水の名前

@kanata-Iriya

第1話 帰省

【東京・立川郊外/八月、午後】


 テレビが勝手に喋っている。ニュースのL字の下で、ひび割れた湖底がドローンで舐められていく。石垣、転がった電柱の碍子、道だったものの筋。アナウンサーが「記録的な渇水」「ダム湖底の遺構」と言うたびに、画面の右上で似たような言葉のテロップが踊る。

 俺はソファに沈みながら、スマホで同じ映像の短い切り抜きをスクロールする。#渇水 #湖底 #廃景。リールの音は消して、目だけで追う。光の当たり方が良いのだけ保存。下書きフォルダは、いつも満杯だ。


「お盆、どうするの」台所から母。

「どうもしない。来週でしょ」

「おばあちゃんから今朝、電話。『帰ってこい』って。ほら、お祭り、あるじゃない」

 テレビの画面が“記録的猛暑、各地のイベント中止相次ぐ”に変わる。タイミングが悪い。母がスマホをスピーカーに切り替えた。スピーカー越しに祖母の声が少し大きくなる。

よう、聞こえっか? こっちは雨が来ん。祭りはやる。人も減ってるし、お前が撮れば、あれだ、なんだ、ばずる』

「ばあちゃん、バズるは…まあ、そういうものでは」

『陽が上手いべ。あの、短(みじか)い動画のやつ』

 母が笑いを堪える音を立てる。「よく知ってるわね」


 父は新聞をめくって、「行ってやれよ」とだけ言う。俺は画面を閉じて、天井を見る。だるい。だるいけど、下書きフォルダの奥で「祭りの灯り」とか「風鈴の音」とかのタグが少し騒いでいる。映えるやつは、だいたい夜にある。


「じゃ、三人で週末に——」

「いや、陽だけ先に」母はもうスケジュールアプリを開いている。「私たちは仕事あるから、来週半ばから。陽は祭りに合わせて前乗りして、終わったら戻る。入れ替わりで私たちが泊まる。そうしよ」

 決まったみたいな口ぶり。俺の番、短すぎない?

「ちょっと待って。俺の予定は?」

「……予定、ある?」

 ない。あるような顔をして黙ると、父が咳払い一つ。祖母が追い打ちする。

『陽、祭りはな、今年はいさぐ静かにやるんだと。手伝い、足りねぇ』

「手伝いまでセット?」

『うん』

「うんって…」


 勝手に話が転がっていく感覚は、きらいじゃないけど、好きでもない。俺の画面に、同級生のストーリーズが流れる。海、花火、どれも同じ角度。白飛びした月。

「わかった。行く。——ただし、祭りが終わったらすぐ帰るから」

 母は親指を立ててみせる。「交渉成立」

 祖母が満足げに『よし。駅まで迎えに行っから』

「迎えはいい。大丈夫だよ」

『じゃあ、冷やし中華だけ作って待ってっから』


 通話が切れて、部屋が少し静かになる。テレビはまだ「各地で渇水」の地図を出していて、その端にうちの市の名前も小さく打ってあった。地図の端に「名取川水系の県営ダム、完成以来初の貯水率ゼロ」のテロップ。

「チケット取るね。あさっての午前」母の指が素早い。

「ちょ、待っ——」

「大丈夫。指定席。窓側」

 もう通知が来た。予約完了。俺の意思はどこ。

「……勝手に進めるの、やめてよ」

 母は振り返らない。「だって、行くって言ったから」

 ……正論で刺すの、やめてよ。


 荷物は軽い。Tシャツ、充電器、モバイルバッテリー。カメラは持たない。スマホで足りる。三脚は悩んで、やめる。夜店の明かりは手持ちでどうにかする。

 SNSを開いて、地元のハッシュタグを軽く探る。#水上みなかみ神社 は投稿が少ない。#祭り のほうは去年の映像がまだ生きてる。コメント欄に「今年は?」が並ぶ。

 アルバムの海に、祖母の昔のガラケー写真が混ざっているのを思い出す。ブレて、暗い、でも笑ってるやつ。ああいうのを“下手”って言い切れないくらいには、俺も歳を取ったのかもしれない。


 玄関でスニーカーの砂を払うと、母が顔を出す。「お土産、何がいい?」

「なんでも」

「なんでもは困る」

「だって行き先同じじゃん」

「んー、それはそうだけど……」

「じゃあ萩の月」

 母は目を細めて、「どうせあんたも同じもの買ってくるんでしょ?」と笑う。


 外は熱風。ベランダのプラスチックの椅子が温まって、触ると柔らかい。空は薄く白い。

 俺はスマホのカメラを起動して、テレビの映像の残像みたいな空を一枚だけ撮る。保存はしない。下書きにも入れない。

「とりあえず、行く。面倒は、あとからどうにかする」

 独り言みたいに言って、通知を全部切る。画面の明かりが消えると、部屋の色が少しだけ落ち着いた。

 祭りは“映える”だろう。だからこそ、ちゃんと撮らなきゃいけない気もする。撮って、上げて、数字をもらって、また忘れる。

 それをもう一回やるのか、やらないのか。

 今はまだ、どっちでもいい。まずは行く。帰りの条件は、俺が決めた。それなら十分だ。


碁石ごせき地区/午後】


 電車とバスで一時間五十分。ケツが四角くなった頃、終点のアナウンスが湿って聞こえる。ドアが開いた瞬間の空気は、温い水みたいだ。むせるみたいな緑の匂い。バス停の後ろに、山から落ちてきた風だけが細く通っている。


 アスファルトは白く褪せ、田んぼはきれいに緑——なのに畦の土は亀裂だらけで、ところどころ白く粉をふいている。稲は真っ直ぐ伸びているのに、地面は乾いている。変な絵だ。


 歩いて母の実家へ。門柱の表札は錆びて、インターホンは飾り。戸を開ける前から、台所の音が聞こえた。

「陽! 来たのが」

 ばあちゃんの声は相変わらず大きい。抱きつかれて、汗と柔軟剤みたいな匂いが混ざる。うれしいけど、暑い。ちょっと鬱陶しい。

「冷やし中華、作ったがら」

 予告どおりのメニュー。ちゃぶ台に載ったそれは、不味くはないが、麺が少しくっついていて箸が重い。錦糸卵がやたら多い。

「うまい?」

「うまい。……麺が仲良しだけど」

「水でほぐせばいがったな」

 笑いあって、麦茶を一気に飲む。氷が音を出さないくらい溶けている。


 荷物をほどき、一息ついてから外に出る。家の前の坂道は相変わらず急で、蝉の声が壁みたいに立っている。通知は切ったまま。ポケットのスマホが汗で少し重い。

 曲がり角を二つ抜けたところで、上から何かが落ちてきた。

 麦わら帽子。風に煽られて俺の胸に当たって、足元へ転がる。拾い上げたタイミングで、日陰から手が伸びた。


「ごめん、それ——」


 顔を上げる。知らない顔。

 でも、笑い方の形だけが、見覚えのあるまま残っていた。


「……レン?」

「——陽?」


 同時に言って、同時に間があく。

 及川 蓮。最後にちゃんと話したのは中一。背が伸びて、肩が広がって、声の出し方がゆっくりになっている。けど、目尻の皺の寄り方は昔のままだった。


「生きてた?」

「まあね。お前も。東京、暑い?」

「暑い。こっちも暑い」

 どうでもいいやり取りが、妙に気持ちいい。


「これ、返す」帽子を渡す。蓮は片手で受けて、もう片方の手でスマホを出した。

「連絡先、交換しよ。どうせ捕まるから、青年会に」

「先に言うなよ」


 QRを出す。画面が近づいて、読み取りの音が小さく鳴る。

 蓮のストーリーズには“青年会”のスタンプが並んでいる。

「それ、忙しい?」

「死ぬほど。祭りの準備、人数いないからさ。テントと提灯と進入禁止のロープと、あと……」

「酒の段取り」

「わかってんじゃん。——で、お前もこれから押し付けられるわけだ」

「やっぱり」

 二人でため息を揃える。悪くない。


「神社、顔出す?」蓮が顎で上を示す。坂の上、鳥居の朱。

「行く。ついでにお参りしとくか」


 参道は乾いた砂利が白い。上がるほど蝉の音が濃くなる。拝殿の影がひと息分だけ涼しい。鈴の綱が新しくて、手触りが硬い。

直央なおさん、いるかな」

「直央さん?」

「ここの神主……じゃなくて、ええと、なんだっけ?滝本 直央さん。オレ、青年会で世話になってるんだ」

 社務所の戸を蓮が軽く叩く。中から白衣の若い人が出てきた。涼しい目をして、声が柔らかい。

「こんにちは。そちらの方は、——初めてだよね?」

「はい、早坂です。お世話になります」

禰宜ねぎの滝本です。ようこそ。暑い中、ありがとう。参拝だけなら、どうぞごゆっくり」

 礼だけで終わる、軽い初対面。名乗り合いはこれで十分だ。役職は後ろに下がって、名前だけが残る。


「及川くん、今日も?」

「はい。延長コード、あと二本。直央さん、どっか余ってます?」

「庫裏の棚に一本。もう一本は町内会に……頼める?」

「了解。——あ、こいつも明日から手伝ってくれるって」

 蓮が俺の肩を軽く叩く。

「それは助かるなぁ。なにせ若手が足りないからね。よろしく」

「あ、はい。よろしくおねがいします」


 鈴を鳴らし、二拍手。願いごとは特にない。暑さが引くまで目を閉じる。まぶたの裏が赤い。蓮が横で小さく笑っている気配がする。

「明日な、青年会の会合が昼からあるんだ。配線と発電機の確認。終わったら行こうぜ」

「どこに」

「碁倉ダム。湖、すげえ下がってる。二重の弧、覚えてる? あれ、下から見れるかも」

 胸のどこかが少しだけ動く。”映える”が頭に浮かんで、すぐ消す。

「いいけど、暑いよ」

「知ってる。夕方な。飲み物は多め。あと長靴履いてきて」

「長靴?」

「泥、すごいから。たぶん。——まあ、行けばわかる」

 軽い声で、重いことを言う。昔からそういうやつだった。


 帰り道、坂の上から稲の面が海みたいに広がって見える。風で表面だけが波になって、畦のひびはそのまま。

「今年、雨、来ねえからさ」蓮。

「ニュースで見た」俺。

「ニュースで見ると、他人事だよな」

「うん」

 ここに立つと、少しだけ自分のことになる。


 ばあちゃんちはもう涼しくなっていて、麦茶の氷がちゃんと音を立てた。テーブルの端に、昼の冷やし中華の皿が裏返して置いてある。麺の端っこが一筋だけ乾いて張り付いている。

「明日だよね、何時?」

「会合は一時。終わったら迎え行く」

「了解」


 スマホの予定に弱く入れる。通知は切ったまま。

 面倒は、明日まとめて。今日は風呂と、氷の音で終わらせる。

 時間はまだ、たくさんあるんだから。

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