第4話

 美園さんと佐野が付き合い始めて、約半月が経った7月半ば。

 交際開始以降の二人の仲睦まじさは眩しいほどで、他人の入る隙は1ミリもないような完璧なラブラブぶりを撒き散らしている。

 そんな週末、土曜の朝。遅い朝食を済ませて部屋でスマホを眺めている俺に、いつものようにLINEがくる。

『今日の午後、約束通り開けてあるだろうな?』

 ええーー。強迫かよこの文言? というような確認のメッセージだ。

『開けてあるけど。もっと普通に確認する言い方ないの?』

『強要すんな。アホかってほど気を遣った甘ったるい言い方は美園さんに全フリしてるからもう一言も出ねえ』

『あーそうですか』

『午後3時な。葉山の好きな店のシュークリーム買っとく』

『え!!?? あそこ、混んでて買うの大変な店だろ?』

『超大変。だが並ぶ』


 ええーー……

 気づけばとんでもなく奇妙な表情になっている自分に気づき、必死に元へ戻す。


 毎週土曜の午後と日曜は、佐野のサッカー部の練習がオフになる。美園さんには「練習の疲れを取りたいから土曜の午後はデートを入れずにおきたい」という希望をしてあるそうで、そのことに彼女も異論はないらしい。美園さんも大事な彼氏の部活への情熱を疎かにはできないのだろう。

 ということで、俺は毎週土曜午後に、佐野の家へ「葉山成分」のデリバリーに出かけているのだ。

 なぜ、佐野の家なのか? それは、佐野のスマホには常に美園さんの監視がついており、休養を取りたいと言っておきながら気軽に外出をするのはなかなかに危険な行為だからだ。

 今日のデリバリーで三度目だ。佐野の両親は二人ともかなり忙しい職場にいるらしく、土曜も夜遅くまで帰宅しないそうだ。毎週お邪魔しても特に支障なく怪しまれるということもない……のだが。


 先々週の土曜。

 初めてのデリバリーだったその日は、前日金曜に落ち合う場所と時間を密かに決めておき、当日佐野の部活帰りに偶然近くのショッピングモールでばったり会ったという体を装いながら自宅へ案内してもらった。佐野邸はいかにも佐野の家っぽい瀟洒な一戸建てだった。

「……えっと、お邪魔します」

 佐野について玄関へ入るなり、佐野はなんだか落ち着かない風に来客用スリッパを上り口に並べた。

「こっち」

 落ち着いた木目の階段を上がり、部屋に案内される。カーテンやクッション、ベッドなど、ブルー系の色でまとめられたこざっぱりと爽やかな感じの部屋だ。

「はあ〜……いい部屋。ちゃんと片付いててすごいな」

「お前が来るから片付けたんじゃん」

 佐野は思い切りぶっきらぼうに答える。

「あー、とりあえずリュック適当に置いて、そのクッション座っていいから。フツーに麦茶とかでいい? 気の利いたもん何もないけど」

 佐野は一気にそんなことを言うと、慌てたようにバタンと部屋を出て行った。

 ふっと静まった部屋におずおずと座るなり、ものすごい気恥ずかしさが襲ってきた。

 ——ふたりきりじゃん。

 いや別に付き合ってないし、一軍と陰キャだし、絶対何にもあるわけがないんだけど! 

 だが、佐野の気持ちが自分に向いていることははっきりとわかっており、ノルマクリアの暁には俺は彼と付き合う約束をしており、で今日は「成分チャージ」とかいううっかりすると怪しさしかない行為を要求されており……つまり今日はあいつのエサ的な何かになるべくノコノコ彼の部屋までやってきたわけで。

 佐野のあのそわそわっぷりは、明らかにそういう……

 ええーー……俺って、実はかなりバカ??

 変な汗が脇を流れはじめたと同時に、佐野が麦茶のグラスを二つトレイに乗せて部屋に入ってきた。

「え、正座? 楽にしとけって」

 楽にしろ……? 怖い。何となくスカした空気を取り戻している佐野がますます怖い。

 万一このままオスの腕力と昂りで抑え込まれたら……どうもがいたって逃げられない。「嫌がることはしない」なんて、前に彼が言った一言をまるきり信じて切ってた俺が悪い。

 ビビりつつ、佐野を見上げた。

 佐野はローテーブルにトレイを置くと、窓辺に歩み寄った。

 勢いよく開けた窓から、風が流れ込んだ。カーテンがふわりとはためく。

「…………

 とりあえず、葉山が来てくれただけでいいや」

 窓の外へ顔を出し、前髪を軽く靡かせながら、佐野はそう言った。


 2回目のデリバリーでは、一緒にゲームで思い切り楽しんだ。佐野の身体能力はゲームにおいても遺憾なく発揮され、俺は終始負けっぱなしだった。

「うひゃひゃ、葉山ヘタすぎ〜!」

「佐野がうますぎんだよっ!! ぎゃーまた負けた!」

 時間いっぱいゲームをやりまくり、スカっとした気持ちで佐野と別れた。

 その帰り道、ふと思った。

 佐野のいう「葉山成分チャージ」ってのは……つまりこうやって俺とグダグダ過ごしてストレス発散したいってことだったのか。

 恋していない彼女に精一杯想いを向けなければならないストレスを。

 それを——変なふうに意識しすぎていた俺が、恥ずかしい。


 心底それに納得した俺は、三度目の今日は完全にリラックスモードで佐野宅へ出発した。

 自転車で15分ほどの距離を、梅雨明け間近の青空を仰ぎながら漕いでいく。佐野が客の列に並んで買ってくれたシュークリームを楽しみにしつつ。


「お邪魔しまーす。あ、今日コンビニで無糖のアイスコーヒー買ってきてみた。あとなんかスナック系」

 商品の入ったレジ袋をガサリと渡し、俺はいつものように階段を上がるとさっさと佐野の部屋へ入室してリュックを降ろした。佐野はそのままキッチンに向かったようだ。彼を待ちつつ部屋の窓を開け、外の風を額に受けて深呼吸した。


 ガチャっとドアの開く音がし、背後でグラスや皿をテーブルに置く静かな音が聞こえる。

「なー、もうすぐ梅雨明けるよな。定期テストも終わったし、夏休み目の前だし……

 ——っ!?」

 佐野を振り返ろうとした瞬間、背後から強く抱きすくめられ、俺は思わず言葉を失った。

「——……」


 俺の耳元に額を押し付けながら、佐野が小さく呟く。

「ごめん。

 ——ちょっとだけ、こうさせて」


 その心細げな声に、俺もようやく掠れた声が出る。

「ど、どうしたんだよ……」

「後で話す。

 もう少しだけ、このままにさせてくれ」

「…………」


 俺たちは、しばらくそのまま窓辺に佇んだ。







 数分ほど経ち、気分が落ち着いたのか、佐野はすっと身体を離して俺を見ると淡く微笑んだ。

「さんきゅ」

「…………

 どうしたのか、話してくれるよな?」

「——みっともないとこ見せてホントだせえな。

 シュークリーム、ぬるくなったかも。悪い」

「いいから。ちゃんと話してくれ」

「……」


 ローテーブルに座り、とりあえず二人でアイスコーヒーを喉に流し込む。心地よい冷たさと苦味で、思考がすっと引き締まった。

 佐野が、小さく言葉を発した。

「結構、きつくてさ。彼女の束縛が」

「……うん」

「スマホとか、見たがるんだよな。パスワード教えて欲しいとかさ、誰とどんなやりとりしてるか知りたがったり。さすがにそれはできないからって、今のところ断ってるけどな。

 その度に、すげえ悲しそうな顔すんだよ。その後しばらく口聞かない時間とかあるしさ。

 日曜はだいたい彼女のために一日開けてんだけど、明日も約束あんだよな、とか思うと……」


「……」

「なんていうか、そういう一つ一つにめちゃくちゃ消耗すんだよな。

 こんな風に真剣に、ってか執拗に求められるのって、思った以上にダメージくるもんだな……」

「そっか。……他には?」


 彼は、ふうっと前髪を乱暴にかき上げて、吐き出すように言う。

「いや……だんだん、求められるようになるじゃん。その、『触れて欲しい』的なさ。

 思った以上に、そういう接触が怖い。もう少し高校生的ライトなノリだったら楽なんだろうと思うんだが……手とか繋いだら最後、もう離してくれないんじゃねえか、とかな。

 ——はは、俺めっちゃビビってんじゃん。もーダサすぎて死にそう」


 いつも生き生きと活発な佐野の瞳が、こんなに力なく翳るのを、初めて見た。


「……佐野。ごめん」

 その瞳を見つめながら、気づけばそんな言葉が口から漏れた。


「は? 葉山は全然悪くねーだろ。元々俺が持ちかけたアイデアなんだし。ってか、こんな弱音お前に吐くのが間違ってんだよな。マジ悪い」

「違うから! 

 まさか、佐野をこんなヤバい網に飛び込ませるようなことになるなんて……」 


 佐野の大事な時間を、俺が奪ったようなもんだ。

 いたたまれず、視線が下を向く。膝に置いた拳がぎりっと固くなる。


 ふっと、向かい側で小さく息をつく気配がした。と同時に、さっきまでとは違う軽やかな声が耳に届く。

「これってさ、結局共犯だよな。どっちのせいとかじゃなくて。

 だから、葉山ももう俺に謝んなよ。約束な。

 とにかく、俺は何がなんでもこの偽装恋愛を無事にやりおおせなきゃならない——ってことだ。んー、全然シンプルだった。

 お前に聞いてもらって、なんか気持ち整理ついたわ」

「……本当に、ごめん。俺、何もできなくて」

「いや、全然してるじゃん。こうやって、毎週ここに来てくれるし」

「だって、茶飲んで遊んで帰ってるだけだろ」


 佐野は、情けない声を出す俺をじっと見る。


「…………だったら。

 もう少しだけ、お願いしてもいいか?」

「何?」

「キスしたい」

「はあ!?」

 俺は思わずずざっと後ずさった。


「なっ、なんでそうなる……!?」

「いや、させてもらえたら当分頑張れるなーと思って」

「いやおかしいだろそれ! どさくさに紛れて順序変えんなよ!? そういういろいろはこの偽装恋愛がコンプリートしてからに決まってんだろ!?」

「お……??」

「なんだよ?」

「それ、『決まってる』のか?」

「は……??」

 佐野はそこで思い切り口元をにまあっと緩めた。

「偽装恋愛がうまくいったら、そういうを全部お前からもらえるの確定……ってことで、いいんだな?」


「——……っ!!?」

 はっと口を押さえるが、出てしまったものはもう引っ込まない。


「よーーーーーし。わかった。

 これはもう何が何でもコンプリート……」

「ぐああ……」

 お互いにアホのようなテンションで目の前の美味なシュークリームを頬張る。

 バニラビーンズの香り豊かなカスタードクリームと、新鮮な生クリーム。二つがたっぷりと挟まったさっくりとした生地。そのハーモニーが、口の中でブワっと美味の花を咲かせた。

「……うまっ……」

 動揺を忘れ、思わず感嘆の言葉が漏れる。

「だいぶぬるいな」

「いやそれは全然問題ない! この味マジ好きっ」

 佐野がクスっと笑った。

「……そっか」

 

 すっかり氷の小さくなったアイスコーヒーを飲みながら、目の前の佐野を見る。

 生き生きとした光の戻った佐野の瞳。

 よかった。

 

「佐野。

 一人きりでどうにかしようとか、絶対思わないでほしい。

 キツかったり辛かったりしたら、こうやって全部俺に話すって、約束してくれ」


「ん」

 佐野は、俺をまっすぐに見つめ返し、明るく笑った。







 翌日、日曜日の夜。

 風呂から出て、髪をタオルで拭きながら、何となく思う。

 佐野は、今日も美園さんと予定がある、と言っていた。

 どうだったんだろう……

 はっと顔を上げ、ブルブルと左右に頭を振った。彼は飛ぶ鳥も落とすスーパー一軍じゃないか。最底辺モブクラスの俺がモヤモヤ心配するまでもないのだ。


 部屋に戻り、スマホを見ると、LINEが一件届いている。

 ——美園さんからだ。


『葉山くんに、どうしても相談したいことがあるの。

 明日月曜日、放課後校舎の裏庭来れるかな?』


 ……なんだろう。

 たった今洗い流した汗がまたじわりと滲む感覚を、俺は押さえきれなかった。




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