第5話『猛攻撃の始まり』

陸と向き合ってから、一週間が過ぎた。


まだ時折、彼のことを思い出しては胸がざわつく。それでもあの瞬間の自分を思えば、少しだけ強くなれた気がしていた。


「白石さん、プロジェクトの進捗はどうですか?」


部長の声に顔を上げる。


「順調です。来週には試作品の最終確認ができそうです」


「素晴らしい。白石さんのおかげで、とても良い商品になりそうですね」


その言葉が、胸の奥にじんわり広がる。

自分の仕事がきちんと評価される――それが、こんなにも嬉しいものだと改めて感じていた。



***



その日の夕方、エレベーターの前で待っていると、ちょうど黒川くんもやって来た。


「黒川くん、お疲れさま」


「お疲れ。プロジェクト、順調そうだね」


「うん……おかげさまで」


軽いやり取りをしているうちに、一階に到着。ドアが開いた瞬間、受付のカウンターに立つ高嶋さんがこちらを見た――いや、正確には黒川くんだけを見た。


「黒川さん、お疲れさまです!」


声が一段甘くなる。目元がぱっと華やぎ、まるでそこだけライトが当たったみたいだった。

私のことは、まるで透明なガラス越しにでも見ているかのように、視界から外している。


「お疲れ、高嶋さん」


「お仕事、大変でしたか?」


わざとらしく小首をかしげて上目遣い。ああ、これはもう計算され尽くした仕草だ。見ているだけで、その吸引力に私の方まで息苦しくなる。


「まあ、普通かな」


「そうですか。問題ないみたいで良かったです」


彼女は柔らかく微笑んだ。その口元の奥に、何か別の色がちらりと見えた気がして、思わず背筋がこわばる。


「もしよろしければ、今度お食事でもいかがですか? 新しくできたイタリアンがあるって聞いたんです」


「え、でも……」


黒川くんが困ったように視線を落とした、その瞬間。


「あ、白石さんもご一緒できますよね?」


初めて私の方を向き、にこやかに笑いかける。けれどその目は、私の反応を品定めしているようだった。輪に入れてあげる――そんな優しさの仮面をかぶりながら、私と黒川くんの距離を測っている。


「あ、いや……私は……」


言葉が詰まると、高嶋さんはさらに笑顔を深める。


「白石さんって、本当に控えめなんですね。そういうところも可愛いですよね。でもせっかく黒川さんとお食事に行くなら、白石さんも……ね?」


その「可愛い」は、子供に向けるような響きだった。自分とは違うと、黒川くんに印象づけるための一言。


「白石、どうする?」


黒川くんの視線がこちらに向く。


「……ちょっと、都合が……」


逸らした私の横顔を、高嶋さんは満足そうに見つめた。そして黒川くんへと向き直り、ふわりと微笑む。


「では今度、また私からお誘いしますね」


その声は、柔らかい絹のようでいて、芯には刃があった。心臓の奥を冷たいものが撫で、私は息を飲んだ。

――これは宣戦布告だ。



***



その日の午後、私は書類を受付に届けに行った。カウンターには高嶋さんが一人。私の姿を認めると、口角は上がったけれど目だけは笑っていなかった。


「お疲れさまです、白石さん」


「……お疲れさまです」


書類を差し出すと、彼女は受け取りながら軽い調子で言った。


「黒川さん、よく白石さんの話してくれるんですよ。高校の頃から仲がいいって」


親しげな口調。でも、どこか探るような響きが混じっている。


「そうなんですか……」


私が短く返すと、彼女は唇だけで笑った。


「本当に真面目だから、黒川さん、いつも心配してるみたいで」


一呼吸置いて、今度はさらりと――


「昔から控えめな性格だから、彼氏もなかなかできないだろうな、って」


胸の奥に、冷たいものが突き刺さる。

――彼氏もできない。

その言葉の裏に潜む意味が、耳の奥でじわじわと広がった。


(恋愛対象じゃないってこと……?)


元カレの冷たい声が記憶の底から蘇る。


(私なんて、誰からも愛されない……)


「そうなんですね……」


かろうじて声を出す。


「ええ。まるで妹みたいだって。……白石さん、本当に愛らしいですもん」


「妹」という一言が、心臓をぐっと掴む。黒川くんとの間に、厚く透明な壁ができる音がした気がした。

高嶋さんは、私の目の奥を覗き込みながら、さらに言葉を重ねる。


「私、黒川さんのこと……素敵だなって思うんです。だから、頑張ってみようかなって」


やわらかな声。けれど、その奥には確かな宣戦布告があった。

私は立ち向かう気力もなく、かすれた声で返す。


「……そうですか。頑張ってください」


彼女は満足そうに微笑み、私に新たな書類を押し付ける。その手の温度さえ、冷たく感じた。


「でも、黒川さんって誰にでも優しいから。……あんまり、勘違いしない方がいいですよ」


最後の一撃。

言葉が刃になって、胸の奥を深く抉った。私は俯いたまま、その場を離れるしかなかった。



***



数日後の夕方、残業を終えて帰ろうとしたときだった。エレベーター前で待っていると、フロアの奥から、黒川くんと高嶋さんが笑い声を交わしながら歩いてくるのが見えた。


目が合うと黒川くんは一瞬驚き、いつものように手を上げかけた――が、その動きは途中で止まった。高嶋さんが彼の腕にそっと触れ、自然に距離を詰めていたからだ。


「黒川さん、この前お話ししたイタリアンのお店、今度の土曜日はどうですか?」


その声はわざと私の耳にも届くような、甘く伸びる響きだった。


「土曜日は……」


困ったように濁す黒川くん。


「もちろんご都合が悪ければ構いません。でもせっかくなので、黒川さんと美味しいものが食べたいなって」


高嶋さんは黒川くんを見つめながら、チラリと私の方へ視線を送った。そして少し大きめの声で、私に聞かせるように続ける。


「黒川さんとお話ししていると、本当に楽しいんですよ。私、自分が一番好きになれるんです」


胸の奥がざわつく。

それは黒川くんへのアピールであると同時に、私への挑発だった。


いたたまれなくなって階段に向かおうとしたその時、背後から明るい声が飛んできた。


「あら、白石さん。お疲れさまです」


振り返ると、高嶋さんが満面の笑みでこちらを見ていた。そして黒川くんに向き直り、さらりと言う。


「私、白石さんと仲良しなんですよ。二人でランチに行こうって約束してて」


もちろん、そんな約束はしていない。彼女は私を巻き込みながら、「私たちは親しい」という印象を黒川くんに植え付けようとしている。


「え、そうなの?」


黒川くんが私に視線を向ける。私は嘘をつくのが苦手で、言葉が喉で止まった。


「ほら、照れちゃって。可愛いですよね。でも本当に真面目だから、休憩も取らずに頑張っちゃうんですよね。黒川さんも心配になっちゃいますよね?」


その口ぶりは、私を『恋愛対象外の妹』のように位置づける巧妙な罠だった。否定すれば角が立ち、受け入れれば傷つく――逃げ場のない言葉。


「では、また改めてご連絡しますね」


高嶋さんは優しく黒川くんに微笑みかけ、最後に私を一瞥してから、エレベーターへ消えていった。


残された私に、黒川くんが心配そうに問いかける。


「白石、何かあったのか?」


首を横に振るだけで精一杯だった。

彼の優しさは、今の私には痛すぎた。


「なんでもないよ。お先に失礼します」


そう言って、私は階段を駆け降りた。



***



週明けの月曜日。

いつものようにエレベーターホールで待っていると、ちょうどドアが開いた瞬間、受付の高嶋さんが小走りでやってきた。


「おはようございます、白石さん」


にこやかな笑みを浮かべ、当然のように同じエレベーターに乗り込んでくる。中には私たち二人だけ。

彼女はいつもより上機嫌で、まっすぐ私を見ていた。


「おはようございます……」


ぎこちなく返すと、高嶋さんがふっと唇をゆるめた。


「週末、黒川さんからメールをいただいたんです」


その一言で、胸の奥がきゅっと締めつけられる。


「『お疲れさまでした』って。私、『お忙しい中お時間を取らせてしまって申し訳ありませんでした』って送ったら、お返事くださって」


言葉の一つひとつが、わざと私に届くように響く。


「本当に……優しい方ですよね」


恍惚とした声。その響きは、私の耳には勝者の凱旋歌のように聞こえた。


「きっと私に興味があるんだって、思ってもいいんですよね?」


小悪魔のような笑みを浮かべながら、私の反応を探る。目は完全に嘲笑っていた。


「……どうかな」


それだけ絞り出すのが精一杯だった。


「ふふっ、白石さんって可愛いですね。私、もう少し頑張ってみようと思います」


小さな爆弾を落とすように言って、高嶋さんは楽しげに笑った。


エレベーターが開発部の階に着く。降りようとした私の背中に、突き刺さるような声が追いかけてくる。


「お仕事頑張ってくださいね。私はこの後、受付に行きますので」


それは、「もう私の勝ちよ」と言っているのと同じだった。ドアが閉まる直前、彼女が満足げに微笑むのが見えた。


席に戻ってパソコンを立ち上げても、画面は何も映していないように見えた。心はすっかり色を失い、モノクロの世界に沈んでいく。


――やっぱり黒川くんは、私みたいな地味な女より、高嶋さんのような華やかな女性の方が好きなんだ。


そう思った瞬間、この恋を手放すべきだという声が、心の奥で囁いていた。



***



その夜、手帳を開いたものの、ペン先は動かなかった。


黒川くんにとって、私は本当に「妹みたいな存在」なのだろうか。

――信じたくない。

でも、高嶋さんの言葉が胸の奥で何度も反響する。もし本当にそうだったら……。


色鉛筆を手に取ってみたけれど、描きたいものは何一つ浮かばなかった。ため息とともにページを閉じる。


高嶋さんの攻勢は、これからますます激しくなるはずだ。その横で私は、ただ立ち尽くすしかないのだろうか。不安と答えの出ない思いを抱えたまま、目を閉じた。

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