カタリナ坂で会いましょう−B面−
Spica|言葉を編む
第1話 月曜日、風のない朝 - ラストピース -
川島
夢は消えたはずなのに、胸に湿った布のような重さが残っていた。
目覚めた朝は、風さえもが姿を消したような静けさに満ちていた。
寝汗でも、寒さでもない。
何か、言葉にできない感触。
午前4時過ぎ。
カーテンの隙間から見える空は、乳白色の夜明け前。
まだ夜の色が混ざっている。
新聞配達のバイクが遠くの角を曲がる音が聞こえた。
それを聞くと、もう眠れない。
そっと立ち上がって、小さなベランダの窓を開ける。
風はなかった。
団地と団地の隙間を通るはずの風が、今朝はどこにもいない。
街が呼吸していない朝だった。
階段下に、黒くて細い猫が一匹。
目だけが光っている。
あの猫は、私のことをただの風景としか思っていない。
それで、いいと思う。
テーブルの上に置いていた電子タバコを手に取る。
ひと口吸って、煙を吐き出す。
煙は薄く、色を持たない。
けれどそれは、乳白の空と同じように、何かを覆い隠す役割を果たしていた。
今日は昼のバイトがある。
ファミレスの裏方。
開店前の時間帯に皿を洗い、掃除をして、誰にも名前を呼ばれずに帰る。
そこには色も音もない。
油と洗剤の臭い、機械の回る音、それだけが世界の輪郭になる。
夜は、別の顔になる。
スマホのバイブが短く鳴った。
指先で画面をなぞり、必要な情報だけを目に入れる。
名前は知らない。
選べない。
選ばれない。
車の助手席。
微かにラジオが流れている。
クラシックだったか、ジャズだったか。陽菜には区別がつかない。
男は無言でシートベルトを外し、玄関の前でこちらを振り返った。
「ありがとう」
その一言が、今日のすべての会話だった。
帰り道、坂の方を見上げた。
街灯が一本、まだ灯っていた。
あの坂の向こうにある街は、私には遠すぎる。
登ろうとも、近づこうとも思わない。けれど、今朝は少しだけ違っていた。
遠くで何かが動き出す気配がした。
煙の向こうに、それは確かに“いた”。
けれど、まだ形はなく、風のように名前も持たなかった。
玄関を開けると、娘が寝ぼけ眼でリビングに座っていた。
テーブルの上には、小さな折り紙の青い鳥。
『ママへ これ、しあわせの青い鳥だよ。まいにちつかれてるママへ』
文字はところどころひらがなで、字も少し曲がっていた。
でも、それはこの部屋の中で唯一、私をちゃんと“見て”いる文字だった。
「ママ、今日もバイト?」
「うん、バイト。なるべく早く帰るね」
私は折り紙をそっと胸ポケットにしまった。その紙の鳥が、今日という日を支えてくれる気がした。
風はなかった。でも、遠くでそれが生まれかけている──そんな気がした。
薄いグレーの空の下、今日も名前を持たない一日が始まる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます