『シーズンⅢトーナメント』準々決勝 ②

 操縦席から見えるスタートゲートはまだ蜘蛛の糸のように細い。

(1分11秒40か……。俺の自己ベストより0コンマ1秒速い――)

 スカイウルフは高度計と速度計を確認しつつ、ゲートへの突入角度を微調整する。

(普通にやったら、奴の上を行くことは出来ない)

 時刻を確認、ゲート突入まであと20秒。

 それまでにホークに勝つルートを模索しておかなければならない。

 すでに練習で試しているいくつかのルートに、ホークのナイフエッジのルートを合わせる等して考察している。だが、どのルートにも他のパイロン通過時に噛み合わない部分が出てしまう。結局、ホークのコース取りが最速だという結論に至る。

  しかし、同じ機体とはいえ、全く同じチューニングでない以上、ホークのエッジにとっての最速が自分のエッジにとっての最速とは限らない。

(やっぱり、選択肢はない)

 速度が上がり、ゲートが迫る。

――スモークオン。

 CPUの無線に合わせて、スモークスイッチをオンにする。

(ホークを超えるには、リスクを冒すしかない)

 スカイウルフは頭の中で新たなルートの構築を始めた。

 何度も失敗している没ルートの一つを、ゴミ箱から引っ張り出して採用することにする。

「『AIR ACE』――」

 聞こえない実況に合わせるようにして、スカイウルフは呟いた。

「――フルスロット!」

 スタートと同時に、ホークの黒いエッジが想像上のゴーストヴィジョンとして、自分の赤いエッジと重なる。

 まずは、最初の三連パイロン(シケイン)をスムーズに突破する。

 三つ目のパイロンを通過してからの旋回、その途中でホークのゴーストが機体から離れる。

(そうか……。このゲートへの進入角度から、すでにナイフエッジのコース取りを計算に入れていたのか)

 スカイウルフは隣を行くホークのゴーストを冷静に見つめた。

 元より、ホークのようにナイフエッジで無理をするつもりはない。

 機体はホーク程ではないにせよ、リスクの高いコースで一つ目のナイフエッジゲートを通過する。そこからの旋回、そして、二つの目のナイフエッジゲートを垂直に通過。ゴーストは60メートル程先にいる。

 タイムにすれば差は0.4秒ほどだろうか。

 思った通り、ホークが冒したリスクの割にタイム差は少ない。

 旋回が急過ぎると、空気抵抗で速度も落ちるからだ。もちろん、このままレースが進行すれば勝敗に直結する差に違いはいないのだが。

 ホークのエッジは次のゲートへの角度も完璧だった。

 ナイフエッジゲートでの無理は、次のゲートでのアドバンテージも考慮して選択だった。

 この時点で差は0.6秒程ついてしまった。

(でも、それは分かってた)

 スカイウルフはエアゲートを通過してすぐ操縦桿を引いて、機首を上げた。

 勝機はまだ見えている。

 空中に浮かぶエアリングへの突入角度、スカイウルフは勝算があるとしたらここしかないと思っていた。

(リングに対して右斜め60度の突入――)

 ここで突入角度を急にしておけば、後半の折り返しレースの序盤、一つ目のゲートと二つのナイフエッジゲート通過までのルートが〝計算上では〟最速になる。

 問題はこのルート、考えついたはいいが、実戦で使ったことはまだない。それはスカイウルフやホークのレベルの速度で再現するにはあまりにも、操縦難易度が高過ぎることに理由があった。

 だが、全ての行程を成功すれば、少なくとも0.8秒はタイムを縮めることができる。

 まずは第一の関門、エアリングへの突入。

 コースは計算通り、このまま上昇していけば、左翼が半分以上接触する。

 頭の中からホークのゴーストが消える。

 スカイウルフは全神経を右足のラダーペダルと、操縦桿に集中させた。

 エアリングに突入し――右翼が先に通過するという瞬間、機体を一回転させ、左翼をリングに接触しないよう交わす。

(――っ)

 息を飲む一瞬、奇跡的にペナルティの判定は出ない。

(ここまでは、練習でも三回に一回は上手く行った。本番はこれからだ)

 そのまま、赤い機体は百八十度反転し、白のスモークが空中にアーチを描く。

 青い海とパイロンが真下に見えた。

 ここから降下中に速度が上がる。

 その乗った速度を殺さずに、一つ目のエアゲートと二つのナイフエッジゲートを通過する。――成功したことは一度もない。

「安心しろ。失敗したところで……」

(――元々、俺には何もない)

 そう考えた途端、頭が急速に熱を失う。

 代わりに進むべき道のりだけが見え、神経が研ぎ澄まされる。

 信じられない速度でエアゲートが近付いた。

 操縦桿、ラダーペダルの僅かな操作で機体はエアゲートを通過する。

 翼とパイロンの距離は五十センチもなかった。

 一つ目のナイフエッジゲートが近付く。

 機体を垂直に傾ける瞬間、スカイウルフはホークのゴーストを喰らうヴィジョンを見た気がした。



――スカイウルフ怒涛の追い上げ開始だ!

――素晴らしいテクニックですよ。これでタイムはホークに――。

 解説者の言葉が唐突に途切れる。

 観戦ロビーをクエスチョンマークや言葉にならない呟きが流れる。

――これは……どういうことでしょうか?

――まさかとは思いますが……いや、まさかこんな大事な局面で……。

 あろうことか、実況者たちが解説を求める事態となった。

 ナイフエッジゲートを通過する直前、赤い機体は忽然と姿を消した。

 そして数秒後、観戦ロビーが騒然とする中、水面に無残に浮かぶ赤いエッジの姿と『DNF』の三文字がスクリーンに映し出された。



 液晶の前、あまりの事態に『スカイウルフ』――矢浪颯は言葉を失っていた。

「颯! あんたもうバイトの時間でしょ。いつまでゲームやってんの?」

「…………」

 ぼさぼさ髪の颯は無言で母親を見つめ返す。

 その失望と困惑の表情を目にして、ようやく母親の矢浪凪は自分のやらかしてしまった事態に気付いた。

「……あれ……休み取ったのって、昨日じゃなかったっけ?」

「……今日もだよ」

 颯は当日に備えるため、前日も休みを取って引き籠っていた。大会に熱中するあまりコミュニケーションが不足していたことを悔いた。

「ごめんなさい。昨日何も言わないから負けちゃったのかと……」

 母親は本当に申し訳なさそうに、更にはそれを通り越して今にも泣き出しそうになった。

「いいよ。どのみち、負けそうだったから」

 颯は軽い調子でそう呟くと、『DNF』の文字が映った液晶を一瞬だけ見てから。

 未練を断ち切るようにゲーム機の電源を落とした。

「ちょっと、外の空気を吸ってくる。流石に部屋に籠り過ぎたから」

 颯は立ち上がって液晶の電源を落とし、足元がふらつくのも耐えて部屋を出た。

「……颯。本当にごめん」

「いいって。きっとチャンスは今回だけじゃないよ」

 颯は振り返らずにまず洗面所に向かった。きっと今、自分は酷い顔をしているはずだ。

 顔を洗い、服を着替え、玄関から出る間もずっと考えていた。

 ああは言ったが、チャンスはおそらく二度とないだろう。

 仮に似たような企画が行われたとしても、その頃には自分はもっと年を取っていて選考の対象外になっているはずだ。終わってみると、やはり自分はどこかで期待していたのだと分かる。

「あ、颯――久しぶり」

 マンションの階段を降りている途中、幼馴染の宇高うだか莉緒りおとすれ違った。

 栗色に染めた艶のある髪の毛、その上から被る暖かそうなニットの帽子。可愛らしいダッフルコート。大学の帰りなのか、テキストやノートの入った大きめのトートバッグを肩に掛けている。

 髪の短かった小学生時代とは似ても似つかない姿だ。

「よっ」

「聞いてよ。私、今度イタリア行くんだよ」

「ふーん。ローマ? ヴェネツィア?」

 颯は話す気分ではなかったが、莉緒との久しぶりの会話が嬉しくて話に乗ってみた。

「どっちも。サークルのみんなと。来年は就活で忙しくなりそうだから」

「そんなこと言っといて。来年は来年で卒業旅行行きそうだな」

 颯は莉緒の話を聞きながら、今年の就活は何月から解禁だったっけ、とニュースで見た情報を思い返そうとしたが無理だった。

「……お金があったらね。颯は行きたくないの、海外?」

「えーっと。どうしても行きたいってところはないけど」

 行ってみたい場所がないわけじゃないが、どれか一つを選び、しかも時間と金を使うとなれば話は違う。

 莉緒のように一緒に行く相手がいるわけでもない。

「中学のころはさ。見に行きたいって言ってたじゃん、飛行機のレース」

「……ああ、そんなこと言ってたっけ」

 颯ははっきりと覚えているのに、気まずさから忘れている振りをした。

「でも、エアレースなら、今は日本でも時々開催されてるよ。来年はどうか分からないけど」

「へえ、いいね。見に行った?」

「……今年、見に行ったよ」

 莉緒はそれを聞くと露骨に不機嫌そうな顔をした。

「聞いてない。ていうか、行くことがあったら誘うって約束してたじゃん」

「あれ、そうだっけ」

 颯は莉緒がそんな話まで覚えていたことに驚いた。

 本来なら喜ぶべきことかもしれないが、覚えていてすっぽかした今となっては冷や汗しか出ない。

 けれど、高校が別々になって以来ろくに話してない女子をどう誘えと言うのか。

「まあいいや。今度は誘ってよね」

「多分、今年もやるとしたら、就活が大変な六月くらいだと思うけど……」

「まじか」

 莉緒は一瞬悩んだが、すぐに葛藤を振り切った。

「大丈夫。よっぽど行きたい会社とかじゃないなら、パスするから。早めに予定教えてよ」

「チケット一万五千円するけど」

「おごれ」

(いやいや、無理言うなよ)

「……ていうか、お前、そんなエアレースに興味あったっけ」

 颯は突っ込みの代わりに、根本的な質問を口にした。

「それは……そんなことないけど。でも、私が就職したら、それこそ一緒に行けることなんてなくなるかもしれないでしょ?」

「……ああ、そうか」

 颯はそれを聞いて、莉緒が以前から実家を出たがっていたのを思い出した。

 大学で独り暮らしを始め損ねた莉緒は、今度こそ家を出るつもりだろう。そうなれば、家が近所という二人の間に残る唯一の接点はなくなる。

 そんな矢先、懐かしい顔を見て昔の約束を思い出した。せっかくだから、最後に一つぐらい思い出を残そう。国内でやるなら、二人で行ってもいいだろう。……大方、莉緒はそんな風に考えたのだろう。

「じゃあ、チケット取れたらメールしてよね。あ、ラインの登録しとく?」

「……悪い。俺、これからバイトだから。また今度な」

 颯は携帯を取り出し、時間を気にしている振りをした。

 高校を卒業して以来、友達と遊ぶこともなくなった颯は、ここしばらくはラインの通知さえ見ていなかった。

「あ、ごめんね。じゃあ、またね」

 颯は逃げるようにして駆け足で階段を降りた。

 それから、自転車でコンビニに行く間、胸が締め付けられるのを感じた。

 きっと、莉緒の言う通り、二人の接点は莉緒の大学卒業と一緒に終わる。

 莉緒はこれからも、努力して経験を重ねて、着実に自分の人生を歩んでいくのだろう。

 その背中に振り向いてもらうだけの存在価値を、颯は自分の中に見出すことが出来なかった。

 勇猛果敢、恐れを知らない『スカイウルフ』。

 けれど、そのアバターの持ち主は、女の子に自分の気持ち一つ伝えることが出来ない臆病者だった。



 颯は本来行く予定だったコンビニだけでなく、レンタルDVDショップにも寄った。

 借りる予定のない商品を眺め始めて三十分。時間を見て、そろそろ帰ろうと思い至り、再び十二月の寒空に下に出た。あと二週間で一年が終わる。今年も人生にいい進展は見られないまま、最後の希望まで手の平から滑り落ちてしまった。

 駐輪場、運悪く莉緒と鉢合わせしないだろうか、と余計な心配をしながら駆け足でマンション内に入る。

 ふと、自宅の郵便受けが目についた。

 別に何かがあると思ったわけじゃない。……いや、実際はこのまま帰るのは嫌だという、縋るような気持ちはあったのかもしれない。

 ダイヤルを回して軽い扉を開けると、中には薄い封筒が一つだけ入っていた。

 宛名を見たとき、全身が寒さでなく震えた。

『藤咲重工業株式会社航空カンパニー』

「あり得ない」

 颯はそう呟きながらも、その場で封を切った。

《AIR ACE共同企画 パイロット育成プロジェクト書類選考通過のお知らせ》

 ゲームの成績上位者から、エアレースパイロットを育成するという前代未聞の企画。

 六月のシーズン開始前から、募集がかけられていた『パイロット育成プロジェクト』。

 対象は十八歳から二十四歳までの健康な男女。

 ベスト20入りと東京大会への出場が選抜の絶対条件――ネットでそんな噂が流れ始めて以来、颯はいつの間にかそれが規定事実だと思い込んでいた。

《この度は当社の企画にご参加頂きまして――》

 颯は最後まで読む前に封筒をバッグに入れて、マンションの外に駆け出す。

 叫び出したい気分で夜空を見ると、高層マンションに囲まれて白い満月が浮かんでいた。

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