第1話『再会という名の奇跡』
春の陽射しがやわらかく差し込む会議室で、私は手のひらにじんわりと汗をかいていた。
胸の奥で心臓が速く打ち、声がうまく出るかどうか不安になる。
「それでは、本日から開発部に配属となります白石詩織さんです」
部長の紹介に合わせて、私は深く頭を下げた。
「よろしくお願いいたします」
頭を上げた瞬間、視界の端で蛍光灯が白く滲んだ。転職初日特有の緊張が、足先まで満ちていく。
25歳での転職。文具メーカー「クリエイト・ステーショナリー」への入社は、私にとって人生を大きく変える賭けだった。
前の職場を辞め、家も引っ越してから半年——ようやく新たな転職先が見つかったのだ。
……ここでなら、全部をやり直せる。そう信じていた。
前の会社は、息苦しさしか残らなかった。
あの人との関係も──壊れるだけ壊れて、何も残らなかった。
一度ついたひび割れは、もう元には戻らない。
だから私は、過去ごと環境を変える道を選んだのだ。
「白石さん、こちらが開発部のメンバーです」
部長の声に顔を上げた瞬間、空気が揺れた。
見覚えのある後ろ姿。
背筋がすっと伸びた高い背と、肩幅の広さ。その人物が、ゆっくりと振り返る。
「えっ……」
心臓が、ひときわ強く跳ねた。
「白石?」
その声は、記憶の奥をまっすぐ突き抜けた。
黒川隼人。
高校時代、図書委員を一緒にやっていた同級生。いつも人に囲まれて、笑顔を向ければ誰もが応える人気者。
私はそんな彼を、密かに目で追っていた。
「久しぶりだな。まさか白石がうちの会社に来るなんて」
驚きと、すぐにほぐれるような笑顔。
高校の午後の光景が、一瞬で目の前に蘇る。
──ずるい。そんな顔をされたら、また胸が騒ぐ。
「……黒川、くん」
新しい環境で心機一転を図ろうとしていたのに、よりによって、憧れの人と再会するなんて。
これが偶然だなんて、信じられない。
「黒川は営業部のエースなんですよ。開発部とも連携が多いから、これからよろしく頼みます」
「は、はい。よろしくお願いします」
「こちらこそ。白石とは高校の同級生なんです」
軽く手を振るその仕草まで、あの頃のままだった。
その後の部署紹介は、言葉だけが上滑りして耳を通り過ぎていった。
黒川くんの存在が、私の思考のすべてを占めてしまって──他のことなんて、何一つ入ってこなかった。
***
昼休み。
社員食堂の隅にある二人掛けのテーブルで、私は一人、湯気の立つ味噌汁をぼんやり見つめていた。
まだ初日。話しかけてくれる人もいなければ、こちらから踏み込む勇気もない。
「一人?」
顔を上げると、トレイを片手に黒川くんが立っていた。相変わらず背が高くて、周囲のざわめきの中でもひときわ目立つ。
「あ、はい……」
「よかったら一緒に食べない? 久しぶりだし」
頷く以外の選択肢なんて、私にはなかった。
本当は──断る理由なんてひとつもない。むしろ、もっと話してみたかった。
席に腰を下ろした黒川くんは、箸を手に取りながら笑った。
「それにしても、まさか白石に会えるなんて思わなかった。元気にしてた?」
「はい、おかげさまで」
自分でも驚くほど無難な返事。
元気かどうかなんて、自分でも分からない。元カレ・陸との日々にすり減らされ、別れたことでようやく息つぎはじめたばかりなのに。
「なんだよ、よそよそしいな」
くすっと笑いながら言われ、少し肩がこわばる。
「『おかげさまで』ってさ、高校の時はもっと普通に話してただろ。タメ口でいいじゃん」
「でも、職場ですし……」
「同期なんだから大丈夫。それに俺たち、高校の時もタメ口だったじゃん」
──そうだった。
図書委員のときは自然にそうしていたのに、社会人になってからは誰に対しても敬語が当たり前になった。陸に「タメ口で話すとか、馴れ馴れしいんだよ」と言われ続けたせいで、距離を取るのが癖になっていた。
でも、もうあの頃の私じゃない。新しい環境で、新しい私になりたい。
「……じゃあ、ありがとう。黒川くん」
勇気を少しだけ乗せて口にすると、黒川くんの表情がぱっと明るくなった。
「そうそう、その方が白石らしいよ」
その笑顔を見て、胸の奥がふっと軽くなる。
「高校の時から、あんまり変わってないな。相変わらず丁寧で、控えめで」
「変わってないって……それは褒め言葉?」
「もちろん。俺、図書委員の時の白石のこと、よく覚えてるよ。あの時の整理の丁寧さは、本当に感心してた」
そんなふうに覚えていてくれたなんて。ただのクラスメイトの一人だと思っていたのに。
「黒川くんの方こそ、人気者だったよね。いつもクラスの中心にいて」
「人気者か……まあ、そう見えたかもな。でも俺はどちらかというと、白石みたいに控えめだけど芯のある人の方が好きだったな」
箸を持つ手が止まった。
今のは──ただの社交辞令? それとも……。
「今日からよろしく。分からないことがあったら、何でも聞いて」
変わらない優しい笑顔。私は小さく頷きながら、胸の奥で何かが静かに揺れるのを感じていた。
***
その夜、机の上に置きっぱなしだったほぼ日手帳を久しぶりに開いた。ページをめくるたびに、日付の空白が目に刺さる。
陸と付き合っていた頃──特に関係が悪くなってからは、何も書けなかった。毎日を記録することは、辛い現実を認めることみたいで。
陸にも言われた。「そんな子どもっぽい趣味、いい加減やめろよ」って。あの一言で私のペンは止まってしまった。
……でも今日は違う。
『転職初日。まさか黒川くんに会うなんて。久しぶりに心が温かくなった。』
細い文字でそう書く。ペン先が紙をなぞる音が、部屋に静かに響く。頭の中には、昼間の黒川くんの笑顔が浮かんでいた。気がつくと、その隣に小さなハートマークを描いていた。
あの頃の私は陸の言葉に傷つくたび、自分の気持ちを閉じ込めてしまっていた。でも今日、黒川くんの優しさに触れて、忘れていた色が少しだけ戻ってきた気がする。
引き出しから色鉛筆を取り出し、ハートを淡いピンクで塗る。本当はもっと書きたいことがあったけれど──今日はこれでいい。このハートひとつが、私には大きな一歩だった。
モノクロだった日常に、小さな彩りが差したみたいに。
手帳を閉じ、ベッドに潜り込む。明日が少し楽しみになるなんて、いつぶりだろう。
黒川くんがいる職場ならきっと頑張れる。そんな気がして、私は目を閉じた。
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