第23話 逃げるものか
「……春香?」
「ああ、取り戻せたのは一つだけでしたか」
屍術師の言葉が一体何を意味しているのか、十人の配下を失っていながら何故未だに余裕を崩していないのか、考えようにも突然の事態により固まった頭ではまともな思考さえ叶わない。
「……あれ」
今度は両脚に力が入らなくなり、たまらずその場で片膝を突いてしまう。まともに立っていられなくなる程の疲労感に見舞われ、知らない内に体力の大半を消耗していたことにようやく気づく。
「……生気を、奪われた?」
不自然に体力を失った今の状況は、昨夜雪女に襲われて動けなくなった牧浦さんの容態と瓜二つ。
「霊力と生気は言わば、表裏一体のエネルギー。あなたは立花春香さんと霊力を共有しているのですから、霊力の増減による影響を少なからず受けてしまうのでしょう」
涼しい顔をしている屍術師のすぐ隣で、春香の霊核の一つだった巾着袋が宙を漂う。
「雪女の、霊核……?」
「返してもらいますよ。元はと言えば、ワタシがこの手で作った物なのですから」
あたかも、屍術師の意思そのものに従っているかのように。緑色のお守り袋は空中で不自然な楕円の軌道を描き、屍術師の胸元にある銀色のロケットへ染み込むように吸収されていく。
「一体、何を……」
「ワタシのかわいい悪霊達、彼らが立花春香さんの霊力に触れてくれたおかげです。彼女との間に僅かな繋がり生まれた隙に、霊力をできる限り取り返させていただきました」
屍術師はあくまでも飄々としており、僕を騙そうとする様子は一切見当たらない。
「とはいえ、取り戻せた霊核は一つだけ。もう一つ手に入れるにはやはり直接触れる必要があるみたいですね」
只ならぬ実力を秘めた屍術師は歩き出し、倒れたまま動くことが無い春香との距離を詰めていく。
屍術師がゆらりと掲げた片手、あの手に触れられたら今度こそ春香の全てが奪われてしまう。詳しい原理は分からずとも、屍術師が操る未知の力の危険性を本能的に察知する。
「…………」
「おや……」
膝を突いたまま顔を上げて、春香を狙う屍術師を遠ざけるように睨みつける。
「……春香は、渡さない」
「……ふむ」
必死の敵意が伝わったのか、はたまた伝わっていないのか。屍術師は僕から二メートル程離れた場所で足を止めたものの、その表情には変わらず軽薄な笑顔が貼り付いている。
「……なるほど、そうできるだけの力はまだ残っているようですね」
笑みを描いていた口元は初めて、つまらなそうなへの字の形に曲がる。
「では、予定変更です」
屍術師は僕に向き直ると、胸元で輝く銀色のロケットを再び手に取る。蓋の隙間から溢れ出る靄の量は先程よりも増えており、屍術師の色白の手を蝕むように拡散している。
「……え」
ロケットの蓋が自然と開かれた途端、内側からは路地裏の全てを埋め尽くさんばかりの黒雲が噴水のように吹き上がる。
「立花春香さんよりも先に、まずあなたの意志を砕くとしましょう」
大量の黒雲は屍術師を守るように宙を泳ぎ、あたかも自我を持っているかのように柔軟な変化を遂げていく。
「春香に似ている……」
恐らく五メートル程はあるのだろう。黒雲は昨夜の春香と同じ二足歩行の人型を模り、目の当たりにしただけで動けなくなってしまうぐらいに強烈な威圧感を放つ。
「殺してしまったら申し訳ありません、なにぶん加減が効かない子でして」
屍術師の丁寧な口調とは裏腹に、黒影は出来立ての黒腕を乱暴に振り上げる。
もしもあれが僕を狙って振り下ろされたら、その光景を想像すると雪女の光線を受け止めた時の激痛が手の中で蘇る。
「……絶対に、逃げるものか」
どんなに怖くても、どれほど苦しくても、春香をみすみす差し出す真似だけはしない。
「……僕は、春香のことが好きなんだから」
未だに触れない霊体へ手を伸ばし、その傍らで終わりの時が来るのを静かに待つ。
「――焼き尽くせ、『滅』‼」
最期を覚悟したその瞬間、辺り一面でガスバーナーを一気に点火したような低い音が響き渡る。覚えのある凛とした声を伴って、発火した青い炎は四方八方を覆い隠さんばかりに吹き荒れていく。
「来ましたか、霊媒師……!」
青の大火は忽ち路地裏を呑み込み、口角を吊り上げる屍術師どころか黒ずくめの巨体にさえ燃え移っていく。
「まさか……」
僕には不思議と引火することが無く、宙を舞いながら焼失していく白札十数枚を落ち着いて観察することができた。
「成瀬君、無事⁉」
「牧浦さん……」
自らが撒いた青い炎を掻い潜り、切迫した様子の牧浦さんが僕の下に駆けつけてくる。
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