第2話 宮次秀佑

序章編 《中》

 十一月三十一日 午前十時

 

 快晴、散歩日和だ。

「秀ちゃんこっちも手伝ってくれる?」

「はい、今行きます」

 騒がしい街の空気に気圧されて、今日も秀佑しゅうすけの忙しない朝が始まった。


 布の藍染あいぞめの作業を終えてため息をく。

「家の手伝いも嬉しいけれど、折角の休日なんだから今日くらい、遊んで来たっていいのよ」

 秀佑の曾祖母そうそぼであるタキが曲がった腰を横に下ろして言った。

「タキ婆さん、いいんですよ。休みたくなったときは声をかけるので」

 秀佑がそう微笑むとタキも「そうかい」と納得したようで持ち場に戻って行った。今年で八十近くなるというのに、自分より元気なような気がした。

 そうは言ったものの、秀佑は作業に取り掛かろうと思うことができず「少し、外に出て来ます」と暖簾のれんの先に声をかけ土間から家を出る。

 少し通りを行ったところに、甘味処がある。そこで昼を過ごそうかと考えていると、後ろから声がかかる。その声に振り返ると一人の少年が立っていた。

「お兄さん、僕、道が分からなくなって、迷子になってしまったんです、助けてくれませんか?」

 十歳程度の少年だった。髪は短く切り揃えられ、いかにも高価なものであろう革靴を履いている。当然だが、親と思われるような人は見当たらない。そこらを走り回っていたようで、ゼイゼイと息をあげている。裾から覗く細い脚を見ると、膝を擦りむいていた。走り回っているときに転んだのだろう。

 秀佑は少年を見るなり、腰を屈めて持っていた手拭いを膝に巻いた。

「これで、よし」

「あっ、ありがとうございます」

 少年は変声前の幼い声で、小さくお礼を言う。

「君、名前は?」

「し、東雲優弥しののめゆうや……です」

 少年は、尻すぼみに答えた。                

 シノノメ、か。あまり聞かない名前だ。

 それに、喋り方や服装を見るに潤沢な家柄の子なのだろう。   

「どこから来たの?」

「隣町から母さんと、汽車でここまで……」

 なるほど、と秀佑は相槌を打つ。それと同時に少年が何かに気づいたようで目を見開く。

「お兄さん、その傷」

 秀佑の気づかぬうちに袖がまくれていたようで、袖の隙から三本線の痛々しい傷跡が覗いていた。

「気にしないで、もう古い傷だから」

 そんなことより、と秀佑は続ける。

「迷子なの?」

 少年は、少し俯き遠慮がちに答えた。

「は、はい……」

 そんな少年の反応を見て、自分の訊ねたことが愚問だったことに気づく。

「お母さんのこと一緒に探そう」

 そう宥め、幾分か自分より小さな歩幅に合わせて歩き出す。今から、歩いて駅に向かったところで、隣町に行くとなれば日も落ちてくるだろう。

 それならば、交番だ。

 仕事の手伝いを中断して家を出ていったことは後で謝ればいい。


 昼の盛りだ。だからといってはなんだが、巡査も飯か昼寝の時間だろう。

 アルミの溝に砂が溜まった引き戸をガリガリと引き摺るとむうっと煙たい空気が漂ってくる。気分が悪くなりそうだ。少年を外で待たせて中に入る。

「すいません、昼間に。男の子を探しているという親御さんはいませんでしたか?」

「…いいや、来てないね」

 椅子に座り、新聞紙を被ってうたた寝をしていたであろう恰幅のいい巡査が答えた。態度が素っ気ない。

「そうですか」

「人探しに交番ここは向いてないよ。何にもありゃしないから、ここの連中は昼間は寝てるかもっぱら煙草タバコだよ」

 そんなことを話していると、奥の部屋から葉巻を咥えた巡査が現れた。無造作に無精髭ぶしょうひげを生やした、やや清潔感に欠ける容姿をした三十半ばほどの男だった。

「坊ちゃんが何の用だい?」

 どうやら交番が煙臭いのは、この男の葉巻きが原因のようだ。

「こら、子どもの前ではやめなさい」と座っている巡査が小さく注意する。

「あの、『シノノメユウヤ』という少年の母親を探していて、心当たりをうかがいに」

 突然その男は目を見開いたかと思うと、そんなことかと笑い出した。

「ちょうど、昼前ぐらいに子どもを探す女を見かけたよ。ここに立ち寄って来なかったから、放っておいたけど」

「どちらの方向に向かいましたか?」

「うーん、強いて言うなら山の方角だ。確か瀬瓦せがわら医院があったような……」

「まあ、他に行く当てがないんなら、ここで待っててもいいよ。まったく、お前は勤務中の態度を改めるんだな」

 恰幅のいい巡査は、向き直ると新聞紙を丸めて若い巡査の頭を打った。

 痛がる様子を横目に、秀佑はそそくさと交番を出ていく。


 外に出ると砂をいじり暇を持て余した少年 ――優弥がこちらに気づき、歩み寄って来た。

「親御さん、来てなかったみたい。優弥君は、どこに行くつもりでここまで?」

「瀬瓦医院です。父さんが入院していて、今日は見舞いに行く予定でした」

 声に覇気がない。

 何か、病でも抱えているのだろうか。

「しばらく、ここで待っていようか」

 優弥は何も言わず、ただ頷くだけだった。

「願いを叶えてくれる鯨って知っていますか?」

 小さな声で秀佑に訊ねた。

「願いを叶えてくれる鯨……」

 秀佑は、そんな優弥の言葉を反芻する。

「そうです。噂に聞いた話ですが、その鯨はどんな願いでも叶えてくれるのだとか」

「優弥君は、何か叶えたい願いごとがあるの?」

「それは……」

「優弥!」

 突然、名前を呼ぶ声が聞こえた。落としていた視線を上げると見知らぬ顔があった。

 しかし「母さん」という優弥のおかげで、彼女が誰であるかわかった。秀佑は、安堵で胸を撫で下ろす。優弥は一目散に母親に駆け寄って行く。

 母親は、秀佑に一礼して優弥を連れて駅の方向に歩いて行った。


 家に帰るときには、日が暮れかけていた。

 自室の扉を開くと机に置かれている一通の手紙が目に留まった。宛名に宮次秀佑様と達筆な字で書いてある。白の洋封筒がシーリングワックスで丁寧に閉じてある。送付人はというと同様に英字で中月絺紘と書かれた文字が見える。それを机の側の引き出しに仕舞い風呂に向かう。


 湯船につかる。心做しか、腕の傷がひりひりと痛む。布団に潜る頃にはすっかり眠たくなっていた。

 手紙のことを思い出し、微睡まどろむ脳味噌を起こして机に向かう。引き出しから手紙を取り出すとペリペリと音を立ててシーリングワックスを剥がしていく。几帳面なほどに丁寧にたたまれたその手紙には、次のことが綴られていた。



拝啓 宮次秀佑様


 この頃はどうお過ごしですか。

 馨と仲直りは出来ましたか。僕は、近いうちに退院することを決めました。

 馨と仲直りが出来ていないのなら僕は一生君たちを許さないでしょう。そして、君たちも僕を許してはくれないでしょう。

 また、三人で共闘できることを僕はとても楽しみにしています。

 そして、僕は鯨を探しに行きたいのです。

 もし、鯨に会えたのなら夢を叶えてくれるかもしれない。そんな淡い期待を持ってサナトリウムでの療養生活を送ってきました。二人なら叶えてくれると信じています。どうか、一人の愚かな親友の願いを聞いて下さい。


敬具 中月絺紘 


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