸の奥が少し熱くなる。
普段はツンツンで当たり強めなのに、この一言はまっすぐに心に届く。
俺は微かに笑いながら、ノートを片付ける。
「これで分かったか?」
「うん、佐伯のおかげで分かった」
普段のツンツンとした態度の裏にある素直さを、少しだけ垣間見た瞬間だった。
窓の外には夕日のオレンジ色が残り、教室を柔らかく染めている。
窓と机と視線。
ツンツン系後輩との距離は、名前を呼ぶことで少しだけ縮まり、俺の側近・久賀の存在も心の片隅で支えてくれる。
今日の教える時間は、ただの勉強ではなく、二人の関係に新しいページを刻む一歩になった――そう思えた午後だった。
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