海底大陸の医者
夜間燈
第1話
深夜の冷たい部屋で、赤髪の青年が机で作業をしていた。机には一つの顕微鏡と、そしてたくさんの紙や試験管、シャーレが置かれていた。青年は顕微鏡を覗き込んだ。そして横に置かれていた紙を引っ張り出すと、そこに何やら書き始めた。
彼はずっと探している。
悪夢を終わらせる薬を。
海人と呼ばれる人々が建国した〈ワダツミ〉は、巨大な珊瑚礁の真ん中にある。浅く温かい海の中にある、四百万の民を抱える大国で、巨大な白い岩の中に建物があり、青色の石畳が広がる美しい国だ。
三百年から鯨を利用し、陸との交易も開始していた。
そんな〈ワダツミ〉にある、陸地の書が並ぶ岩の中にあるガラス張りの店の前で、一人の青年が立ち止まった。
珊瑚の卵が青年の周りを漂う。
赤い髪をもつその青年は罠に入る魚のように、ふらふらと中に入る。そして書を取ると、それを店主に渡した。無愛想な店主は彼から金を受け取り、品物を渡した。
青年は礼を言うと、店から飛び出した。そして嬉しそうに書の表紙を見つめる。分厚くて硬いその表紙を、青年は優しく撫でた。
「おーいー。スイメイ、てんめえ……また医学書買いやがったな! 今月何冊目だ!」
大声で詰め寄るような声がし、スイメイは顔を上げた。そこにいたのは、青い長髪の男だった。スイメイよりも随分と年上そうな、短い顎髭を生やした、眼光鋭い男である。
「あぁ、ナミヒトか。仕方ないだろう。
「掃除すんのはだーれですか? なぁ?」
ナミヒトはスイメイを見た。そして、息を吐いた。
ずっとコイツは変わらないな、とナミヒトはふと思う。
スイメイは幼い頃から医学に明るく、医学とつく分野なら全てを知りつくしていた。
しかし、医学以外はからっきしである。
そんな彼は古びた養生所で、患者の相手をしながら医学書を読み漁り、気になったことを実験する――という気ままな生活を送っていた。
「……ったく。今日は鯛の酒蒸しだ」
スイメイは目を輝かせながらナミヒトを見る。ナミヒトはふと笑って歩き出した。スイメイはまるで海豚の子供のように、彼の跡を追いかけた。
そんな彼らの後ろで、鼠が一匹、道を横切って路地裏に入っていった。
数日後、スイメイの養生所に一人の男が訪ねた。養生所、といっても、狭い部屋に大量の本棚が敷き詰められ、机には顕微鏡と僅かな医療道具が置かれているだけだ。
「お前はいくつになっても医学ばっかだなあ」
笑う男の横でナミヒトが頷いた。
「ほんとですよ。他のことは全部俺任せ。腐れ縁で五年間同居してるが、何にも変わらないですよ」
スイメイは表情変えずに男を見る。男はスイメイに右足を見せた。拳ほどの大きさのできものが視界に映る。毒物が原因のそれよりも遥かに大きい。
「痛いですか?」
スイメイの言葉に男は頷いた。
「朝からできちまって……何か妙なできものだと思ってな」
僅かだが熱もあるらしい。どこかその目はぼんやりとしていた。
「採血してもいいですか? それと……夕方にもう一度来てください」
男は笑いながら頷いた。ナミヒトがスイメイを見る。
「また採血か」
「なるべく患者の血は集めてえんだ。復讐の道標になるかもしれない」
それだから客が来ないんだ、という言葉をナミヒトは飲み込んだ。
結局、その日に来た患者は彼だけだった。
その日の夕方、昼に来た男が昏睡した、と彼の家族が養生所に駆け込んできた。
「どうか……夫を助けてください!」
そんな家族の叫びをスイメイは聞くものの、既に手の施しようがなくなっていた。
高熱を出しているが唸ることもなく、息は徐々に弱まっていく。手足は黒変し、深夜になれば男の呼吸音は消えた。
男が次の朝を迎えることはなかった。
冷たくなった体を前に、スイメイは力無くその場に項垂れた。
それから七日もしないうちに、似た症状の患者が各地の養生所に押し寄せた。彼らには港で働いている、という共通点があった。
症状確認から三日以内に、ほとんどの患者は死亡した。
スイメイは報告を受けるや否や、港へ直行した。
「入国者に体調不良者はいませんでしたか!」
スイメイが詰め寄ると、役人は鯨を撫でながら首を横に振る。
「それはいなかったわ。けど……最近鼠が紛れてるのよ、積み荷に。その鼠の中に、暴れてから突然死ぬのがいて」
スイメイの脳内に、医学書の一節が浮かぶ。
――踊る鼠は黒い悪魔を呼び寄せる。
随分詩的な表現ではあるが、この文章はとある風土病を表していた。
その病の名は「
体の一部を黒くさせることから、そんな名前が付いた。それだけでなく、できものや高熱なども症状として現れる。感染力が異様に高いことでも有名であった。
有効な薬はないため、致死率は八割を超える。
そういえば、数日前に死んだあの男も港に勤め、そしてできものがあり、手足を黒く染めて死んだ。
スイメイは瞠目した。
「鼠退治を行ってください! 今すぐに! 陸地からもたらされた鼠が病を広めてんだ! 対策が少しでも遅れればこの国は終わりだ!」
スイメイは大声で叫ぶ。ナミヒトは彼を見ると開口した。
「コイツの言うことに間違いはないです」
しかし、役人は首を傾げただけであった。
王に嘆願書を送るまでやったものの、鼠退治が行われるのはずっと後の話だった。
患者初確認から十四日後。遂に港から離れた地域で感染が確認された。
それから僅か一ヶ月で患者は数千規模に達した。
「地方は不衛生だからか感染拡大が早い! 致死率が高くて、抵抗力を生み出す
スイメイは顔を擦りながら叫んだ。
新たな風土病は、医学書にも対処方法は書いていなかった。
「……作るしかねえな……」
スイメイは呟いた。
彼は幼い頃に、両親を病で失っていた。そして、病への復讐を誓って医者になった。
今が復讐を果たす機会だ。
スイメイは顔を上げた。そしてナミヒトを見た。
「これから薬作りを始めたい。馴染みのある医者と
ナミヒトはスイメイを見ると、分かったと言って近くに置かれていた図鑑を開いた。
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