スーパーカブSS -空白を走る日々-
五平
第1話 椎、カブに憧れる日
八月が終わり、九月に入ると、風は急に熱気を失った。椎の通う高校の通学路は、夏の名残である蝉の声から、秋の訪れを告げる鈴虫の声へと主役を交代しつつある。それは椎の体感温度もそうだったが、それ以上に、乗っているアレックス・モールトンの自転車のハンドルから伝わってくる重さが、季節の移り変わりよりも雄弁に、椎に現実を突きつけていた。
「ハァッ……ハァッ……」
坂道を登り切ったところで、椎はハンドルに両腕を乗せ、大きく息を吐いた。ぜいぜいと鳴る肺が、冷たい風を吸い込み、喉の奥をヒリヒリとさせた。夏の間は、まだ少しばかりの汗をかく程度だった。しかし、今は違う。まるで冬を前にして体が重くなっていくように、坂道が椎の体力を奪っていく。
そんな椎の横を、無表情な少女が、何の苦もなく通り過ぎていく。小熊だ。彼女が乗るスーパーカブは、まるで坂道という障害を認識していないかのように、淡々と進んでいく。その後ろを、礼子が楽しそうに笑いながら、同じくカブで追いかけていく。
「いってらっしゃーい……」
椎は力なく手を振った。二人のカブのテールランプが、遠ざかっていく。その光景は、いつもの日常であるはずなのに、今日の椎の目には、どこか遠い世界のように見えた。自分は、この坂を乗り越えることさえ一苦労なのに、彼女たちはどこへだって行けてしまう。その事実が、椎の心に小さな、しかし確かな違和感となって残った。
放課後。礼子が自転車置き場で椎を待っていた。
「どうしたの、顔が赤いよ?」
「ううん、ちょっとね……坂道が、急になったのかなって」
椎の言葉に、礼子は「ははっ」と笑う。
「坂道は変わらないよ。たぶん、椎がそう感じてるだけだ」
その言葉に、椎は自分の抱えるモヤモヤを正直に話す。
「ねえ、礼子ちゃん。自転車って、こんなに大変だったっけ……?」
礼子は真面目な顔で椎の話を聞いていた。そして、自分のカブを指差して冗談めかして言った。
「じゃあ、バイクにでも乗る?」
椎は、一瞬言葉に詰まった。反射的に「無理だよ」と答えそうになり、口を開きかけたところで、言葉が喉の奥につかえる。その沈黙の一拍が、椎の心に、小さな希望の光を灯した。
「見るだけなら、タダだよ」
礼子の言葉に背中を押され、帰り道、二人は地元の小さなバイク店に立ち寄る。
店に入ると、まず鼻をくすぐったのは、油とゴムが混ざり合った独特の匂いだった。店の前には、様々なバイクが並んでいた。アメリカン、ネイキッド、そしてスクーター。その中に、椎が見慣れた形を見つけた。ホンダ・スーパーカブだ。礼子と小熊が乗っているバイクと同じ。でも、一台一台、色が違ったり、形が少し違ったりする。
椎は、まるで吸い寄せられるかのように、カブの前に立った。そっと手を伸ばし、丸いヘッドライトに触れる。ひんやりとした金属の感触が、手のひらから伝わってきた。次にシートに座ってみる。想像していたよりも硬い感触が、お尻に伝わってくる。その物理的な接触が、椎の心に、今まで漠然としていた「憧れ」を、「乗りたい」という具体的な欲求に変えていく。
(カブって、こんなに種類があったんだ……)
その夜。椎は自分の部屋で、パソコンを立ち上げていた。検索窓に「スーパーカブ」と入力すると、無数の情報が表示される。燃費の良さ、積載力の高さ、そして世界中で愛されているという事実。椎の知らなかったカブの世界が、そこには広がっていた。
「すごい……」
画面に表示されたカブの画像を見て、椎はつぶやいた。無骨で実用的なデザイン。でも、どこか頼もしくて、温かみがある。夏の間、小熊と礼子のカブの後ろ姿を見て、漠然と抱いていた憧れが、椎の心の中で、具体的な期待へと膨らんでいく。
これは、ただの始まりにすぎない。
椎は、いつの間にかカブの写真を見ながら、満面の笑みを浮かべていた。
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