第10話 葛藤
あの夜、ヨナタンとダビデの悲痛な別れを目の当たりにして以来、メラブの心は深い傷を負った。
パン屋の店番をしながらも、彼女の頭の中は、あの夜の出来事が繰り返し蘇っていた。
石壁にこだまするヨナタンの悲痛な声、そしてダビデの、あの哀しみに満ちた横顔。
それは、彼女が故郷で想像していた「父を打ち倒した英雄」とはあまりにもかけ離れた姿だった。
メラブは、彼を「父の仇」として憎むべき相手だと信じていたはずだった。
しかし、彼の持つ穏やかな心、そしてヨナタンとの間に見せた深い友情は、メラブが抱く憎しみとはあまりにもかけ離れていた。
「私は、本当にこの人を憎むべきなのだろうか?」
その疑問は、一度芽生えると、とめどなくメラブの心を蝕んでいった。
もし、彼が卑劣な人間だったならば、復讐は容易だっただろう。
だが、父は彼女にとって、誰よりも優しく、そして孤独な存在だった。
そして、ダビデもまた、人々から慕われ、友を深く愛する、一人の人間だった。
どちらか一方を絶対的な「正義」や「悪」と断定できない現実は、メラブの心を深く抉り、彼女の旅の目的を根底から揺るがした。
故郷ガテで父ゴリアテが死んだ時、メラブの心は復讐心に燃え、その炎は彼女の旅の原動力となっていた。
しかし、この都でダビデと出会い、彼の人間性に触れるにつれて、彼女の心は次第に揺れ動いていく。
憎しみという確固たる感情と、彼を理解したいという、得体の知れない新たな感情。
その二つの間で、メラブは深く苦悩した。
その葛藤は、まるで魂を二つに引き裂くようだった。
心の奥底で燃え盛っていた復讐の炎は、彼の優しさに触れるたびに、まるで雨に打たれたように弱々しく揺らぐのだった。
ある日の夕方、パンを届けに王宮へ向かったメラブは、いつもとは違う異様な雰囲気に気づいた。
門番の兵士たちの顔には疲労と緊張の色が浮かび、通常であれば聞こえてくるはずの笑い声や、子供たちの賑やかな声も、その日は一切なかった。
門の奥からは、怒鳴り声と、何かが砕けるような激しい音が聞こえてきた。
まるで、王宮全体が、サウル王の狂気に飲み込まれていくかのように感じられた。
メラブは、その場に立ち尽くすことしかできなかった。
メラブは、その日の夜も眠れなかった。
王宮で聞こえてきた不穏な音と、人々の間で囁かれるダビデの噂が、彼女の頭の中を駆け巡る。
サウル王は、ダビデに対する嫉妬から、ついに彼を殺そうと槍を投げつけたという。
その話を聞いたメラブの心臓は激しく鼓動した。
復讐心から、ダビデが滅びることを願っていたはずだった。
しかし、彼女の心には、彼をこの狂気から守りたいという、新たな感情が芽生えていた。
それは、メラブ自身も戸惑うほど、強く、そして温かい感情だった。
心の奥底で凍りついていた何かが、ゆっくりと溶け出すようだった。
「このままでは、彼は…」
メラブは、ベッドから飛び起きると、窓の外に広がる夜空を見上げた。
満月が、まるで彼女の心を見透かすかのように、静かに輝いている。
メラブは、父ゴリアテを打ち倒したダビデを憎むことと、彼の命が危険に晒されていることを、どうしても切り離して考えることができなかった。
翌日、メラブは決意を胸にダビデの家に向かった。
彼の無事を確認しようと、震える足で扉を叩く。しかし、扉を開けたのはダビデの妻ミカルだった。
ミカルの顔には、疲労と絶望の色が浮かんでいる。
「彼は…」
メラブが声をかけると、ミカルは静かに首を横に振った。
「彼は、もうここにはいない…」
メラブは、その言葉を聞いて、胸が締め付けられるような痛みを感じた。
ダビデは、サウル王の狂気から逃れるため、ついに王宮を去ったのだ。
その夜、メラブはパン屋の屋根裏部屋で、静かに考えを巡らせていた。
彼女の心には、もはや復讐の炎はなかった。
そこにあったのは、後悔と、そしてダビデを救えなかった無力感だった。
メラブは、この旅が復讐のためだけのものではなくなったことを悟った。
彼女の旅は、真実を探し、そしてダビデを追うための、新たな旅へと変貌を遂げたのだった。
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