分岐の住所
湊 マチ
第1話 分岐の通知
会議室の机は四角く、椅子は八脚。壁の時計は秒針が静かに進むだけで、音はしない。
テーブルの上に、透明なファイルがいくつか重ねて置かれた。表紙には黒い字で、兄と弟の名前、施設名、学校名。隅に紙を押さえる文鎮。書類の端だけがきれいにそろっている。
児童相談所の担当者が、ファイルを一枚ずつ手前に寄せた。
「きょうだいは、できる限り一緒に、が原則です。——ですが、今回は今は別々の里親さんにお願いします」
言葉は短く、よく通った。
「兄の蒼真くんはA家。弟の光くんはB家。どちらも学校の通学圏内、面会は月に2回、時間は—」
担当者は面会予定表を指でなぞり、15分刻みの欄に細いチェックを入れた。「—ここです」
蒼真はうなずいた。光は椅子の脚から靴の先を少しだけはみ出させ、じっとしている。
机の向こう、スクールソーシャルワーカーの佐伯が言葉を足した。
「学校からの連絡は、学校→私→それぞれの里親さん、の順にします。蒼真くん、光くん、直接の連絡は面会のときに。約束ごとは紙に残すから心配しないで」
「はい」蒼真は答えた。短い返事。
施設職員の春原——名札には「ハル」とある——が、透明な袋を二つ置いた。
「連絡帳。今まで使っていた分に、それぞれの家の連絡先シートを足してあります」
連絡帳は同じフォーマットなのに、表紙の角の丸みが少し違って見えた。蒼真は二冊のうち弟のほうを開いた。
紙の端に、細いクリップが一つ。
「ここに、提出物はさむ。ここだと忘れない」
光はうなずいたかどうか分からない、ほんの小さな動きで返した。蒼真はクリップの場所を一度だけ確かめて、連絡帳を閉じる。
担当者が「では」と手続きを続けた。必要な欄に必要な印が、一定の間隔で紙に落ちる。
トン。
トン。
印の音は乾いていて、同じだった。音の同じところが、救いに思えた。
*
送迎の車は二台。A家へ向かう車に蒼真、B家へ向かう車に光。
別れ際、蒼真は光の胸元に手を伸ばし、名札の傾きをまっすぐにした。
「これで、ちゃんと前を見る」
光は小さく頷いた。
「行ってくる」
「行ってこい」
それだけで十分だった。余計な言葉を置けば、どこかに刺さる気がした。
車は別々に発車し、角を違う方向へ曲がった。窓の外に、同じ色の制服の子どもが歩いている。信号は同じ速さで赤から青に変わるのに、二台の車は別の道を選んだ。
*
A家は、玄関を入ってすぐ右手に洗面台があった。鏡が大きく、コップが二つ並んでいる。
「ようこそ」とA家の母が言い、スリッパを差し出した。
リビングの隅には、小さな棚があって、透明のトレイにラベルが貼られていた。学校、体操服、図書館。引き出しの取っ手が指に吸い付くほどつるつるしている。
「ここが蒼真くんの場所。明日の支度は、ここでやろう」
「はい」
夕方、ご飯の匂いが台所から廊下に流れてきた。炊飯器のふたが上がる音。湯気が白いのに、重たかった。
「おかわりいる?」とA家の母。
蒼真は足を止め、器を二つ出してしまった。すぐに一つ戻す。手の中で、器がふわりと鳴った。
「うん、いる」
それだけ言って席に着く。箸は軽く、茶碗の底は厚かった。
食後、A家の母が連絡帳を開いた。保護者欄に、丸い印を押す。トン。
音が、さっきと同じで少し違う。机の材質のせいかもしれない。
「宿題は国語と算数」
「はい」
蒼真は鉛筆を削り、指に粉がつくのをそのままにして問題を解いた。数字はきれいに並んだが、文章題の答えは一度消して書き直した。主語という言葉が頭に浮かび、すぐに消えた。
寝る前、A家の父が「明日の朝は七時半集合」と予定を短く告げた。
蒼真の胸の奥が、少しだけ硬くなる。予定は好きだ。好きなのに、知らない家で言われると、自分の声が半歩遅れてついてくる。
「分かりました」
言葉は先に出た。体はあとからうなずいた。
ベッドに入る前、蒼真は連絡帳の保護者欄に視線を落とした。丸い印のところを目でなぞり、深呼吸をひとつ。紙を閉じる。
「おやすみなさ——」
言いかけて、言い直す。
「おやすみなさい」
A家の母が「おやすみ」と返した。声は柔らかく、遠すぎず、近すぎない。ちょうどよかった。
*
B家の玄関は、小さな靴箱の上に写真立てがひとつ。笑っている子どもが写っている。
「今日からよろしくね」とB家の母。光は靴をそろえて置いた。靴ひもはほどけかけていたが、見ないふりをして中に入った。
リビングの壁には、紙が三つ。歯みがき、水、灯り。寝る前のやることが絵で並んでいる。
「寝る前は、これを順番にやるよ」
「うん」
夕飯のテーブルで、光はスプーンを握りしめた。ラップのはがれる音、レンジのピッという音、皿が重なる小さな音。
「学校はどう?」
「ふつう」
「宿題は?」
「音読。ここにサイン」
光は連絡帳の欄を指で示し、ペンを渡した。B家の母はそこにサインを書いた。筆圧は軽く、線の終わりがすっと細くなる。
「ありがとう」光は言って連絡帳を閉じた。サインのにおいは、少しだけ懐かしかった。誰の記憶に似ているのか、よく分からないまま。
寝る前、光は小さく確認した。
「“おやすみ”って、だれが言うの」
「今夜は、私たち」
「うん」
灯りを消す前に、B家の母がそっと靴ひもを結び直した。光は気づかないふりをした。気づいてしまうと、言葉が増えて眠れなくなる。
*
翌朝。学校の廊下は少し冷たく、靴底の音が低く響いた。
担任の鈴木は、二冊の連絡帳を机に並べ、順に目を通した。片方の保護者欄に丸い印、もう片方にサイン。
鈴木は何も言わず、印鑑のふたをカチと閉めた。その音だけが、同じに聞こえた。
一時間目の前、教室に朝の光が斜めに差し込んだ。
「提出物はここに」と鈴木が前の台を指差す。
蒼真は弟の連絡帳の端に指先を置き、提出物クリップが定位置に留まっているのを確認した。光は前を見て、何も言わずにうなずいた。
四時間目に図工があった。木工用ボンドのにおいが教室に広がる。
光がうっかり袖を汚しかけ、蒼真が手を伸ばして布を押さえた。何も言わず、相手も何も言わない。それで十分だった。
昼のチャイムが鳴り、給食当番の白衣がカサカサと揺れる。
食器が重なる音、牛乳パックの開く音、トレーが机に置かれる音。いつもと同じ音が、今日は少し遠い。音の向こうに、別の台所の湯気を思い出すからだ。
*
放課後、施設の面会室で、佐伯が短い説明をした。
「面会は第2と第4土曜。各15分。場所はここ。時間は15:20から15:35。連絡は学校→私→里親さん。そして、二人からのやり取りはここで」
面会予定票が机に置かれ、角が軽く指で押さえられる。紙は薄いが、ずれない。
春原が立ち会いの欄にサインを入れた。
「困ったときは、まず学校か私に」
「はい」蒼真は答えた。
光は予定票の時刻を声に出さずに読み、口の中で数えた。数字は声にしないほうが落ち着いた。
帰り際、蒼真は光の胸元にもう一度手を伸ばし、名札をまっすぐに整えた。
「行ってこい」
「うん」
それだけ言って、別々の玄関へ向かう。入口は二つ、靴箱も二つ。手すりの高さが少し違う。ドアの重さも、違う。
*
夜、A家の廊下は静かで、壁の角が白く光っていた。
蒼真は机に座り、短いメモを書いた。
——明日、七時半集合。体操服。水筒。
紙を折って筆箱に入れる。鉛筆の匂いが、指にうつった。
布団に入る前、蒼真はまた連絡帳の保護者欄を見た。印の丸の輪郭は、昼より少しだけ薄いように見える。見間違いかもしれない。
灯りを落とし、目を閉じる。
「おやすみなさい」
小さく言ってから、息を整える。耳の奥ではトンという印の音が繰り返し、少しずつ遠くなる。
同じころ、B家の寝室で、光は布団の端を指でつまんでいた。
「おやすみって、だれが言うの」
「今夜は、ここ」B家の母が言った。
「うん」
光は目を閉じ、息を吐いた。
別々の家で、別々の言葉が、同じ意味で落ちていく。
紙は机の上でそろい、予定表は壁にかかる。面会の時刻は変わらない。
明日も学校があって、印はまたトンと鳴る。
それで、とりあえずは進める。
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