第2話 ここどこ?

「おはよう、ユキくん!」

「……え?」


 微睡んでいた瞼を擦り、目を閉じた時のように真っ暗な世界で目を覚ます。その場に立ち尽くしたまま、一切の光が差し込まない暗闇の中で恐る恐る瞼を開いてみる。


「本当に心配しちゃったよ! ユキくんってば、眠ったまま全然起きてくれなかったんだから!」

「……えっと」


 暗闇の中にいるにもかかわらず、溌溂な挨拶をしてきた女の子の姿だけははっきりと視認できる。背中まで伸びた長髪は不自然な程白く染まっており、格好に至っては何故か僕が通う高校のものと同じ紺色のブレザー制服姿だ。


「……僕は、確か」


 意識は夢見心地のようにふわふわとしており、何故僕がこの暗闇の世界にいるのかさえ判然としていない。


「……聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」

「もちろん! なんでもかんでも聞いちゃって!」


 朧げな雰囲気を纏いながらも、同い年か年下の女子生徒は力強く胸を叩く。


「ここ、どこ?」

「ユキくんの中!」

「きみ、誰?」

「私だよ、私! ついさっき、ユキくんに取り憑いたばかりの!」

「…………」


 矢継ぎ早に質問を投げかけても、女の子から返って来るのは要領を得ない答えだけ。これでは彼女の素性はおろか、人間として必要最低限なコミュニケーションさえ成り立たない。


「……って、え? 取り憑いた?」


 掴み所がないやり取りの中、聞き捨てならない五文字の言葉があることに遅れて気づく。

 同年代にしては背が低く、ともすれば中学生のように見えるとはいえ。もしかすると、この女の子は。


「……さっきの、悪霊」

「悪霊じゃなーい!」


 女の子は甲高い叫び声を上げると、不機嫌一色の面持ちになって詰め寄ってくる。


「悪霊じゃなくて、幽霊!」

「幽霊……」


 どっちも同じようなものだと思うが、幽霊だからこそ分かる違いがあったりするのだろうか。


「それに私にはちゃんと、立花春香って名前があるんだから!」

「……立花春香」


 自らを春香と名乗った女の子は僕から一歩引くと、初対面とは思えない程屈託のない笑顔を浮かべる。


「気軽に春香って呼んでね、ユキくん!」

「……うん、それじゃあ」


 友好的な態度を取っているものの、相手はあのおぞましい瘴気を司る悪霊。機嫌を損ねない為にも、今は言われた通りに名前呼びをしなければ。


「春香」

「きゃー! 本当に名前で呼ばれちゃったー!」

「…………」


 ただ名前で呼んだだけなのに、春香は心底嬉しそうに自らを抱きしめて悦に入っている。急ごしらえの警戒心ではあったが、彼女のあられもない姿を目の当たりにしたせいであっさりと崩れ去ってしまった。


「あ、ごめんね! こうやってユキくんとお話できるのは初めてだから、もう本当死ぬほど嬉しくて!」

「う、うん……」


 幽霊なら既に死んでいるはず、という野暮なツッコミは置いておくとして。警戒心が薄れてきた今なら、抱擁を解いた春香の姿を落ち着いて観察することができる。


「……可愛い」

「え? ユキくん?」

「あ、いや……何でもない」


 緩みそうになった表情を引き締まらせて、うっかり口にしてしまった第一印象を誤魔化す。

 正直言って、春香の見た目は僕の好みど真ん中だ。背はそれ程高くなく、整った顔つきには子供らしいあどけなさが残っている。赤色の瞳だってくりくりとしていて可愛らしく、思わず釘付けになってしまうのも頷けるというもの。


「……それに」

「?」


 遠慮のない物言いに、僕を見上げて首を傾げる仕草さえ。春香の何気ない立ち振る舞いの数々が、どことなく桜花のそれと似ているような気がして。


「……そ、それで。春香」


 気のせいに決まっている勘違いを振り払って、やや無理のある話題の方向転換を試みる。


「ここが僕の中って、一体どういうこと?」


 恐らく、どこかに出口があるのだろう。一抹の希望を抱いて周囲を見回してみるものの、この暗闇の空間はどこまでも果ての無い黒色の景色が続いているだけだ。


「そのまんまの意味だよ! 今の私はユキくんに取り憑いているから、ユキくんの中でもこうやってお喋りができていて……」


 饒舌だった春香の声は次第に、周囲の静寂が引き立つぐらい微弱なものになっていく。


「……ご、ごめんねぇ、ユキくん」

「え?」


 春香の赤い眼は煌めき、溢れ出る涙が深紅の瞳を不安定に揺らす。


「本当はね、見守るだけで取り憑くつもりなんて無かったんだよ。本当に取り憑いちゃったら、ユキくんにどんな悪影響があるか分からないから……」

「……春香」


 両手で必死に涙を拭うその姿に、僕を欺こうとする嘘臭さは一切見当たらない。春香は心の底から、僕に取り憑いてしまったことを後悔しているらしい。


「もしかして、僕が気を失ったのも……」

「うん、私がユキくんに憑いちゃったから……」


 ひとしきり涙を拭い終えると、春香はやや赤みを帯びた顔を俯かせる。


「今までずっとユキくんの後をつけていたんだけど、学校の屋上から飛び降りようとしていたから慌てて取り憑いちゃって……」

「そうだったんだね……ん?」


 春香の感傷的な一面に、思わず心が奪われそうになった矢先。やはり聞き捨てならない言葉が耳に飛び込み、周囲を泳いでいた視線は一気に春香に釘付けになる。


「……後を、つけていた?」

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