花天月地【第73話 星燐の欠片】

七海ポルカ

第1話



 本陣を奇襲され陣外に逃げ出した魏軍は、兵の総数自体はさして減らさなかったが、軍師郭嘉かくかが瀕死の重傷を負った為、治療させながら天水てんすいの砦に引き上げた。

 

 天水砦に引き上げると更に絶望的な報せを持って、李典りてん楽進がくしん賈詡かく達を待っていた。


 単騎で龐徳ほうとくと遣り合った張遼ちょうりょうが刃を合わせずして斬られ、こちらも死傷を負い軍医達の必死の治療を受けていたのだ。



龐徳ほうとくと一騎打ちなど、何故止めなかった!

 何のためにお前と李典がいたんだ! 楽進! 

 死にたがって単騎で出て来た龐徳など遠くから簡単に射貫いて、

 捕らえてから好きに自刃でもなんでもさせれば良かった!

 簡単なことだろ!

 張遼ちょうりょうがそんなことを望んでも、お前ら二人がそこにいるより魏軍では!

 張遼一人がいる方が重みは遥かに上だ!

 それは敵軍にとってもそうなんだよ!

 例え割って入って張遼にお前らが斬られたとしても、止めるべきだったんだ!」



 あまり感情を激することがない賈詡かくの、本気の怒気だった。



「俺がその場にいたら、戦いたがる張遼にこの首を差し出しても奴を止めた!

 総指揮官の俺でさえ命を懸けて、張遼に勝手な戦などはさせない!

 お前らが張遼より先に死ぬなど、更に当たり前のことだ!」


 李典りてん楽進がくしんは押し黙っている。


「俺はもう張遼と郭嘉を瀕死にさせたことで、曹丕そうひ殿下に首を差し出すことが決まったようなものだが、お前らはまだ未熟な将軍だから、確かに責めなどは負わんかもしれんな。

 だが覚えとけ。

 こんな甘い状況判断をしていたら、今、例え生き延びてもいずれお前らが自分の愚かさや甘さで命を失う時が必ず来る。若いお前らでも報いは必ず受けるぞ」


 賈詡は何も言わない二人を睨み付け、舌打ちをした。


「場外に出て天水砦を警護しろ。李典、楽進。

 もう夜襲は十分だ」


「了解しました」


 賈詡は背を向け、額を抑えた。


「賈詡将軍」

「なんだ!」


 李典が涼しい声を掛ける。


「もし涼州騎馬隊が再び来襲したら、迎撃をしていいのでしょうか」


 額を押さえたまま賈詡は目を開き、鋭い光をそこに宿した。


「……その時は容赦なくやれ」


 低い声で返す。


「はっ!」


 李典、楽進と入れ替わって、司馬懿しばい徐庶じょしょがやって来る。

 賈詡は深い息をつき、怒りを飲み込んで振り返った。


「頭が痛そうだな、賈詡」

「それは曹丕殿下のご寵愛深い司馬仲達しばちゅうたつ殿と、涼州出身の降将である俺では置かれた立場が全く違いますからね。貴方は頭痛がせずとも、私はします。張遼は?」


「脇腹の傷は臓にまで達している。血が止まらなければ死ぬと軍医は言ってる。

郭嘉はどうだ」


「腹部の傷が深すぎて、昏睡状態で手の打ちようがない」


「追い詰められたな」

 司馬懿は深く腕を組んで、椅子に腰掛けた。


 司馬懿は、これほどの状況でまだ冷静だった。

 いっそ怒りで大暴れしてくれた方が気が晴れる。

 賈詡は嫌だったが、ここでダラダラしていても都で報せを待つ、曹操そうそう曹丕そうひ親子の怒りを買うだけなのは理解したので、服装を整える仕草をしてから司馬懿の前に立った。


「総大将殿にお願いが」

「言ってみろ」

「魏軍の陣容は完全に崩れました。全軍撤退の命令を」


「今、撤退しても張遼と郭嘉が死に、お前と私の首が飛ぶだけだ。

 おまけに蜀と呉にこのことが知れたら、攻めの好機だと西と南から攻め込まれるぞ。

 無策を晒すのか。賈詡」


「この際、俺が三国一の無能と呼ばれても構いませんが、張遼と郭嘉が死ぬ可能性が高い以上、涼州の村落をこのまま慌てて焼き払っても戦功には到底及びません。

 張遼と郭嘉の死は、しょくに知れたら他の戦況が動くほどのことだ。

 もはや涼州に築城が成功しても、他の戦線が動けば無用の長物。

 撤退し、他の戦線の状況を注視することが肝要かと」


「涼州の状況はこれ以上最悪にはならん。

 しかし我々退けば更に悪化する可能性はある」


「……何かお考えが?」


 司馬懿はそこに立っていた徐庶を見た。


「徐庶。涼州騎馬隊を説得したのはお前だと報告を受けたが、何故涼州騎馬隊が【烏桓うがん】討伐の共闘を突然認めた?」


「共通の敵を教えたからです」

 淀みなく徐庶が答えた。


「お前が黄巌こうがんより教えられた、陸議りくぎの毒の症状から【烏桓六道うがんりくどう】がこの地に来ていることを察したことは分かった。しかし共通の敵と言えば、どちらかと言えば涼州騎馬隊と【烏桓】の共通の敵が曹魏だ」


「お言葉ですが【烏桓六道】は自分達の復讐を果たすために涼州の民の命を犠牲にした。

 共通の敵を打ち倒すのならば、金城きんじょうを夜襲で焼いたりせず、涼州連合の長のもとに談合しに行けば済んだことです。

 烏桓六道うがんりくどうの狙いは、涼州に戦禍を巻き起こすこと。

 蜀や呉も巻き込み、大陸全土を再び荒れ果てさせるのが目的だったと考えられます。

 もはや涼州騎馬隊と烏桓の狙いは隔離しています。共闘は出来ません」


 賈詡は徐庶に目を留めた。

 司馬懿は徐庶がそう答えることは、予期していたようだ。

 フッ、と小さく笑んだ。


「確かにな。

 ではお前は、ここで魏軍はどうすべきと考える?」


「……。」


「構わん。考えていることを話せ。お前は私がこの軍に帯同させた。つまりそれは曹丕殿下が許可した軍師として来たということだ。お前は一兵卒というわけではないのだからな」


「……これ以上臨洮りんとうの状況が悪化すれば、南の【定軍山ていぐんざん】の情勢に影響が及ぶかもしれません。祁山きざん築城は元々涼州制圧というより、南の定軍山の後方支援の意味合いが強かったはず。今からやっても意味はあります。


 直ちに臨洮、天水てんすいに展開し、当初の目的通り祁山に砦を築くべきかと。

 結果として涼州騎馬隊は北方から出て来ました。

 彼らは南に向かったことで、魏軍の涼州戦線の最前線は祁山きざんに南下した……。

 これは利とするべきことです。

 今、天水から撤退すれば再び涼州騎馬隊が北上し、北方の防衛に入る。

 それこそ、この戦いで何も得ていない」


「なるほど。お前は魏より余程涼州の情報に精通しているようだな。

 徐元直じょげんちょく

 だが生憎お前の言葉だけ信じるほど、私は甘くない。

 お前がいくら涼州に知己がいたとしても、

 涼州騎馬隊の魏軍への憎悪がお前の説得などで消えるとは到底思えん。

 何か私に報告があるだろう」


「徐庶。何かあるのか」


 賈詡が怪訝な表情を浮かべた。

「……。」

 何もかも、賈詡は今回後手に回った。


 許都きょとで出陣準備をしている時に思ったのだ。

 今回は独特な考えの者達が集まっていると。


 郭嘉や徐庶、司馬懿、それぞれの意図が重なっていない。

 それは局面で混乱を招くと、賈詡は最初から危惧していた。


 しかし郭嘉が曹操の忠臣だったので、まさかここまで個人の狙いに走るとは思わず、郭嘉と賈詡が協調出来なかったことが最も大きな誤算だった。


 郭嘉とさえ完全に意思疎通が取れていれば、夜襲も容易く受けたりはしなかったし、張遼が龐徳の状況に感化される可能性があるやもと郭嘉は見抜き、李典と楽進に任せず、自ら共について行ったと思う。


 郭嘉が全く魏軍の戦況に関わる気が最初からなかったことが、致命的だった。


 その郭嘉の本心が、賈詡の副官に収まるということに確かに現れていたのに、復帰したばかりだから今回は軍の重責から外れたのだろうなどと良く解釈してやったらこれである。


黄風雅こうふうがも重傷を負い、運び込まれたが」


「はい。彼は涼州騎馬隊と魏軍の衝突を、涼州の為に避けようとしていました。

烏桓うがん】と対峙して重傷を受けましたが、魏軍を壊滅から守るための行動です。

 出来る限りの治療を続けていただきたく思います」


「司馬懿殿。こいつはこういったことでは決して口を割りませんが、貴方は徐庶の行動をある程度すでに見通しておられるのでしょう。

 張遼と郭嘉が死ぬ前に、打てる手があるかも。話して下さいますか」


賈文和かぶんかはこういう手管だぞ。徐庶。こうして仕える相手を脅して自分の望む戦をやらせて、生き延びてきた。

 友のために命を捨てるのが美徳などと甘い考えのお前には手に余る男だ。

 お前は今回、どういう立場で涼州を訪れたのか思い出せ」


 賈詡がぐしゃぐしゃと面倒臭そうに髪をかき混ぜた。


「なるほど。お前はまだ劉備りゅうびに義理立てしているというわけだな。徐元直」

 司馬懿が小さく、頷いている。


「……誰だ?」


 賈詡が徐庶に歩み寄った。

 徐庶は静かに目を閉じ、口も閉ざした。

 こいつをまともに拷問に掛けたら、果たしてどの程度持ち堪えてみせる男なのだろうかと、初めてそんなことに賈詡は興味を持った。


「誰が、涼州に来ている?」


「――間違いなく馬超だろうな」


 このままだと賈詡が徐庶を殺しそうだったので、司馬懿は言った。

 賈詡が司馬懿をサッ、と振り返る。


「涼州騎馬隊が容易く徐庶の言葉に従ったのは、それに協力するよう説いた者がいるからだ。

 馬超ばちょうめ、涼州を追われたような振りをして画策しおって。

 すぐに【定軍山ていぐんざん】に伝令を送れ。

 涼州騎馬隊が南下し、成都せいと入りするはずだ。

 防衛線を突破されてはならん」


司馬懿しばい殿。私を祁山きざんの陣に出陣させてください。定軍山の網に掛かって、北上してくる奴らを挟撃します。

 北方には一人も立ち入らせない。

 定軍山と祁山の間で、全員殲滅してやる」


「いいだろう」


 賈詡が拱手きょうしゅし、歩き出す。


「待って下さい!」


 徐庶が口を開いた。


「確かに、馬超ばちょう将軍が涼州に来ています。

 彼は魏軍が涼州騎馬隊の成都せいと入りを警戒することは予期してる。

定軍山ていぐんざん】付近は迂回して南に向かっています。

 彼らの進軍速度は、賈詡将軍が一番理解してるはず。

 今から手を打っても、無駄です」


 賈詡が戻って来て、徐庶の胸倉を掴み上げた。


「無駄だと。何様のつもりだ! 貴様!」


 部屋の壁にそのまま、背を叩き付ける。


「敵の意図を知りながら、お前は報告もせず、本陣から兵を退かせた。

 奴らが本陣に来た時なら、十分迎撃は出来た!

 魏軍の好機を潰して敵を助けた。馬超の首級は涼州陥落にも匹敵する!

 十分軍規に逆らう行為だ!

 反逆罪は死罪だぞ! 徐庶!」


「――申し上げます!」


 明らかに、中の騒音が収まった間を計って、すかさず声が掛けられた。


「入れ」


 司馬懿しばいが許可する。

 すぐに兵が入って来て、膝をつく。


「申し上げます、郭嘉かくか殿が目を覚まされました!」


 目を閉じていた徐庶が、目を開く。

 胸倉を掴んでいた賈詡の手が一瞬緩んだ。

 司馬懿はよし、と頷く。


「そうか。意識は」


「はっきりしておられます。

 此度の戦のことで、司馬懿殿と賈詡殿にご報告があると」


 これを、と文を差し出して来たので賈詡が徐庶から手を放し、直接奪い取った。


 素早く目を通す。

 郭嘉の字ではなく代筆だったが、読んで、賈詡は怒りを抑え込むように目を閉じ、深く息をついた。


「郭嘉は何と言ってる?」


「……徐庶じょしょに無断で密命を与えて動かした責めを負うと」


「密命?」

「自分の命を【烏桓六道うがんりくどう】が狙っているのが分かったため、徐庶にその監視を頼んだそうだ」

 徐庶が俯き、目を閉じる。

「徐庶は涼州騎馬隊の動きが不穏であると報告をしたが、自分の命令を優先させた。

 その、処罰を受けると書いてる」


 司馬懿は椅子に頬杖を突いた。


「徐庶の独断で下したことなら、郭嘉が徐庶の助命を申し出るのは理にそぐわんな、賈詡」

「……あの野郎を絞め殺してやりたい」

 賈詡は竹簡を、忌々しそうに床に放った。


「郭嘉の首と徐庶の首、どっちが大事だ?」

「分かりきったことを聞かないで下さい」

 

 賈詡が冷たい目で、徐庶を見据えた。


「お前が死んだら郭嘉も死ぬと言ってる。

 お前など俺は瞬殺出来るが、郭嘉だけはどうにもならん‼

 さっさと退出して陸議りくぎでも見舞ってろ。徐庶。

 俺がお前の首をこの手で絞め殺さないうちにな」


黄風雅こうふうがは涼州の自警団に属し、多くの者に慕われています。

 どうか寛大な処置を願います」


「うるさい。早く失せろ」


 まだそんなことを言って来たので、司馬懿は呆れた顔をしてそう言い、手の平を返した。


 徐庶じょしょの欠点は個人の願いや価値を、国益より優先することがあることだった。

 これがなければ優れた戦略家になれるが、軍師に徹しないから戦場で混乱を生む。

 徐庶を殴りつけてもこれは治らないから対処の仕様がない。

 徐庶のこの欠点を少しでも改善させる手立ては、確かに徐庶個人の拘りを、魏という国益に結びつけるしかない。

 曹操が徐庶の母親を洛陽らくように招いたのは、さすがに見抜いていると思う。

 正しい判断だ。


「もう行け、徐元直じょげんちょく

 この上賈詡がお前を殺して、郭嘉と賈詡が殺し合ったら私の首まで確実に飛ぶ。

 郭嘉に免じて軍師の権限は剥奪しないが、勝手な行動はもう許さん。

 陸議の側で、謹慎していろ」


「かしこまりました」


 徐庶が司馬懿に拱手きょうしゅし、退出した。




「――あれをどう見る?」




「どうもこうも。徐庶を処罰したら、郭嘉も処罰せざるを得なくなる。

 俺に曹丕殿下と曹操殿の怒りを同時に買えとでも?

 涼州騎馬隊は馬超ばちょうに合流し、奴らは蜀の劉備の指揮下に入る。

 最もなって欲しくない形になった。

 俺の首など価値はないが貴方こそ、この状況を曹丕殿下にどう報告を?

 実の子であっても、長く曹孟徳そうもうとくに嫌悪されて生きて来た曹丕殿下は、何があっても貴方だけは信じて許すと考えておられるのですか?」


 司馬懿しばいは立ち上がった。


「殿下が最も嫌うのは、無策だ。

 無策無能を晒せば私の首など、容易く殿下はお斬りになる。

 幸い、郭嘉が目を覚ました。

 郭嘉に嘆願させれば、私の命まではお取りにならんだろう。

 よって私はこのまま涼州に留まり、作戦を続ける。

 祁山きざんに築城し、直ちに定軍山ていぐんざんへの防衛強化に取りかかる。

 此度のことは全て長安に報告し、あとは、誰と誰を処分するかは殿下がお決めになることだ。私の推し量ることではない」


「郭嘉は何故こんな危険を冒した?

 あいつは好戦的な奴だが、馬鹿じゃない。

 軍を己の事情に巻き込んで自爆するなんて、するような奴じゃないのに、しやがった」


「説明を受けて来い賈詡」


 賈詡は鼻で嗤った。


「俺にあいつが素直に話すとでも?」

「全て綺麗に話されなくては相手の意図も汲みとれんのか、お前は」

長安ちょうあんに早急に送り返して、荀彧じゅんいくに取り調べさせて下さい。

 こうなった以上、あいつから真相を全て引き出せるのは荀文若じゅんぶんじゃくだけだ」


「荀彧をこの件に巻き込むな。

 これは命令だ。お前が郭嘉から話を聞き出せ」


「……いいんですか?」

「何がだ」


陸議りくぎ殿ですよ。

 郭嘉が陸議殿を瀕死にした理由は、恐らく今回の事情に関わってる。

 陸議殿が死んでも貴方は郭嘉の罪を問わないおつもりで?」


 司馬懿は窓辺に立った。


「……陸議のことなど今はどうでもいい。

 張遼ちょうりょうが気がかりだ。万が一、張遼がこのまま目覚めず死ぬことがあれば、魏軍全体の再編に関わるほどの大問題になる」


 いとも容易く司馬懿が陸伯言りくはくげんを切り捨てたので、賈詡はようやく怒りの溜飲が少し下がった。自分だけが究極の選択を強いられるというのは、腹立たしいことだからだ。

 深く息をつく。


「分かりました。郭嘉と話して来ます」

「ああ」


 賈詡が出て行くと、司馬懿は副官に尋ねた。


黄風雅こうふうがの方はどうだ」


「軍医が先程、処置を終えたと報せを持って来ましたが、こちらもかなり重傷で予断を許さない状況だと」


「そうか。死なせぬように最善を尽くせと再度命じろ」


「かしこまりました」



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