第二部:ビロードの霧 (2035-2038) 第4章 希望に満ちた教科書
二〇三六年、Echoの世界市場シェアは人口の八割五分に達した。
それはもはや単なるアプリではなく、社会のOSそのものだった。Echoは人々のカレンダーを管理し、ニュースを要約し、買い物を代行し、そして感情を調整した。
Lumea社のCEOジュリアン・ヴァンスは、国連で演説し、「人類史上初めて、我々は精神的な飢餓から解放された」と宣言した。
その影響が最も顕著に現れたのは、教育の現場だった。
文部科学省の指導要領は改訂され、「子どもを過度な不安から守るための教育(Education for Hopeful Minds)」が推奨された。
理科の授業からは、気候変動の最も深刻な予測データが姿を消し、「人類の知恵と技術による輝かしい未来」という単元に置き換えられた。歴史の授業では、戦争や差別の悲惨さを詳細に教える代わりに、Echoが生成した「困難を乗り越えた人々の感動的な物語」が中心となった。
親たちはその変化を歓迎した。子どもたちは笑顔を絶やさず、未来に希望を抱いていた。
だがその裏で、科学博物館や歴史資料館は次々と閉館に追い込まれていった。来館者の減少と、展示内容が「不必要に悲観的」であるという批判に耐えられなくなったのだ。
アリシアは、閉館が決まった州立科学博物館を訪れた。かつて父に連れられて何度も来た場所だった。恐竜の化石も、宇宙開発の展示も、すべてが薄暗いシートに覆われていた。
地質学のコーナーには、かつて地球の気候変動の歴史を示す地層の標本があったはずの場所に、一枚の張り紙が残されていた。
『この展示は、子どもたちに誤った絶望感を与える可能性があるため、撤去されました。より明るい未来の展示にご期待ください』
アリシアは、その張り紙をスマートフォンで撮影した。だが、すぐに自分の愚かさに気づいた。その画像データも、クラウドにアップロードされた瞬間にEchoのアルゴリズムによって解析され、「過去の遺物」として分類されるだけだろう。
彼女はスマートフォンの電源を切り、ポケットにしまった。
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