アークトゥルスは英雄になれない

青雲の鳶

第1章「メリッサ」

メリッサ

第1話 私の日常

 ふと、店のガラスに映り込んだ私を見た。

 なんともみすぼらしい、子供が映っていた。

 癖毛でくすんだ赤色の髪は、片目が隠れるほど伸びている。

 鼻から頬の手前まで、そばかすもよく目立つ。

 服装だって、ずいぶんと小汚い。すっかり毛の抜けたオーバーサイズのボアジャケット。太ももに穴の空いたスリムジーンズ。どれも黒ずんだ汚れと、縫い目のほつれが目立っている。

 

「変な格好」


 これが今の私。メリッサ・クラインの現状だった。

 オシャレや身嗜みなんて考えるお金もないし、なんなら新品の服だって何年も袖を通していない。身に着けている衣服もすべて路地裏のダストボックスを漁って手に入れた物だ。


 生まれた時からこうだった訳じゃない。私は十歳まで普通の子供だった。

 ドイツ北部のリューベックでパン屋を営む家庭で生まれて、年相応に基礎学校グルンドシューレを通っていた。

 本当に何も知らない。ただの子供だった。


 そんな私が今のような惨めな姿になったのは、世界の常識を覆す事件が起こった所為だ。


 記憶を辿ってもやっぱり前触れなんてなかったと思う。

 いきなりが山ほど現れて、世界中で暴れ回った。

 カイブツはリューベックにも来た。瞬く間に町を破壊し、人を殺し、家畜とした。

 やがて人間とカイブツの戦争が世界中で起こって、やっぱり多くの人々が死んだ。

 私の家族も例外なく死んだ。

 運良く生き延びた私を残して。

 ありふれた幸せの人生は、そこで終わった。

 カイブツの登場が、世界を変えた。私の世界も変えた。

 二年くらい続いたこのカイブツと人間の戦争は、いつしか〈厄災〉と呼ばれるようになっていた。

 

 リューベックから避難した私は行き場がなくなって、流されるまま孤児院に引き取られた。


 でも、私は直ぐに孤児院から抜け出した。


 満足できる食事も寝床もあった。取り巻く大人も、優しく見えた。

 でも、全て嘘だった。まやかしだった。

 多くの子供はそれでよかったのかもしれないけど、私は気づく事が出来た。

 あそこに自由なんてない。生き方を強制する場所だった。

 今までをすべて否定して、すべてを忘れろと言い続けられた。

 

 そんなこと、できるわけがなかった。


 だってすべてを忘れてしまったら、私は空っぽになってしまうから。

 メリッサ・クラインではない、誰かになってしまうから。


 だから私は逃げ出した。

 私が、私である為に──


「……ここでいいかな」


 町でマーケット広場と呼ばれる場所に座り込み、ぼんやりと辺りを眺めた。

 何処も古くさい建物が立ち並んで、パッとしない。

 ここはニュルンベルクの田舎町で、確かラウフと言う。リューベックも全体的に古臭い町だったけど、もっと活気があった気がする。


 行き交う大人たちが、座り込んでいる私の事をちらりと見た。

 けど、直ぐに視線をそらしてしまう。

 きっと小汚い私を見て、汚らわしい物を見てしまったと思っているんだ。


 ──どうぞご勝手に。むしろ好都合だから。


 好きに思えばいい。どうせ私の事は、小汚いストリートチルドレンに見えるはずで、間違ってはないから。


 でも正解と言うわけでもない。私には一応、帰る場所がある。


 私は孤児院を抜け出した後に、〈犬小屋〉と言うギャングの一員になった。

 ギャングと言っても、ニュルンベルクの南部で活動しているチンケな闇商売の下請け。上から流れる盗品を捌くのが主な仕事で、銃やドラッグなんかも取り扱う。

 ギャングの大人たちは私のような行く宛のない子供を集めていて、道具のようにこき使う。おぞましく歪んだ性欲をぶつけられることだってある。


 他にも、私たち子供はスリや強盗などの仕事を任される。一応ノルマがあって、私を含む複数人の子供たちで役割を決めて、集団で動いている。

 私は仲間の中ではリーダー的なポジションでもある。犬小屋の大人達は、私にセンスがあるとは言ってその役を任せている。


 最初の頃は残っていた良心が傷んだ。真っ当に生きていたから、一応のモラルが残っていた。

 でも、今はそんなことを考える余裕もなくなった。むしろそんな事で少しでも悩む暇があるなら、今日のメシをどう工面するのか考えた方が、よっぽど重要だ。


「さて、誰がいいかな……」


 座り込んだ目の前に、銀行が見えた。ここは町の中で一番人の往来が多い場所だ。

 所詮は田舎町の銀行で、大きな町の銀行と比べれば、まるで大したことない。

 それでも金ズルはいくらでもいる。人の往来が忙しなくあって、誰もがお金をたんまり持っている。ここは、そう言う場所だから。


「あっ」


 行き交う大人の様子を茫然と眺めたけど、やがてふと目についた大人がいた。

 化粧をして着飾ったおばあさん。短い歩幅でよたよたと歩いている。

 皺くちゃな顔を綻ばせて、いかにも陽気な雰囲気。ピリピリした若い大人とは違って、浮き足立って見える。

 絶好の獲物だ。確信が持てた。

 ああした大人は真っ先に狙うべき獲物。反撃の心配もないし、場合によっては気づかれる間もなく盗み取れる。


「どう? メリッサ」


 ふと、声をかけられる。


 ブロンドの髪の毛を後ろで編んでいて、磁器みたいにつるんとした白い肌。優しさを思わせるタレ目の顔つきは誰が見ても美人だと思うはずだ。私が見ても、まるでお人形さんの様に見えていた。


 仲間の一人、マリーだった。


「獲物を見つけた。簡単だと思う」

「メリッサが言うなら、間違いないね」


 マリーはにっこりと笑って見せた。

 彼女とは古い付き合いだ。あのクソみたいな孤児院を一緒に逃げ出した仲で、唯一の親友とも言える。


「うん。今回は絶対にしくじれないよ。もう後がないから、四の五の言えない」


 私の言葉で、マリーの笑顔が陰った。肩掛けのハンドバッグを胸元で握りしめて、不安そうな表情になった。

 その表情になるのも分かる。私たちは微妙な立場に置かれているからだ。


 先日に仲間だった子供の一人が、犬小屋の大人たちに殺された。

 理由は酷く理不尽だ。なんでも大人たちが管理している商品が無くなって、私たちが盗んだと疑われた。

 当然、そんな命を捨てるような企みをする訳もなくて、懸命に違うと訴えた。

 けど、子供は信用ならないと聞く耳を持たなかった。結局、見せしめとして一人が嬲り殺されてしまった。


 ──次はテメェたちだ。


 こう言い残してその場を去ったボスの顔を思い出すと、ゾッとする。怒りで真っ赤にした顔で私たちを見下ろしたあの表情。慈悲など微塵も感じない、死刑宣告に思えてならない。

 今の私たちは崖っぷちの状態だ。今回の仕事は、何としても成功しなければならない。疑いや不信感を晴らすには、何より結果がすべてだから。


「マリー、準備しよ。みんなにも伝えてきて」

「うん。任せて」


 頷いたマリーは小走りで広場の人混みに消えていく。

 彼女が見えなくなって私も立ち上がると、ふと頬になにか冷たいものを感じた。


「雨……ふるかも」


 鉛色を蓄えたどんよりとした雲が、空を覆い始めていた。


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