第2話 見知らぬ土地、孤独な旅路
ガテの街の重い門扉を背に、メラブはイスラエルの地へと続く、見知らぬ道を歩き始めた。
足元には、まだ夜明け前の冷たい露が光っていた。
旅は、想像以上に過酷なものだった。
広大で乾燥した荒野、昼は肌を焼く太陽の光、夜は身を切るような冷たい風。
ペリシテの支配地域を抜けると、道はさらに険しくなった。
彼女の背後には、故郷のガテの街が遠ざかっていく。
かつては父の存在が、この世界を安全な場所にしてくれていた。
しかし今、彼女を待つのは、荒涼とした大地と、見知らぬ人々の冷たい視線だけだった。
メラブは、旅の途中でいくつかの小さな村や町を通り過ぎた。
どこの村でも、人々は彼女の姿に警戒の目を向けていた。
彼女は、ペリシテの言葉を話す外国人として、常に好奇と不信の視線に晒された。
食料を分けてもらうため、あるいは一晩の宿を借りるため、恐る恐る人々に話しかけるたびに、彼女は故郷で感じたのと同じ疎外感を味わった。
ある日、メラブは道端で小さな子供たちに石を投げつけられた。
彼らは、彼女がペリシテ人であることを知ると、目を輝かせ、まるで狩りの獲物を見つけたかのように、楽しそうに石を投げつけてきた。
「ペリシテ人の娘だ!ゴリアテは死んだぞ!」
彼らの無邪気な声が、メラブの心に鋭く突き刺さった。
故郷では、父の敗北を嘲笑う大人たちの声に苦しんだ。
ここでは、敵の勝利を喜ぶ子供たちの声に、心を抉られた。
メラブは、怒りや悲しみを通り越し、ただ虚無感に襲われた。
父の敗北は、彼女自身の存在までもを否定する、絶対的な現実だった。
旅は、肉体的にも精神的にも彼女を追い詰めていった。
灼熱の太陽が容赦なく照りつける昼間、彼女は日陰を探して何度も立ち止まり、喉の渇きに苦しんだ。
わずかな水筒の水はすぐに尽き、彼女は枯れた泉を探してさまよった。
夜になると、気温は急激に下がり、荒野を吹き抜ける風が彼女の薄い服を通り抜け、骨の髄まで冷やした。疲労は蓄積し、足は血まみれになっていた。
しかし、夜空に輝く星を見上げるたびに、メラブは故郷の丘を思い出した。父の膝の上で、同じ星空を眺めていた穏やかな日々。
あの優しい父の顔が、彼女の心を奮い立たせた。
「父さん……」
メラブは革袋から、母から託された小さなナイフを取り出した。
青銅の刃は、星の光を鈍く反射していた。
それは父の形見であると同時に、彼女が背負う復讐の重さの象徴でもあった。
この刃をダビデの心臓に突き刺すこと、それが父の、そして自分自身の誇りを取り戻す唯一の方法だと、メラブは強く信じていた。
彼女の旅は、孤独な復讐の旅路だった。しかし、その先に何が待っているのか、彼女自身もまだ知らなかった。
旅を始めて数日後、メラブは人里離れた道で、一人の老婆に出会った。
老婆は、荒れた洞窟の入り口に座り、薬草を乾かしていた。
イスラエルの言葉しか話せない老婆に、メラブは片言の言葉で食べ物を求めた。
老婆は無言で彼女の姿を見つめ、やがて洞窟の奥へと消えていった。
メラブは警戒したが、空腹には勝てず、その場で待つことにした。
しばらくして、老婆は小さな鉢に入った煮込み料理を持って戻ってきた。
それは、荒野の旅で疲弊した体にしみわたる、温かく優しい味だった。
メラブは、言葉は通じなくても、老婆の優しさが心に響くのを感じた。
食後、老婆はメラブの疲れた足を、丁寧に薬草で湿らせてくれた。その手は、皺だらけで節くれ立っていたが、そこには母と同じような温かさがあった。
夜になり、メラブは老婆の洞窟の入り口で眠りについた。
久しぶりに人の温もりを感じ、メラブの心は少しだけ安らいだ。
しかし、夜中にふと目を覚ますと、メラブの頭上には、遠くの街の灯りがいくつも輝いているのが見えた。
あれは、イスラエルの街だろうか。父を倒した男、ダビデがいる場所だろうか。
メラブは再び、胸に燃え盛る復讐の炎を感じた。
老婆の優しさに触れて、ほんの少し和らいだ心に、また硬い決意が戻ってきた。
この旅の目的は、復讐だ。
優しさに惑わされてはいけない。
メラブはそう自分に言い聞かせ、夜明けとともに再び旅立った。
老婆は、何も言わずにただ手を振って見送ってくれた。メラブは一度だけ振り返り、心の中で感謝を伝えた。
しかし、彼女の足は止まらなかった。
彼女は、ダビデがいるであろうイスラエルの都へと向かっていた。
旅の道中、メラブは次第に、イスラエルの人々の暮らしや信仰に触れることになる。
彼女が今まで知っていたのは、父の武勇を称えるペリシテの文化と、父が罵倒したイスラエルの神の姿だけだった。
しかし、荒野の小さな村や町で出会う人々は、それぞれが自分の人生を懸命に生きていた。
彼らが口ずさむ歌、祈りを捧げる姿、そして子供たちの無邪気な笑顔。
それらは、メラブが想像していた「敵」の姿とは、あまりにもかけ離れていた。
メラブが想像していた「敵」の姿とは、血に飢えた狂信者たち、常にペリシテ人を憎み、戦うことだけを生きがいとしている者たちだった。
父ゴリアテが戦場で対峙したイスラエル兵の姿、そして父を罵倒し、その死を喜んだ行商人の言葉が、彼女の想像を形作っていた。
彼らは非人間的で、感情を持たず、ただペリシテ人に対する憎悪を原動力にして生きていると信じていた。
しかし、実際に旅に出て彼女が見たのは、畑を耕す農夫、井戸端で笑い合う女たち、そして母の温かさによく似た老婆だった。
彼らは、ただ静かに、懸命に生きていた。
歌を歌い、神に祈りを捧げ、家族を愛し、日々の生活を送っている。
彼らの瞳には、メラブが想像していたような狂信的な光はなく、むしろ穏やかで、人間らしい光が宿っていた。メラブの心の中の「敵」という概念は、少しずつ揺らぎ始めていた。
復讐という目的だけが、彼女を前に進ませる唯一の動力だった。
しかし、メラブの心の中には、新たな葛藤が芽生え始めていた。
ダビデを倒せば、父の誇りを取り戻せるだろう。
しかし、それが本当に彼女の求める答えなのだろうか?
この旅の終わりに、彼女は何を見つけるのだろうか。
メラブの旅は、復讐のためだけの旅ではなく、自分自身を見つけるための旅へと、少しずつ姿を変えていくのだった。
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