第四話:透けるTシャツと、芽生えた想い

ずきん、と鈍い痛みがこめかみの奥で鳴った。

意識が重く濁った水の底から、ゆっくりと浮上してくる感覚。瞼の裏がちかちかと白く点滅し、私はうっすらと目を開けた。

木目の天井。自分の部屋の天井じゃない。でも、いつも感じる冷たくて孤独な空気じゃない。誰かの温もりがこの部屋には残っているような気がした。


「……あれ……? わ、私……」


体を起こそうとして全身を襲う気だるさに顔をしかめる。昨日の夜、私は一体どうしたんだっけ。記憶の糸を必死に手繰り寄せる。

そうだ。雫ちゃんとぎこちない夕食を食べて……。雫ちゃんが「味方だから」って言ってくれて……。すごく、すごく、嬉しくて……。

それで、お風呂に入ろうとして……。


―――ガラッ!


ドアを開けた瞬間の光景が脳内で鮮やかにフラッシュバックした。

湯気の向こうにいた雫ちゃんの、裸。驚きと羞恥と混乱で、頭が真っ白になって……。


「あ……あ……」


そこからの記憶がない。気づけば私は自分の部屋の布団の中に寝かされていた。そして、自分の服装を見て私は息を飲んだ。

私が着ているのはいつも使っているパジャマじゃない。明らかにサイズの大きい、男性用の無地の白いTシャツ。袖は肘まで届き、裾はお尻まですっぽりと隠れている。微かに香る、家のとは違う柔軟剤の匂い。

これは、きっと、雫ちゃんの……。


そして私は、その下にあるべきものがないことに気づいてしまった。

いつも私の体を締め付けているブラジャーも、ショーツも。

そのどちらも着けられていなかった。


「~~~~~~~~~~っ!!」


声にならない絶叫が喉の奥で渦を巻く。顔から、全身から、ぶわりと血の気が引き、次の瞬間には沸騰したかのように熱が込み上げてきた。

雫ちゃんが?私が気を失った後、雫ちゃんが私をここまで運んでくれて?そして、このTシャツを、着替えさせてくれた……?

ということは。

ということは、彼は。私の、裸を、全部……。


「…………死にたい」


ぽつりと、唇から絶望がこぼれ落ちた。

もう、無理だ。もう雫ちゃんの顔なんて見れない。

どんな目で見られるだろう。「うわ、気持ち悪い」って思われたに違いない。太った醜い体。バランスの悪い大きな胸。傷だらけの心と同じくらい、私の体も醜いんだ。

軽蔑される。嫌われる。そして、きっと追い出される。お父さんとお母さんに捨てられて、やっと見つけたと思った居場所も、たった一日で失ってしまうんだ。


布団を頭まで深く被り、私は小さな球体のように丸くなった。

このまま消えてしまいたい。誰にも見つからない世界の隅っこで、塵になってしまいたい。

涙がじわりと枕に染みを作っていく。

どれくらい、そうしていただろうか。お腹が、きゅるる、と情けない音を立てた。時計を見るともう朝の八時を過ぎている。


(……謝らなきゃ)


どんな顔をされるかわからない。どんな酷いことを言われるかわからない。

でも、迷惑をかけたのは事実だ。謝罪もせずにこのまま部屋に閉じこもっているなんて、それこそ人として失格だ。

私は、震える足でゆっくりと布団から出た。襖に手をかける。冷たい金属の感触が、やけにリアルだった。

深呼吸を一つ。大丈夫。大丈夫じゃないけど、大丈夫。

私は意を決して、廊下へと続く襖を、そっと開けた。



八畳の居間に、ひどく、ひどく気まずい空気がゼリーみたいに固まって漂っていた。

ちゃぶ台の向こう側では、雫ちゃんがすでに着替えを済ませて座っていた。手持ち無沙汰な様子でテーブルの上の一点をじっと見つめている。

私の気配に気づいた彼が、びくりと肩を揺らし慌てて視線を上げた。だがその視線は、私と交わる寸前で、ふいと逸らされてしまう。


「あ……おは、よう……穂花。体、大丈夫か?」

「…………お、おはよう、ございます……。だ、大丈夫、です……」


お互いに目を合わせることができない。私も彼の顔を直視することができず、畳の縁を見つめることしかできなかった。

私は彼の向かい側に正座する。

何か、言わなければ。

昨日のこと、謝らないと。


「さ、昨夜は……」


声が喉に張り付いてうまく出てこない。心臓が痛いほどドキドキと脈打っている。


「その……お、お見苦しいものを、お、お見せ、してしまって……本当に、ごめ、なさい……!」


やっとの思いで絞り出した言葉は、情けないほど震えていた。

ああ、きっと彼は呆れているだろう。軽蔑しているだろう。気持ち悪い女だと思っているに違いない。そう思って、ぎゅっと目を瞑った、その時だった。


「い、いやいや! 見苦しいなんてこと、全然ないから!む、むしろ…何というか」


聞こえてきたのは想像していたどんな言葉とも違う、慌てたような優しい声だった。


「そ、それより!穂花が無事でよかったよ、本当に。いきなり倒れるからすごく心配したんだぞ」


私は恐る恐る目を開けた。雫ちゃんはやっぱり私のことを見てはいなかったけれど、その横顔は、困ったように、でもどこか優しく微笑んでいるように見えた。

怒っても、呆れても、軽蔑してもいなかった。ただ、純粋に私の体を心配してくれていた。

その事実が、罪悪感と羞恥心でガチガチに固まっていた私の心を、少しだけ、本当に少しだけ解きほぐしてくれた。

じわり、と目の奥が熱くなる。ここで泣いたら彼をもっと困らせてしまう。私は必死に涙をこらえた。


それでも、気まずい空気はそう簡単にはなくならない。何を話せばいいのかわからず、二人して黙り込んでしまう。

このままじゃ駄目だ。私はこの家に居させてもらう身。ただ迷惑をかけるだけの、穀潰しでいるわけにはいかない。

私に、できること。

私でも、役に立てること。


「せ、せめて……!」


私は勢いよく立ち上がった。


「せめて、家事くらいは、わ、私に、やらせてください……! あ、朝ごはん、作るから!」


これは、私の必死の生存戦略だった。役に立つ存在だと思われなければ、ここにいる資格はない。雫ちゃんに「必要だ」と思ってもらわなければ、私はまた捨てられてしまう。そんな強迫観念に私は突き動かされていた。


「え、でも、そんな……」

「お、お願い、します! これくらい、やらせて、ください……!」


私の必死な様子に雫ちゃんは少し驚いた顔をしながらも、最終的にはこくりと頷いてくれた。


キッチンに立つと少しだけ心が落ち着いた。料理は昔から好きだった。不器用でうまく人と話せない私にとって、料理は唯一、自分を表現できる手段だったのかもしれない。

冷蔵庫の中身を確認する。卵、ネギ、豆腐、ワカメ、鮭の切り身……。うん、これならちゃんとした和食の朝ごはんが作れる。

トントントン、とネギを小口切りにしていく。カコン、と卵をボウルに割り入れ、リズミカルにかき混ぜる。慣れた作業に没頭していると、さっきまでの気まずさや恐怖が少しずつ薄れていくのを感じた。

だし巻き卵は少しだけ砂糖を多めにして、甘くふっくらと。お味噌汁は丁寧に出汁をとって。鮭は焦がさないように、じっくりと弱火で。炊き立てのご飯をよそい、お盆に乗せて居間へ運ぶ。


「うわ……すごい。おいしそう」


食卓に並べられた朝食を見て、雫ちゃんは素直な感嘆の声を上げた。その目はきらきらと輝いているように見えた。


「い、いえ、そんな……」

「いただきます!」


雫ちゃんは、まず、だし巻き卵を一口、ぱくりと食べた。

そして、その目を、大きく見開いた。


「……おいしい! なんだこれ、すごくおいしい!」


本当に、本当に、嬉しそうに彼は笑った。その屈託のない笑顔はまるで太陽みたいで。私の心の、暗くて冷たい部分にじんわりと温かい光が差し込んでくるような感覚。

誰かに自分のしたことでこんなに喜んでもらえたのはいつぶりだろう。誰かにこんな風に真っ直ぐに褒めてもらえたのは。

いじめられていた学校では、私が作るお弁当はいつも「ブスのくせに女子力アピール、キモい」と捨てられていた。家にいても、両親は私の料理を黙々と食べるだけだった。

嬉しい。心が温かいもので満たされていく。この人のために、もっと何かしてあげたい。もっとこの笑顔が見たい。自然とそう思った。



食事が終わると今度は洗い物で小さな押し問答が始まった。


「僕がやるよ。作ってもらったんだし」

「い、いえ! 私がやります! 居候の身なので!」

「居候とか言うなって」

「で、でも!」


結局雫ちゃんが折れてくれて、二人で並んでキッチンに立つことになった。私が食器を洗い、雫ちゃんがそれを拭いて、棚に戻していく。

狭いキッチン。すぐ隣に雫ちゃんがいる。肩が時々触れ合う。そのたびに私の心臓はドキリと大きく跳ねた。彼の体温がTシャツ越しに伝わってきて顔が熱くなる。


私がお茶碗を洗っていた、その時だった。

蛇口から勢いよく出た水が、シンクの縁に当たって、パシャリ! と大きく跳ね返った。


「っ!?」


冷たい水滴が私の胸元にかかる。

私が着ているのは雫ちゃんに借りた、薄手の白いTシャツ。水に濡れたその部分は、まるで和紙が水を含んだ時のように、下の肌の色がくっきりと透けてしまっていた。

それだけじゃない。私の大きな胸の丸みも、その頂点にある小さな乳首の形も、全てが、濡れた布地の下から、恥ずかしいくらいにその存在を主張していた。


「あ……」


しまった、と思った。どうしよう。隠さなきゃ。でも体は石になったように動かない。

おそるおそる、本当に、おそるおそる、隣にいる雫ちゃんの様子を窺う。

彼の視線は。私の胸に、釘付けになっていた。


でもその瞳には、私が今まで向けられてきたどんな視線とも違う色が宿っていた。

学校の男子たちが私をからかう時に向けてくる、嘲笑の色じゃない。気持ち悪いものを見るような軽蔑の色でもない。

そこにあったのは、戸惑いと、好奇心と、そして抗いがたい熱を帯びた一人の男の子の、真剣な眼差し。


―――雫ちゃんは……私のこと、気持ち悪いって思わないんだ……。


その事実に気づいた瞬間、私の頭の中で何かが、カチリ、と音を立てて切り替わった。

氷が溶ける音だったのかもしれない。壁が崩れる音だったのかもしれない。

この人なら。この人だけは、私をありのままに受け入れてくれるのかもしれない。その希望が、今まで考えられなかったような大胆な勇気を私に与えた。


私はそっと、本当にバレないように、ほんの少しだけ、胸が見えやすいように体を雫ちゃんの方に向けた。


(こんなブスの胸でも……)

(雫ちゃんが、喜んでくれるなら……見て……)


濡れて張り付いたTシャツの裾を指で、くい、とほんの少しだけ引っ張る。そうすると、布の張力で胸の形がよりはっきりと強調された。

これは、私が生まれて初めてした積極的な「誘惑」だったのかもしれない。

私にできる、精一杯の愛情表現だった。


「あ、あの、穂花……」


雫ちゃんが気まずそうに、でも熱っぽい声で私の名前を呼んだ。


「む、胸が、その……み、見えて……」


彼の視線は私の胸から離せないくせに、顔は耳までリンゴみたいに真っ赤に染まっていた。そして耐えきれなくなったように、ぷいっと顔を逸らしてしまう。

そのあまりにも純情な反応を見て、私の胸は、きゅん、と甘く締め付けられた。


(かわいい、な……)


自然と、そんな言葉が心の中に浮かんでいた。

悪夢にうなされることもなく、誰かを蔑むこともなく、心から誰かのことを「愛おしい」と思えたのは、本当に、本当に久しぶりのことだった。

窓から差し込む朝の光がやけに暖かく感じられた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る