俺の彼女がヤンデレすぎて学園がホラーになった件(ただしコメディあり)

モノを描く人

第1話 転校生は純真可憐なストーカー?

「あー、平和だ」


 俺、天野悠真(あまの ゆうま)は、窓から差し込む春の柔らかな日差しを浴びながら、誰に言うでもなく呟いた。


 高校二年の春。クラス替えの喧騒も落ち着き、人間関係のグループも緩やかに固まり始めたこの時期は、一年で最も穏やかな時間が流れる。退屈と言えば退屈だが、波乱万丈な人生など望んでいない俺にとっては、この上なく心地良い状態だった。


 俺の人生哲学は、徹頭徹尾「モブ」であること。物語の主人公なんて柄じゃない。光が当たれば影もまた濃くなる。ならば、初めから光の当たらない場所にいればいい。物語の背景にいる、通行人A。それが俺の定位置であり、心の平穏を保つ秘訣なのだ。目立つことなく、誰の記憶にも残らず、しかし確かにその場に存在する。文化祭では率先して背景の木を描き、体育祭ではゴールテープを切る役ではなく、それを支える役を選ぶ。グループワークでは、決してリーダーにはならず、かといって何もしない厄介者にもならない。「その他大勢」の意見に静かに同調し、波風を立てずに責務を全うする。教師に当てられても、教科書の範囲から逸脱しない、完璧に無難な答えを返す。そんな空気のような存在感こそ、俺が目指す究極の処世術だった。


 右隣の席では、親友の佐倉健太(さくら けんた)がスマホの画面を高速でタップしている。ヘッドホンからは微かに効果音が漏れており、おそらく新作の音ゲーに夢中なのだろう。あいつはいつもそうだ。自分の興味があることには全力だが、それ以外は驚くほど無関心。そのサバサバした性格が、俺にとっては心地良い。


「お、フルコンボ達成。悠真、見たか今の神業」

「見てねーよ。つーか、授業始まるぞ」

「それとこれとは話が別だ。歴史的瞬間を見逃したな、お前は」

「お前の歴史なんて、一ミリも興味ねえよ。どうせ明日には別のゲームの歴史が始まってるんだろ」

「よく分かってるじゃないか。だが、この一瞬一瞬の輝きが大事なんだぜ」

 そう言ってウインクしてくる健太を無視し、俺は再び窓の外に視線を向けた。


 左斜め前の席では、クラスの中心グループにいる快活な少女、藤崎葵(ふじさき あおい)が友達と楽しげに昨日のドラマの話で盛り上がっている。「あのシーンの俳優、マジでかっこよくなかった!?」「わかるー!最後の告白シーンとか、キュン死にするかと思った!」なんていう、キラキラした会話。俺には一生縁のない世界だ。それでいい。彼女のような陽の当たる場所にいる人間と、俺のような日陰者が交わることはない。それで世界の均衡は保たれているのだ。


 視界に映るすべてが「普通」で「平凡」。これだよ、これ。俺が求めているのは、この絶妙なモブ感なんだ。


 そんな平穏を絵に描いたような教室の空気が、担任教師の気の抜けた一言によって、ガラスのように脆く砕け散ったのは、その直後のことだった。


「えー、ホームルームを始めるぞー。今日は皆に、転校生を紹介する」


 転校生。その言葉の響きに、クラスが一瞬にしてざわめく。この時期の転校生なんて、漫画やラノベでしか見たことがない。大抵、物語が大きく動き出すフラグだ。やめてくれ。俺の平穏な日常に、そんな劇的なイベントは必要ないんだ。神様、俺はここにいます。どうか、どうかご配慮を。俺は目立たず、騒がず、空気のように生きていきたいだけなんです。


 俺が内心で全力で拒否していると、担任に促されて一人の女子生徒が教室に入ってきた。


 その瞬間、俺は息を呑んだ。


 腰まで伸びた、艶のある黒髪。透き通るように白い肌。少し伏せがちだが、長いまつげに縁取られた大きな瞳。控えめに結ばれた唇は、まるで桜の花びらのようだ。儚げで、可憐で、思わず守ってあげたくなるような庇護欲を掻き立てる、まさに完璧な美少女だった。


 教室中の視線が、彼女の一挙手一投足に釘付けになる。男子は目を輝かせ、女子は感嘆と少しの嫉妬が混じったため息を漏らす。健太ですら、珍しくゲームの手を止めて「マジかよ…レベル高すぎだろ…二次元から出てきたのか?」と呆然と呟いている。


「星野紗耶(ほしの さや)です。よろしくお願いします」


 鈴が鳴るような、か細くも澄んだ声。彼女がお辞儀をすると、サラリと黒髪が揺れた。その仕草だけで、クラスの男子の半分は恋に落ちたんじゃないだろうか。


 もちろん、俺も例外ではなかった。可愛い。いや、可愛いなんて言葉では足りない。天使か? 天使が舞い降りたのか? 俺の平穏な日常はどこへやら、心臓は勝手にビートを刻み始めている。


 だが、すぐに俺は冷静さを取り戻した。そうだ、これは俺には関係のないことだ。彼女は、藤崎葵と同じ、陽の当たる世界の住人。俺のような日陰のモブとは、交わることのない存在。そう、観賞用だ。美術館の彫刻みたいなものだと思えばいい。決して触れてはならない、聖域なのだから。


 そう自分に言い聞かせ、俺は再び空気と化すことに集中した。


「じゃあ星野、席は…そうだな、あそこが空いてるな。天野の隣だ」


「へ?」


 俺は間抜けな声を上げた。天野。それは俺の名前だ。俺の、隣?


 ゆっくりと、信じられないものを見るように自分の隣の空席に視線を移す。確かに空いている。そして、その席に向かって、今しがた全校男子の憧れの的となったであろう美少女、星野紗耶が、こちらに向かって歩いてくる。


 嘘だろ。これは夢か? ラブコメの王道展開が、なぜ平凡を愛する俺の身に? 神様、さっきの祈り、届いてませんでしたか? それとも、俺の平穏を破壊するために刺客を送り込んできたとでもいうのか?


 俺が内心でパニックに陥っている間に、紗耶は静かに俺の隣の席に座った。ふわりと、シャンプーの甘い香りが鼻を掠める。俺は心臓が口から飛び出しそうで、彼女の方をまともに見ることすらできなかった。


「よろしくね、天野くん」


 小さな声で囁かれ、俺は「お、おう…」とどもりながら返すのが精一杯だった。


 こうして、俺の人生哲学である「モブであれ」は、転校初日にして最大の危機を迎えることになったのだった。


 ◇


 それからというもの、俺の日常は静かに、しかし確実に侵食され始めた。


 一限目の現代文。教科書の難解な一節に頭を悩ませていると、ふと視線を感じて横を向く。紗耶がじっと俺のことを見つめている。目が合うと、彼女は恥ずかしそうにサッと俯く。その視線は、俺の顔ではなく、ノートに文字を綴る俺の右手を、ただひたすらに見つめているようだった。


 二限目の数学。教師が黒板に書く数式をノートに写しながら、横目で様子を窺う。やはり、見ている。教科書に視線を落としているかと思えば、その瞳は明らかに俺の方を向いている。気のせいじゃない。これは確信犯だ。その視線は、まるで俺の横顔の輪郭をなぞるように、ねっとりと動いていた。彼女のシャーペンは、ノートの上でピクリとも動いていない。


 三限目の体育。準備運動を終えて、男子はサッカー、女子はバレーボールに分かれた。これで少しは解放される。そう思ったのも束の間、ドリブルをしている最中に、体育館の端から突き刺すような視線を感じた。見ると、サーブの順番を待っている紗耶が、ボールそっちのけで俺だけを凝視していた。そのせいで俺はパスミスをし、健太から「悠真、どこ見てんだよ!」と怒鳴られる羽目に。お前のせいだよ!とは、もちろん言えなかった。


 そして昼休み。健太と屋上で弁当を広げていると、その視線はさらに強くなった。


「おい悠真、あの転校生、絶対お前のこと見てるよな?」

 健太が唐揚げを頬張りながら、ニヤニヤと話しかけてきた。

「そ、そんなわけないだろ。自意識過剰だって」

「いやいや、あれはロックオンしてる目だぜ。お前、なんかしたのか? 前世で命でも救ったとか?」

「するわけないだろ! 今日初めて会ったんだぞ!」


 俺は必死に否定したが、内心では健太の言葉が的を射ていることを理解していた。あの視線は、ただの興味じゃない。もっと深い、何か得体の知れない感情の色をしていた。まるで、獲物を狙う肉食獣のような、ねっとりとした粘着質を感じさせる、そんな視線。


 その時だった。

「天野くん、ごめん! 数学のノート、ちょっと見せてもらっていい? さっきのとこ、写しそびれちゃって」

 藤崎葵が、屈託のない笑顔で俺たちの席にやってきた。

「お、おう。いいぞ」

 俺がカバンからノートを取り出そうとした瞬間、肌を刺すような視線がさらに鋭くなったのを感じた。恐る恐る紗耶の方を見ると、彼女はニコリと微笑んでいる。だが、その瞳は全く笑っていなかった。冷たい光を宿した瞳が、真っ直ぐに葵を射抜いている。


「ありがとう!助かるー!」

 葵は何も気づかずにノートを受け取ると、自分の席に戻っていった。俺は、まるで猛獣の檻から小動物を救い出したような、妙な安堵感を覚えていた。


 そして、その日の放課後。事件は起きた。


 俺が日直の仕事を終えて一人で帰ろうとすると、昇降口で紗耶が待っていた。壁に寄りかかり、夕日を浴びる彼女の姿は、まるで一枚の絵画のように美しかった。


「あ、天野くん…」

 俺に気づくと、彼女は駆け寄ってきた。

「星野さん。どうしたの? まだ残ってたんだ」

「うん。天野くんを、待ってたの」


 待ってた? 俺を? なんで?

 疑問符が頭の中を飛び交う。俺と彼女の接点なんて、今日一日、隣の席だったこと以外に何もないはずだ。


「あのね、私…」

 紗耶は俯き、自分の指先をいじりながら、もじもじと言葉を探している。その仕草の一つ一つが、いちいち可愛い。俺の心臓が、またうるさく鳴り始める。


 やめてくれ。そんな王道ラブコメみたいな展開は、俺には荷が重い。


「私、天野くんのこと、一目見たときから、運命だと思いました」


「……はい?」


 予想の斜め上を行く言葉に、俺の思考は完全に停止した。運命? 俺と、この完璧美少女が? ないないない。絶対にない。俺は平凡なモブキャラAだぞ。そんな主人公みたいなセリフを言われる筋合いはない。


「教室に入った瞬間、見えたの。悠真くんと私の小指が、キラキラ光る赤い糸で結ばれてるのが…」

「え、糸…?」

「うん。最初は細かったんだけど、悠真くんが私を見てくれるたびに、どんどん太く、強くなっていくのが分かったの。だから…」


 紗耶は顔を上げ、潤んだ瞳で俺を真っ直ぐに見つめた。その瞳には、一点の曇りもない、純粋な光が宿っていた。あまりにも純粋で、狂気すら感じさせるほどの、強い光が。


「私と、付き合ってください」


 時間が、止まった。

 周囲の喧騒が遠のき、世界に俺と彼女だけしかいないような錯覚に陥る。

 断るべきだ。絶対に断るべきだ。こんな得体の知れない美少女と関われば、俺の愛する平穏な日常は木っ端微塵に吹き飛ぶ。頭の中の警報が、けたたましく鳴り響いている。


「あの、えっと、友達からじゃ…ダメかな?」

 俺がかろうじて絞り出した言葉は、彼女の強い眼差しによってかき消された。

「友達じゃ、嫌なの。恋人がいい。だって、私たちは運命で結ばれてるんだから」


 有無を言わせない、強い意志。

 だが、俺の口から出た言葉は、脳の指令とは全く逆のものだった。


「……はい」


 なぜOKしてしまったのか、自分でもよく分からない。彼女のあまりにも真剣な眼差しに気圧されたのか。それとも、心のどこかで、この非日常的な展開に浮かれていたのか。


「本当…? うれしい…!悠真くん!」


 紗耶は、花が咲くように笑った。その笑顔は、どんな芸術品よりも美しく、俺の理性を完全に麻痺させるには十分すぎた。


 その夜、俺は自分の部屋のベッドの上で頭を抱えていた。

「俺はなんてことを…」

 付き合ってしまった。あの美少女と。普通なら万々歳のはずなのに、俺の心は不安でいっぱいだった。「赤い糸が見える」とか言ってたぞ。あれは比喩か? それとも本気か? どちらにしても、普通じゃないことだけは確かだ。

 スマホを手に取る。メッセージアプリを開いても、彼女からの連絡はまだない。少しだけ、ホッとする。このまま、何事もなかったかのように明日を迎えられないだろうか。そんな淡い期待を抱きながら、俺は眠りについた。


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