第5話 運命の分岐点
朝の光はまだ白く、大学の研究棟は眠そうに冷えていた。
受け付けの名簿に名前を書き、白い廊下を曲がる。突き当たりのドアに小さな札——食品分析ラボ。
ノックすると、白衣の女性が顔を出した。佐伯梨央。読みは、私と同じ「りお」。
「黒瀬さん? ——ようこそ。冷凍で持ってきたって聞いてます」
「はい。こちらです」
私は封の二重になったジップ袋を差し出した。内側に、ワインを含ませたハンカチの切片が薄氷のように眠っている。
佐伯は光に透かしてから、所定のトレイへ移した。手つきは軽いが、軽さの奥に堅さがある。
「まずは言っておきますね。ここで出るのは学術的な所見で、法的評価じゃないです。でも、舌に起きたことに“名前”を与えるくらいはできます」
「名前、がほしいんです」
「それなら多分。——冷凍、ナイスでした。時間は味を壊すから」
佐伯は微笑み、チェックリストを一つずつ読み上げながら、受領と試料番号を私の目の前で紙に写した。紙、の音が心地いい。
私は書かれていく自分の文字を見て、胸の内側で何かがゆっくりと落ち着いていくのを感じた。紙は、優しさより強い。
「予備のスクリーニングは今日のうちに。“可能性”は日内、“確度”は数日。良い?」
「十分です。——あの」
「うん?」
「あなた、“R” ですか」
佐伯は、目を瞬いて笑った。
「私は佐伯“梨央”。イニシャルはRだけど、“R”じゃない。たぶんね。
でも、黒瀬さんに**“会え”**って言ってくれた“R”には、私のことが見えてる気はする」
「奇妙な縁ですね」
「食も科学も、縁でできてる。じゃ、預かります。翌朝の腹で、また話しましょう」
ラボを出ると、春の風が研究棟の階段をひらひらと降りてきた。
私はスマホを取り出す。差出人不明から、短い一行が届いている。
紙で自分を守れ。声ではなく、記録で。——R
私は深く頷いた。すでに、そうしている。だが今夜はさらに分岐を太くする夜だ。
私は編集部に向かう足を速めた。
◇
昼、千堂はデスクの上の無秩序を、秩序のふりで押し返していた。電話を二本同時に切り、顎でイスを示す。
「分岐の夜、だそうだな」
「“R”をご存じで?」
「お前の顔に書いてある。“助言を鵜呑みにするな。だが、方向は信じろ”」
「方向……」
「今日お前がやるべきことは二つ。紙と代理だ。紙で境界を引き、代理で導線を差し替える。
あとひとつ。感情は今日、使い切るな」
私は息を吸い、背筋に沿って置き場所を決めるように吐いた。
「代理は、相原さんに頼みました。『観察』が目的です」
「よし。——紙は?」
「誓約と契約、保険の確認。全部こちらの雛型で巻き直します。会場側を加入者、個人名の列挙はしない」
「その文言、好きだ。紙は人の心より裏切らない」
千堂は机の引き出しから、使い込まれた封筒を出した。
「それと、これ。“記録”の許諾文。会場の関係者に録音・録画の明示を通す。誰かが“忘れていた”と言えないように」
「ありがとうございます。私の名前は、記事にだけ」
「当然だ」
◇
夕刻。倉庫スタジオの外で風が回り、看板の角がかすかに鳴った。
私は先に到着し、会場責任者に記録の許諾書を読み上げる。スタッフ全員の確認印。
紙の端に、複写用の青い文字がにじむ。青い竜胆の色を、私はそこで連想した。
そこへ、玲奈が軽快な足音でやってきた。黒のジャケット、赤い口紅、視線は鋭いが、笑う準備ができている顔。
「りお、準備は?」
「紙、通しました。——あと、今夜は私の席に相原さんが入ります」
玲奈の微笑が、半拍だけ遅れた。
「編集長の無茶振り、だっけ?」
「ええ。“翻訳者の夜勤”です」
「ふうん。誠実は夜に強いからね」
玲奈はさっと視線を走らせ、スタッフの一人に指示を飛ばす。
その小さな合図のあと、非常階段の影がわずかに動いた。私は見ないふりをして、入口の方を向く。
導線を差し替える——私が口にして、相手が飲み込んだこの言葉は、今夜ほど効く夜はない。
「相原さん、来たよ」
玲奈が顎で示す。
相原瑛士は、白いシャツに薄いブルゾン。姿勢が雑然とした空気を整える。
私が出迎えると、彼は目だけで状況を問い、私の答えを受け取った。
「五分前と同じ場所に“影”がある」
「見えてる」
「君は?」
「紙の中にいる」
相原は短く頷き、客席に溶け込んだ。
私の席。本来の席。
今日、この椅子の肘掛けに触れる手は、私のものではない。
◇
開場。
音が高く、そして深い。
皿の上で、香りが立ち上がる。鰆の麹熟成と文旦の白皮。輪郭の苦み。
私はひとつ後ろの列で立ち、翻訳者のノートを開いた。
誰の目が皿に吸い寄せられるか。誰の息が手前で止まるか。腹はいつ動くか。
斜め前。私の席で、相原が静かにナイフを握る。
響は臨時キッチンの中で、火加減を短く眺め直してから、皿の縁を親指で撫でた。袖口を整える癖が一度。
彼の目がふと上がる。その視線の先、照明の影——玲奈。
二人は視線で短く話した。
“ここではないどこかで、もう言葉を交わした者の目”だ。
——時間を越えた既視感が、私の背中を指でなぞった。
前菜が終わる。
私の横を、ワゴンが通る。ワインが二本。
スタッフの手が、一瞬だけ迷う。グラスが入れ替わる軌道——いつかの夜の、縮小再演。
私は無表情のまま、胸ポケットに指を入れ、“記録の許諾”の控えを確かめた。紙は、今夜も私の側にいる。
案内の女性が相原の卓に近づく。何か囁く。相原はグラスに触れず、静かに水を取った。
遠くで、玲奈の肩が、ほんのわずかに落ちる。
計画の軽い歯車が、砂を噛んだ音。
——分岐は、目に見えないところで起こる。
◇
中盤、私は裏方の通路に回り、コンロの熱と人の熱が混ざる場所で、誠実の匂いを探した。
そこへ、響がひとりで出てきた。袖を軽く整え、私に気づくと笑う。
「黒瀬さん。来ないのかと思った」
「今夜は観察です。席はお譲りしました」
「惜しいな。君の舌は、“翌朝の腹”で書ける舌だ」
「“翌朝の腹”は、あなたの皿にも効きますか」
「効くように作っている。短い嘘を混ぜずにね」
「短い嘘、は嫌いですか」
「必要なら使う。——今夜は、必要ない」
袖口を整える癖が、もう一度。
私はその指を目で追って、視線だけで笑った。
「必要ないなら、良い夜ですね」
通路の先で、スタッフがワインを載せたトレーを小さく揺らした。
私は咄嗟に手を伸ばして支え、微笑んで返した。
——紙は見えないが、ここにも在る。許諾という紙が、記録という紙が、目に見えない壁を作る。
◇
デザートの前、スポンサー幹部が席を立ち、玲奈が自然な身振りで廊下へ誘導する。
私は先回りをせず、足音だけで二人の距離を測った。
非常口の緑が細い帯になって床に伸び、その上をピンヒールが軽く踏む。
角の陰で、玲奈の声が低く、柔らかい。
「——保険の名義、私が持つから。彼は、傷つけない」
彼。
私の耳は、その代名詞が持つ温度を覚えている。
玲奈は“彼”を守る。彼は“彼女”を盾にする。
盾と剣と鞘。
私は壁に手を置き、呼吸の形を一定に整えた。
◇
終盤。
拍手が高く、長く、空間を擦った。
私は出口の脇に立ち、客の顔を見ながら「ありがとうございます」と繰り返すスタッフに合わせて軽く会釈した。
相原が人の流れの隙間から出てきた。
目で問うと、彼は短く答えた。
「水しか飲んでいない。それで十分だ」
「“翌朝の腹”は?」
「笑う」
彼はポケットから小さなメモを一枚出して、私に渡した。
そこには短い罫線の間に、観察が箇条書きに並んでいた。
• 玲奈、非常階段の踊り場で短い通話。合図は二回。
• 響、袖口を整える動作は嘘の前ではなく、決断の前。
• グラス入れ替えの導線、今日は失敗。紙の存在が抑止力に。
• 彼の皿、短い嘘なし。——今夜は、料理に罪はない。
私は胸の奥に温かいものが広がるのを感じた。
紙の上の言葉が、私の鞘に静かに収まる。
「ありがとう、相原さん」
「まだ途中だ」
相原はそれだけ言って、静かに去った。背中に誠実の輪郭が残る。
◇
全てが片づき、会場の照明が半分落ちた頃、玲奈が現れた。
赤い口紅は泣いていない。微笑は完璧に整っている。
「りお。来なかったね、私たちの乾杯」
「今夜は、紙と影を見てた」
「紙は裏切らない。影は嘘をつく。——でもね、人は変わるよ。私も、あなたも」
「変わるために、紙を置くの」
「可愛いね、りお」
玲奈は一歩近づいた。
私の肩に手を置く。
その指が、ほんのわずかに震えた。合図ではない震え。感情の震え。
私は彼女の手に、手を重ねた。
「翻訳者は、誰の味も奪わないよ」
「でも、“場”は奪う」
「場は、作り変える」
しばしの沈黙。
玲奈は手を外し、すぐにいつもの軽さを取り戻した。
「明日、スポンサーと次の段の打ち合わせ。来られる?」
「午前なら。午後はラボ」
「ラボ?」
「翌朝の腹の、科学的な話」
「へえ。——また、教えて」
「もちろん」
私たちは、それ以上何も言わなかった。
夜風が会場の隙間から入り、紙の端をかすかにめくった。
◇
部屋に戻ると、机の上の四枚の紙が、私の帰りを待っていた。
私は五枚目——未来予知の下に、新しい一行を足した。
分岐は静かに完了。次は“記録”で輪郭を太らせる。
スマホが震えた。
差出人不明。本文は短い。
分岐、成功。次は声ではなく記録。翌朝、腹で会おう。——R
私は笑って、電気を消した。
目を閉じると、皿の上の輪郭の苦みが舌に戻ってくる。
眠りに落ちる直前、遠くで小さな雨の音がした。
——明日の朝、腹は笑うだろうか。
紙は静かに、私の枕元で音もなく息をしていた。
(つづく)
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