第十六話:新たなる盤面と神殿の後悔

ランガでの日々は、驚くほど平穏で、そして満ち足りたものだった。

俺が「コーザの館」と名付けた屋敷は、もはや単なる住居ではなく、俺の計画を推進するための巨大な司令塔として、完璧に機能していた。


館での俺の朝は、エリアナからの定時報告で始まる。


「アッシュ様、おはようございます。こちらが昨晩までの、コーザ村と黒鉄鉱山の生産データです」


彼女は、少し隈のできた顔に、研究者特有の輝きを宿しながら、分厚い書類の束を俺の前に置いた。

そこには、作物の成長速度、土壌の魔力含有量の変化、鉱石の産出量と純度の推移などが、彼女独自の理論によって、緻密にグラフ化され、分析されていた。


「コーザ村の生産性は、依然として上昇を続けています。あなたの魔法による土壌改変と、私が作成した輪作マニュアルの相乗効果は、予測を15パーセント上回る結果を出しています。黒鉄鉱山も、先日あなたが遠隔で行った追加ブーストにより、産出量が再びピークに達しました」


「そうか。順調だな」


俺は、その報告書に静かに目を通した。エリアナの存在は、俺の力を、より安定的で、持続可能なものへと昇華させてくれていた。俺の感覚的な「奇跡」を、彼女が論理的な「システム」へと翻訳してくれる。この協力関係は、まさに理想的だった。


報告が終わると、俺は中庭にある訓練場へと向かう。そこでは、朝日を浴びながら、「灯火の団」の三人が、リョウとケンを相手に、汗だくになって模擬戦を繰り広げていた。


ガィィン! と、甲高い金属音が響き渡る。

ミリアの振るう剣が、リョウの槍と激しく火花を散らした。数ヶ月前まで、ゴブリン相手にすら苦戦していた少女の剣とは思えない、鋭さと重み。


「まだまだ! その程度か!」


リョウは、ミリアの剣を弾き返すと、容赦なく追撃の突きを繰り出す。ミリアは、それを紙一重でかわし、即座に反撃へと転じた。

少し離れた場所では、ゴードンが、ケンの持つ大盾に、渾身の力でバトルアックスを叩きつけていた。以前のような力任せの攻撃ではない。体の軸を使い、最小限の動きで、最大限の破壊力を生み出す、洗練された一撃。だが、ケンは、その重い一撃を、揺らぐことなく受け止めていた。


「ゴードン! 攻撃が単調だ! もっと緩急をつけろ!」


「ティナ! 詠唱が長い! 敵は待ってくれないぞ!」


ピートも、今では訓練の監督役として、彼らに的確なヤジを飛ばしている。

彼らの成長は、目覚ましいものがあった。アッシュのバフによる超人的な身体能力の向上と、限界を超えた訓練の繰り返し。そして、エリアナによる科学的な分析に基づいた指導。その全てが、彼らの才能を、異常な速度で開花させていた。

もはや、彼らはC級冒険者などというレベルではない。B級、いや、A級パーティーとも渡り合えるだけの実力が、身につきつつあった。


ランガでの生活は、順風満帆だった。

黄金の天秤ギルドとの協力関係は盤石となり、コーザ村の富は増え続け、仲間たちは日々、成長していく。俺は、この平穏な日常が、まるで永遠に続くかのような錯覚さえ覚えていた。

だが、俺は知っている。世界とは、常に変化するものだ。そして、平穏とは、次なる嵐の前の、ほんの束の間の凪に過ぎないことを。

その波紋は、ある日の午後、一人の男の訪問によって、もたらされた。



ギルドマスターのバルドが、「コーザの館」を訪れた。

アポイントもなしに、彼が自らここまで足を運ぶのは、極めて異例のことだった。その神妙な顔つきから、俺は、ただ事ではないと察した。


「アッシュ殿……少し、厄介なことになった」


応接室に通されたバルドは、開口一番、そう切り出した。エリアナも、その場に同席している。


「西の国境で、きな臭い動きがある。我がギルドの重要な取引先である、エリアン王国が、隣国のガルニア帝国から、侵略されようとしている」


バルドは、テーブルの上に、大きな地図を広げた。

そこには、王国の西部に位置する、二つの国が示されている。一つは、豊かな平野と美しい文化を持つ、小国エリアン王国。もう一つは、その北に位置し、荒涼とした山岳地帯を領土とする、軍事国家ガルニア帝国。


「ガルニア帝国は、代々、好戦的な王が支配する、尚武の国だ。自国の不毛な土地では、国民を養いきれず、常に、周辺諸国への侵略を繰り返してきた」

エリアナが、冷静な口調で、補足情報を加える。

「一方、エリアン王国は、農業と芸術を国是とする、平和を愛する国です。軍備は、最低限の自衛力しか保有していません。両国の国力、特に軍事力には、十倍以上の開きがあります」


「その通りだ」と、バルドは頷いた。

「ガルニア帝国は、エリアン王国の豊かな穀倉地帯を狙い、国境付近に、大軍を集結させている。宣戦布告も、時間の問題だろう。……そうなれば、エリアン王国に、勝ち目はない」

彼の顔には、商人としての、深い憂慮が浮かんでいた。

「我がギルドは、エリアン王国に、多額の投資をしている。穀物や芸術品を独占的に輸入する代わりに、多額の金を貸し付けているのだ。もし、エリアンが滅び、ガルニアに併合されるようなことになれば、その債権は、全て焦げ付く。ギルドが被る損害は、計り知れない」


バルドは、そこで一度言葉を切り、俺の目をじっと見た。

「アッシュ殿。君の意見が聞きたい。商人として、私はどう動くべきだろうか。戦争が始まる前に、エリアンから全ての投資を引き上げ、損切りするべきだろうか。それとも……」


彼は、俺の「予言」の力を、頼ってきたのだ。

俺は、黙って、地図を見つめていた。

エリアン王国と、ガルニア帝国。絶望的な国力差。風前の灯火である小国。

俺の頭の中では、《マインドブースト》が、超高速で、未来のシミュレーションを繰り返していた。

バルドやエリアナが考えているのは、あくまで、この戦争というリスクを、いかにして「回避」するか、ということだ。商人として、技術者として、それは当然の思考だろう。


だが、俺の視点は、違った。

俺は、この戦争を、単なるリスクとして見てはいなかった。

これは、チャンスだ。

これまでの経済支配とは、次元の違う、新たな影響力を手に入れるための、巨大なチャンス。

もし、この絶望的な戦況を覆し、エリアン王国を勝利させることができたなら。

俺は、一国を丸ごと、救国の英雄として、その手中に収めることができる。

ギルドを介した間接的な支配ではない。国家そのものへの、直接的な影響力。それは、俺の計画を、次のステージへと進めるための、またとない機会だった。


俺は、顔を上げた。そして、二人の驚愕する顔を前に、静かに、しかし、はっきりと告げた。


「バルドさん。投資は、引き上げるべきではありません」

「……なに?」

「むしろ、増やすべきです」


「正気か、アッシュ殿!?」

バルドが、思わず叫んだ。エリアナも、信じられないという顔で、俺を見ている。

「滅びる寸前の国に、さらに金を注ぎ込めと? それは、商売ではなく、ただの自殺行為だ!」


「いいえ」と、俺は首を振った。

「これは、私がこれまで行ってきた中で、最も確実で、そして最も利益の大きい『投資』です」

俺は、地図の上で、エリアン王国の国章が描かれた駒を、指でなぞった。


「エリアン王国は、勝ちます。私が、勝たせますから」


その言葉は、絶対的な自信に満ちていた。それはもはや、予言や予測の類ではなかった。未来を、自分の手で創造するという、神にも等しい意志の表明だった。

バルドとエリアナは、その言葉に、完全に気圧されていた。彼らは、俺がただの人間ではないことを、知っている。だが、一国の戦争の勝敗すらも、覆せると言うのか。

俺は、二人に向かって、これから始まるであろう「神の視点」から見た、戦争の筋書きを、語り始めた。


「戦争の勝敗を決めるのは、兵士の数や、武器の性能だけではありません。士気、補給、情報、そして、天候。それら全ての要素が、複雑に絡み合って、結果を生み出す」

俺は、エリアン王国の地形図を指さした。

「この国の地形は、防衛側に、圧倒的に有利にできています。この谷間に敵を誘い込み、この森で奇襲をかける。兵士たちの身体能力と士気を、俺の力で極限まで引き上げれば、少数で大軍を打ち破ることは、十分に可能です」

「敵の補給路は、この一本道しかない。ここを、天候を操って、数日間、機能不全に陥らせます」

「敵の将軍は、傲慢で、短期決戦を好む性格だ。その心理を利用し、我々の罠へと、誘導します」


俺は、まるで、盤上の駒を動かすかのように、淡々と、勝利への道筋を語った。

それは、もはや、人間の立てる戦略ではなかった。戦場に存在する、ありとあらゆる要素を、全て自分の手で操作できるという、絶対的な前提に基づいた、神の脚本だった。

バルドは、額に汗を浮かべながら、ゴクリと唾を飲んだ。彼は、目の前の青年が、本当に、それを実行できる力を持っていることを、理解していた。黒鉄鉱山の奇跡も、南海航路の神託も、全ては、この力の片鱗に過ぎなかったのだ。

彼は、再び、賭けることを決意した。

この、人知を超えた存在に、自分の、そしてギルドの全てを。


「……分かった。君に、全てを任せよう」

バルドの声は、かすかに震えていた。

「ギルドの持つ、全ての資金、情報網、人脈を、君のために使え。……そして、我々に、神の奇跡とやらを、見せてくれ」


こうして、俺の次なる舞台は、整った。

経済の裏側から、今度は、戦争の裏側へ。

追放された支援術師は、今、世界の歴史を、自らの手で書き換えるための、最初の一歩を、踏み出そうとしていた。



その頃、王都の大神殿では、一人の神官見習いが、古い書庫の片隅で、静かに涙を流していた。

その神官の名は、セラ。

かつて、勇者パーティー『竜の牙』に所属していた彼女は、パーティーの崩壊後、生きるために、この大神殿に身を寄せていた。

神官としての地位は剥奪され、今は、食事と寝床を提供される代わりに、神殿のあらゆる雑用をこなす、下働きの日々。

彼女は、かつて自分が、華やかな祭服をまとって祈りを捧げた聖堂を、今は、汚れた作業着を着て、雑巾がけしていた。行き交う神官や信者たちは、彼女に、憐れみと侮蔑が混じった視線を向けるだけだった。

その屈辱の中で、彼女は、パーティーが崩壊した原因と、そして、自分たちが追放した、あの支援術師のことを、考えない日はなかった。


アッシュさん。

私たちは、どこで間違ってしまったのだろう。

私たちの栄光は、本当に、私たちの力だけだったのだろうか。


その答えの出ない問いを、彼女は、毎日、心の中で繰り返していた。

ある日、彼女は、大神殿の地下にある、古い書庫の整理を命じられた。そこは、何百年もの間、誰も足を踏み入れていないような、埃とカビの匂いが充満する場所だった。

彼女は、黙々と、虫に食われた古い文献を、棚から下ろし、整理していく。

その時、一冊の、ひときわ古びた革張りの本が、彼女の目に留まった。

タイトルは、かすれて読めない。彼女が、何気なくそのページをめくった瞬間、そこに書かれていた記述に、彼女は釘付けになった。


『古代大戦における、大支援術師の記録』


「大支援術師……?」


彼女は、その言葉に、強く引かれるものを感じた。

夢中で、そのページを読み進めていく。


『……大支援術師エルドランは、たった一人で、一個師団に匹敵する戦力だったと、記録されている。彼の支援魔法は、単に兵士の身体能力を高めるだけにとどまらなかった』


『彼の《フィジカルアップ》は、兵士の肉体を鋼鉄のように変え、矢や剣を弾き返したという。彼の《マインドブースト》は、兵士の精神を不屈にし、恐怖という感情を消し去った』


『さらに、彼は、戦場の環境そのものに干渉したとされている。濃い霧を発生させて敵の視界を奪い、追い風を吹かせて味方の矢の射程を伸ばした。彼の支援は、天候さえも味方につけたと、畏怖と共に語られている……』


セラの目から、涙が、とめどなく溢れ出した。

間違いない。

これだ。

これこそが、アッシュさんの力の、本当の姿だったのだ。

自分たちが、誰にでも使える初歩的な魔法だと、見下していた、あの支援魔法の、本当の価値。

彼は、伝説に語られる、大支援術師に匹敵する、あるいは、それ以上の存在だった。

そして、自分たちは。

自分たちは、そんな、神にも等しい存在を。


「役立たず」


そう、罵り、ゴミのように捨てたのだ。


「あ……ああ……ああっ……!」


セラは、その場に崩れ落ち、声を殺して泣きじゃくった。

それは、パーティーが崩壊したことへの悲しみではなかった。自分が落ちぶれたことへの、自己憐憫でもない。

ただひたすらに、自分たちが犯した、取り返しのつかない過ちの、そのあまりの愚かさと、アッシュという一人の人間に対して、自分が行ってしまった仕打ちへの、深い、深い、罪悪感と後悔からくる涙だった。

彼女は、今、本当の意味で、自分たちの罪を、理解したのだ。

だが、その理解は、あまりにも、遅すぎた。

彼女の嗚咽が、誰にも知られることなく、古い書庫の闇の中へと、静かに吸い込まれていった。

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