使い魔

霧がさらに濃くなった。

 船と船の距離がわずかに乱れ、掛け声で保たれていた秩序が徐々に崩れはじめる。


 ――その瞬間だった。


 甲板の端から、黒い爪のようなものが突き出した。

 船員の一人が叫ぶ暇もなく、胸を裂かれて海へと引きずり込まれる。

 血の匂いが塩気に混じり、空気を一気に凍らせた。


「来たぞ――備えろ!」

 クダが斧を振り、黒い影をはじき返す。木板が砕け、黒い液体のような血が飛び散った。


 現れたのは、鳥と魚が絡み合ったような異形の怪物だった。

 翼は裂け、尾は鞭のようにしなり、顔の中央には光のない穴が空いている。

 そこから、低い笛の音のような“鳴き声”が響いた。


 ――月哭鳥の使い魔。

 鳴き声を聞くだけで、心臓が乱れる。


「耳を塞げ!」

 天城は叫び、剣を振る。

 刃が闇を裂き、怪物の翼を切り落とす。だが断面は煙のように揺らぎ、すぐに形を取り戻す。


「効かねえ……!」

 船員が絶望の声をあげた。


 そのとき、イブが立ち上がり、数珠を掲げて祈った。

 低く、震える声が波に乗り、甲板全体に響く。

 その瞬間、怪物の輪郭がぐらついた。霧が少しだけ後退し、形が“固定”される。


「今だ!」

 クダが叫び、斧を叩きつける。

 怪物は甲板に押し倒され、天城の剣が胸を突いた。


 黒い血が噴き出し、甲板を焼くように泡立つ。

 怪物はしばらく痙攣し――やがて霧に溶け、跡形もなく消えた。


 静寂。

 ただ海のうねりと、まだ震える人々の息だけが残る。


 だが、安堵は訪れなかった。

 船員の数は減っていた。海に引きずり込まれた者はもう戻らない。

 残った者たちの顔は青ざめ、視線は霧の奥を警戒している。


「……今のはほんの先触れだ」

 クダが低く呟く。

「月哭鳥そのものは、まだ遠い」


 イブは祈りを終え、疲れ切った顔で天城に寄りかかった。

 その小さな体温が、彼の冷たい鎧に染み込む。


 セラフィナはただ、遠くを見ていた。

 赤い髪が風に揺れ、その瞳は“次”を測るように細められていた。


「……聞こえる?」

 彼女の口元がかすかに動く。


 耳を澄ませると――確かに、聞こえた。

 霧の向こう、海の果てから。

 ひとつではない、無数の声。

 泣き声のような、祈りのような、鳥の啼き声のような――。


 夜の海全体が、ひとつの巨大な生き物の喉の奥になったかのように。

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