第十五話:その笑顔はずるいと思う

昼間のお風呂で、雫ちゃんとまた一つ特別な秘密を共有してから数日が経った。

私達の関係は、あの日を境にさらに親密さを増していた。以前は手が触れそうになるだけで、心臓が飛び出しそうになっていたけれど。今では居間で隣に座って、肩が触れ合うくらいの距離にいるのが当たり前になった。

雫ちゃんが私の頭をわしゃわしゃと撫でてくれる、その大きな手の感触にももう驚かずに、「えへへ」と素直に身を任せることができるようになった。

穏やかで優しくて、甘くて。毎日が夢みたいに幸せだった。


八月ももう下旬に差し掛かろうとしている。

あれほど永遠に続くのではないかと思われた夏休みも、少しずつその終わりを告げ始めていた。ツクツクボウシの鳴き声が夏の終わりを急かすように響き渡る。

その声を聞くたびに、私の心には小さな小さな影が落ちるようになっていた。


(夏休みが終わったら……)


雫ちゃんは学校に行く。友達と笑い合って、勉強して、部活をして……。彼の日常がそこにはある。

でも、私は?私はこの家に一人、取り残される。外の世界が怖い。学校なんて、もう二度と行きたくない。

でも、私だけがこうして止まった時間の中にいる。雫ちゃんはどんどん未来へ向かって進んでいく。

いつか彼と私の見ている世界が、全く違うものになってしまったら……?

いつか彼が、私と一緒にいることを「足手まといだ」と思うようになってしまったら……?


今が幸せすぎるからこそ怖い。この夢みたいな毎日が、いつか泡のように消えてしまうのではないかと。そんな漠然とした不安が、私の心にじわりじわりと広がっていた。そしてその不安の象徴として、私の脳裏にいつもあの太陽みたいな女の子の顔が浮かび上がるのだ。

高嶺……桔梗さん。


そんな、ある穏やかな午後のことだった。その不安が現実となって玄関のチャイムを鳴らしたのは。


『ピンポーン』


心臓が、どきり、と嫌な音を立てて跳ねた。雫ちゃんが「はーい」と、何も警戒せずに玄関へと向かっていく。私はただ、その背中を言いようのない不吉な予感と共に見つめることしかできなかった。


「こんにちはー、雫君! 突然ごめんね!」


聞こえてきたのはやはり、あの猫なで声だった。玄関に立っていたのは完璧な笑顔をその美しい顔に貼り付けた、高嶺桔梗さんだった。

私服姿の彼女は、学校の制服姿よりもさらにきらきらと輝いて見える。流行りの少しだけ肌が見えるデザインのトップスに、ひらひらとした短いスカート。そのすらりとした綺麗な足。そしてその手には、有名デパートのロゴが入った上品な紙袋が提げられていた。


「高嶺さん!? どうしたんだ、突然」

「えへへ。この間の参考書のお礼と、あとこの前ちょっと失礼なことしちゃったから、そのお詫びも兼ねて、と思って! 有名なケーキ屋さんのチーズケーキ持ってきたんだ!」


完璧な口実。完璧な手土産。完璧な笑顔。

そのあまりの完璧さに、私は逆に背筋がぞっと寒くなるのを感じた。


「え、そんな、気にしなくていいのに! わざわざありがとう。まあ上がってよ」


雫ちゃんはもう完全に彼女への警戒を解いてしまっている。リビングに通された高嶺さんは、「わー、雫君のお家初めて入った! なんかおばあちゃんちみたいで落ち着くなぁ」なんて、そつなく場を褒めながら、私の方へと視線を向けた。


「あ、穂花ちゃん、だっけ? ヤッホー!」


そして私に向き直ると、深々と頭を下げた。


「この間は本当にごめんね! 私びっくりさせちゃったよね? 雫君に彼女さんがいたなんてぜーんぜん知らなくて! 本当に失礼なことしちゃった! ごめんなさい!」


完璧な謝罪だった。そのあまりにも完璧な演技に雫ちゃんは「いやいや、高嶺さんが謝ることじゃないよ」と、完全に彼女の術中にハマってしまっている。

私だけがわかっていた。

彼女のその美しい瞳の奥が、ほんの一瞬たりとも笑っていないことに。その完璧な笑顔の裏側に、氷のように冷たい何かが渦巻いていることに。


そして、その氷の刃が私に向けられるのに、そう時間はかからなかった。


「じゃあ、俺お茶淹れてくるよ。せっかくだからこのケーキ一緒に食べよう」


雫ちゃんがそう言ってキッチンへと席を立った。

その、ほんの数秒間。

彼が居間からいなくなった、その一瞬を、彼女は決して見逃さなかった。


雫ちゃんの背中が見えなくなった、まさにその瞬間。高嶺さんの顔から、すっ、と音が消えるように笑顔が消え失せた。まるで精巧な能面のように無表情に。


そしてその冷たい値踏みするような目で、私を頭のてっぺんから足のつま先まで、じろり、と舐め回すように見た。そのたった一瞥で、私の体はまるで蛇に睨まれた蛙のように凍りついてしまう。


「ねえ」


ささやくような、しかし毒を含んだ低い声。


「本当に付き合ってんの? あんたと雫君」


声が出ない。頷くことも否定することもできない。


「へえ。雫君も物好きだよねぇ。あんたみたいなジメジメした根暗な子の、どこがいいんだか、私にはさっぱりわかんないや」


嘲笑うようなその言葉の一つ一つが、鋭いガラスの破片となって私の心に突き刺さる。

痛い。痛い。痛い。


「学校にも行ってないんでしょ?」


彼女は続ける。その声は、どこまでも冷たくて残酷だった。


「他の学校の友達が言ってたよ。二年の百合咲って子、不登校で引きこもりなんだって。ハッ、ウケるよね。ねえ、なんで学校行ってないの?おかしいと思わないの?」

「…………っ!」

「雫君がさ、毎日、学校で、みんなと笑って、頑張って勉強頑張ってる間に。あんたはゴロゴロ楽してさ」


彼女はそこで一度言葉を切った。そして最高の一撃を放つために、にやり、と悪魔のように微笑んだ。


「ねえ、惨めだと思わない?」


惨め。

その一言が、私の最も痛い心の傷を、的確に、そして執拗に抉った。いじめられていた時の記憶がフラッシュバックする。


『キモい』『死ね』『お前がいるだけで空気が汚れる』


ああそうだ。私は惨めなんだ。雫ちゃんは光の世界の住人。私は影の世界の住人。

住む世界が……違うんだ。


恐怖と屈辱と、そしてどうしようもないほどの悲しみで、私の体は石のように固まってしまった。

何も言い返せない。声が出ない。ただ指先が、どんどん、どんどん冷たくなっていくのを感じるだけ。

高嶺さんの言葉の一つ一つが、消えない呪いのように、私の心にどす黒く絡みついていく。


「お待たせー。紅茶でよかったかな?」


その時、雫ちゃんがお茶とケーキを乗せたお盆を持って居間に戻ってきた。その気配を察知した瞬間、高嶺さんはまた、あの完璧な天使の笑顔に戻っていた。その変身の速さに、私は恐怖を通り越してもはや畏怖の念すら感じていた。

この人は化け物だ。


「わー、ありがとう雫君! 優しい! 嬉しいな!」


そして高嶺さんは雫ちゃんの前で、最高の善人を演じ続ける。


「穂花ちゃん、すっごく大人しくて可愛いね! もしかして人見知りなのかな? 大丈夫だよ、私が友達になってあげる!」


その言葉に雫ちゃんは、「高嶺さん、ありがとうな」と、屈託なく笑っている。

ああ、雫ちゃん。違うの。この人はそんな優しい人じゃないんだよ。

私の心の叫びはもちろん彼には届かない。


そこからはもう、地獄のような時間だった。高嶺さんによる巧妙な私を会話の輪から弾き出すための独演会。


「そういえばさー、この前の体育祭の時、雫君リレーのアンカーですごかったよねー! マジ惚れ直しちゃった!」

「あ、わかる! 山崎先生の現代社会の授業ってマジで眠くない? 私いつも爆睡しちゃってるよー」

「そうそう、アカリ(私が知らない、共通の友人の名前)がさー、今度みんなで海にバーベキューしに行こうって言ってたよ! 雫君も、もちろん来るでしょ?」


雫ちゃんしか知らない学校での楽しげな思い出話。私には全くわからない共通の友人や教師の名前。その全てが、私にとっては全く理解不能な、異世界の言葉のように聞こえる。

会話の輪に入れない。入る隙間が、どこにもない。

雫ちゃんと高嶺さんが、楽しそうに笑い合っている。そのきらきらした光景を、私だけが分厚いガラス一枚を隔てた向こう側から眺めているような、強烈な孤独感。


雫ちゃんは悪気なく高嶺さんとの会話を楽しんでいる。彼にとって、それはただのクラスメイトとの当たり前の日常会話なのだから。

彼が私の、この息が詰まるような疎外感や、高嶺さんの底知れない悪意に全く気づいていないことが、私をさらに絶望の淵へと突き落としていく。


(私と雫ちゃんは……やっぱり、住む世界が違うんだ……)


その残酷でどうしようもない事実を、私はこの地獄のような時間の中で、これでもかというほど突きつけられていた。高嶺さんの底知れない悪意に、私はただ耐えることしかできなかった。

笑顔をなんとか貼り付けて、相槌を打とうとするけれど、喉はカラカラに乾いて声がうまく出ない。

雫ちゃんは時々、暗い顔をしている私を見て、「どうした穂花?」と、心配そうに声をかけてくれる。でもそのたびに高嶺さんが、「穂花ちゃん緊張してるんだよー! うふふ可愛いー!」と、巧みに話を逸らしてしまう。


二人の間に、高嶺さんによって巧妙な、しかし確実な亀裂が入れられようとしていた。そして私は、その悪意に満ちた静かな侵食を、ただ黙って受け入れることしかできなかったのだ。

夏の終わりの日差しが、やけに冷たく感じられた。



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