静けさ
模擬戦の汗が引ききらないうちに、三人は宿営庁脇の武器庫へ向かった。
厚い扉の上に吊られた霧鈴が、入る者の肩に落ちる霧を払い落とすみたいに、細く鳴る。中は潮と油と古鉄の匂い。棚には刃の列、壁には槍と銛、台の上には矢尻と弦の束。どれも塩の白粉でうっすら曇り、夜の声を弾くための薄い封脂が塗られている。
「選ぶなら長柄だ。月哭鳥相手だと、間合いが詰まる前に“泣き”を割らにゃならん」
帳簿を抱えた武器係が、節くれた指で槍立てを示した。
「柄は白樫、穂は鍛鉄。ここに断層苔を乾かして練り込んだ溝が切ってある。鳴きが芯まで入る前に、ここが震えを逃がす」
長門は槍を一本取り、重さを掌に落とす。握った途端、柄に染み込んだ塩の乾きが皮膚に移り、掌の汗が吸い上げられる。
目線の先で、セラフィナは矢尻を光にかざして角度を確かめていた。刃を眺める横顔は真剣だが、時折、矢羽の一本一本を指腹で梳きながら、癖っ毛を撫でるみたいに優しい。
「この羽、湿りに強い。好き」
そう言って小さく笑い、束を二つ選んで革紐でまとめた。笑うとき、彼女は必ず左頬から先に動く――そんな些細な癖が、長門の目に残る。
イブは台の上で布を広げ、持ち歩きの手入れ道具を並べていた。油壺、細い針金、布片、石鹸、薄い塩水の小瓶。並べ終えると、布の四隅を指で軽く叩き、作業の“枠”を自分の中に作る。
「穂先、もう少しだけ起こします。長門様の癖に合わせて」
彼女は工具を取り、穂の角度を髪の毛一本ぶんだけ調整した。力ではなく、呼吸の数で刃を動かすような手つきだ。
――霧笛が、一度、低く腹を鳴らした。
その音に、別の響きが絡む。遠いはずの声が、耳の内側で近くなる。塩と鉄の匂いが濃くなり、床板の継ぎ目がゆっくり波打ったように見えた。
――長門。
笑いながら血を飲み込む声。
――振り向くな。振り向くなよ。俺が見る。
視界の端で棚がわずかに傾ぐ。天井の梁が、断層のようにねじれて、そこから砂がぱらぱら落ちてくる――錯覚だ、と頭のどこかが言う。だが膝は勝手に緩み、握った槍の柄が手の中で遠くなった。
冷たい布が額に当たった。
「長門様」
イブの声。抑揚は薄いのに、耳に触れる温度はたしかだ。
「目を閉じて。十、息を吐いて。吐く方を長く。――はい、一、二」
彼女は長門の手からそっと槍を抜き、肩口に回り込み、耳の後ろ――乳様突起のところに指を置く。押さない、触れるだけ。そこから、呼吸に合わせて微かに指が動く。波をなだめるみたいに。
布は温かった。どこから取り出したのか、塩湯で湿らせた布に断層苔の香がほんの少しだけ移っている。冷やすのではなく、温度差で輪郭を戻す。
「……また、来たのか」
「来ました。今日は音のほう。霧笛が引き金。――はい、七。八」
数える声はささやきに近い。
長門は言われたとおり吐く。吸うよりも長く、音を押し出すように。
――三十に、届かせろよ、ボス。
その残響が、今度は少し遠のく。鉄と塩の匂いが、ただの武器庫の匂いに戻ってくる。
十を二巡。
イブは布を外し、額の汗を親指の腹で拭った。
「視界、戻りました?」
「ああ……悪い」
「悪くありません。ここは“音が曲がる”町です。むしろ、よく止まりました」
事務的な言葉なのに、ほっとした息が一拍だけ混じったのを、長門は聞いた。
武器係が遠巻きにこちらを見て、顎を上げる。
「沿う声持ちか。なら、この札も持ってけ」
差し出されたのは、小指ほどの薄い木札。端に塩の結び目、片面に古い記号。
「音を食う札だ。柄の根元に結べ。鳴きの芯をいくらか散らす」
イブは礼を言い、札を槍の根本に二重に結んだ。結び目を歯で軽く締める癖。
「これで少しまし。――持ってみてください」
槍を受け取ると、先ほどより重心が近くなっている。柄が掌に“帰ってくる”感覚。
長門はうなずいた。「いい」
そのやり取りを見届けてから、セラフィナがそっと近づいてきた。
矢束を肩に掛け、いつもの軽口が出かけて、代わりに短い息だけがこぼれる。
「……平気?」
「落ち着いた」
「よかった」
ほんの一瞬、彼女は自分の指先を見た。弦を弾くために硬くなった指。ためらいが走って、次には何でもない顔で笑う。
「じゃあ、今夜も三本勝負、続き、ね」
その笑顔は、機械ではない。強がりでもない。
“背中を預ける仲間としての、確認”。それだけが、まっすぐに乗っていた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
武器庫を出ると、霧の色が一段深くなっていた。沈み霧の手前。港の各所で、人々が手早く“昼”を畳んでいく。
セラフィナは船縁で網を繕っている少女の手元にしゃがみこんだ。
「ここ、二重に巻いちゃうと、すぐ切れるよ」
指先で糸を解いて、からまりを外し、結び目をひとつ手前にずらす。
「ほら、ここに“逃げ場”を作ってあげるの」
少女が目を丸くして頷く。セラフィナは得意げにウィンクした。
「弓も糸も、張りすぎはダメ。人もね」
イブは宿営庁の裏手で、煮炊き場の若い衆に怪我止めの簡単な手当てを教えていた。
「切り傷は塩、でも“濡れ塩”じゃなく“乾いた塩”を。濡れた塩は夜を呼びます。……はい、そう。押さえるのは十数えてから」
教える声は淡々としているのに、教わる側が妙に安心した顔になるのは、声の底に“不安の居場所”を用意してくれるからだ。
長門は波止場の端で、槍の柄に手の脂を薄く伸ばし直す。
霧鈴がひとつ鳴り、遠くで猫が短く鳴いた。
視界の縁で、崩れた天井の粉塵が――いや、違う、ただの海霧だ――と、思考が自分で自分を戻す。
胸の奥の鍵は静かだ。今は、静かだ。
食堂では、塩湯の湯気と干し藻の香りがまた満ちている。
長卓に座れば、隣の見知らぬ男が「沈み霧の晩は、足音を数えるんだ」と教えてくれた。
「自分の足音と、隣の足音と、鈴の音。三つが揃ってるうちは帰り道だ」
セラフィナは笑って、スプーンの背で椀を軽く叩いた。
「じゃあ、私が鈴ね」
イブは何も言わずに、長門の椀に芋をひとつ余分に落とした。
「糖、要りますから」
卓の端で、子どもが落としたパンを拾い上げ、塩で埃をはたいて返す老人。
壁には“灯台に背を向けるな”の古い文字。
港の“昼”は、どこもかしこも「ここは渡さない」という小さな仕草でつながっている。
やがて、霧鈴が二度、ゆっくりと鳴った。沈み霧の刻。
部屋に戻る前、セラフィナが廊下の窓から外をのぞき、肩越しに言う。
「灯台、帰ってきたら登るんだから。忘れないでね」
「忘れない」
返すと、彼女は満足そうに頷き、指先で長門の肩を軽く叩いた。
イブは香袋の位置を少しだけ変え、窓の桟に塩を指で引き直す。
「今夜は音が曲がります。……数えてください、十。眠れなくても、十」
灯を落とす。
霧が窓を撫で、鈴が遠くで返事をする。
長門は数珠を指に転がしながら、港の“昼”がたたまれていく音を聞いた。
その音は、戦の準備の音でもある。誰も大声では言わない。ただ、手が、道具が、塩が、歌が、夜に向けて並び替えられていく。
出撃はまだ少し先――だが、もう、この町全体が“前夜”の息をしている。
長門はその呼吸に合わせて、ゆっくりと十を数えた。
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