魔王軍の法務部
月待ルフラン【第1回Nola原作大賞】
第1話 過労死。そして、世界で最も物騒な採用面接
チ、チ、チ、と無機質な音が思考の背景で鳴り続けている。
蛍光灯の光が、やけに目に染みた。
(ダメだ…この第8条、損害賠償の上限が設定されていない…)
目の前にあるのは、取引先から送られてきた業務提携契約書の最終案。PCのモニターに映る無数の文字が、まるで黒い虫の群れのように蠢いている。
もう何時間、この画面と睨み合っているだろうか。三徹目の夜は、もはや昼と夜の区別さえ曖昧にさせる。
「…真壁君、まだ終わらないのかね?」
背後から、ぬるりとした声がした。胃液が逆流する。声の主は、我らが営業部のエース、鈴木部長だ。彼が取ってくる大型案件の契約書は、決まってどこかに致命的な「穴」が空いている。
「申し訳ありません。ですが、この条項はあまりに危険です。このままでは、万が一の際に我が社の損害が青天井に…」
「ああ? 細かいことはいいんだよ!」
苛立ちを隠そうともしない声が、鼓膜を殴る。
「クライアントはこれでOKって言ってるんだ。法務がしゃしゃり出て契約を潰す気か? そんなんだからお前はいつまで経っても使えないんだよ」
まただ。
また、その言葉だ。
胸の奥が、氷のように冷えていく。論理も、正義も、この会社では何の意味も持たない。ただ、声が大きい者の理屈がまかり通るだけ。俺は、会社を守るための番犬ではなく、ただの「面倒な奴」なのだ。
(ああ、もう、どうでもいいか…)
思考が、ぷつりと途切れた。
目の前の文字がぐにゃりと歪み、キーボードの上に置いた指先の感覚が消えていく。
(ああ…でも、やっぱり、この第8条だけは…)
それが、法務部員・真壁まかべ 仁じん、享年28歳の、最後の思考だった。
◇
意識が途切れた。
――次の瞬間、全身を突き刺したのは、鋭利なまでの寒気だった。
薄いワイシャツ越しに石の床の冷たさが背中を這い上がり、心臓を直接握り潰されるような強烈な威圧感が思考を麻痺させる。恐る恐る目を開けると、視界を埋め尽くしたのは、絶望的なまでの巨大な玉座と、そこに座す「魔王」だった。
そこは、黒曜石を切り出したかのような、だだっ広い玉座の間。天井は遥か高く、あちこちで燃え盛る篝火が、壁に不気味な影を踊らせている。
そして、山のように巨大な、禍々しい玉座に鎮座していたのは――磨き上げられた黒い角と、燃えるような真紅の瞳を持つ、まさしく「魔王」そのものだった。
その魔王の前には、異形の者たちがずらりと並んでいた。
緑肌の巨躯を誇るオークの将軍が、焦れたように巨大な戦斧の柄をゴリゴリと掻いている。
彫像のように微動だにせず、ただ冷徹な瞳で一点を見つめている、爬虫類の鱗に覆われたリザードマンの剣士。
宙に浮かべた古文書のページを、骨の指でゆっくりと繰っている、青白い光を放つ骸骨の魔術師。
俺は、なぜかその魔王と将軍たちが並ぶ、最前列の床に転がされていた。まるで、これから始まる何かの儀式の、生贄のように。
その時だった。オークの将軍が、我慢ならないといった様子で豪快に笑い飛ばした。
「魔王様! 小細工は不要! やはり、あの勇者の首をこの斧で叩き割るのが一番ですな!」
玉座の肘掛けが、ギリィッ、と嫌な音を立てた。魔王が、苛立ちを隠しもせず握りしめたのだ。
「黙れ、ボルガ。あの“聖剣の勇者”一人に、我が腹心であった魔将軍ザルガスを討たれ、東の要塞を失ったのを忘れたか。奴がいる限り、今は耐えるしかないのだ」
その言葉に呼応するように、魔王の目の前に、ふわりと一枚の羊皮紙が浮かび上がった。魔法の光を放つそれは、どうやら「休戦協定」の契約書のようだった。
(だとしても、俺には関係のないことだ…)
そう、頭では理解しているのに。
俺の目は、その魔法の契約書に釘付けになっていた。
羊皮紙に書かれているのは、古代の文字だろうか。読めるはずもない。
だが、なぜだろう。その文字の連なりが、俺の頭の中では、見慣れた日本語の条文に変換されていく。
第一条(不可侵)
……
第八条(賠償)
第九条(協力義務)
(…ん?)
見覚えのある響きに、心臓が跳ねた。
第八条。
俺の視線が、その条文に吸い寄せられる。
第八条:本協定に違反したる者は、相手方に対し、その受けたる全ての損害を賠償するものとす。
(……っ!?)
骸骨の魔術師が、口元を歪ませながら知的な響きの声で進言した。
「魔王様、ご安心を。この協定書に、我らが“古代魔法エンシェント・マジック”で検知しうる欺瞞の術式はございませぬ。問題ありますまい」
(違う!そこじゃない、その次が本当の地獄だ!)
俺の思考が、さらに先の条文を捉える。
第九条:一方の領地に第三国の侵攻ありたる場合、他方は速やかに援軍を派遣し、共同して防衛にあたる義務を負う。
これも罠だ。
人間側の都合のいい戦争に、魔王軍を無償で動員させるための、奴隷契約じゃないか。
死ぬ間際にレビューしていた、あのクソみたいな契約書と、全く同じ「穴」がそこにあった。
魔王が、契約書に署名するためだろうか。禍々しいオーラをまとった指を、ゆっくりと伸ばしていく。
やめろ。
やめてくれ。
俺には関係ない。もう、仕事はこりごりだ。
黙って、ここで殺されるのを待つだけだ。
心臓が肋骨を内側から叩き割るのではないかと思うほど激しく脈打ち、喉がカラカラに干上がって、浅い呼吸しかできなくなる。背中を、嫌な汗が一筋伝うのを感じた。それでも、俺の口は動かずにはいられなかった。
「お、お待ちくださいッ!!」
自分でも信じられないような、裏返った声が喉から飛び出した。
「その契約書に、サインしてはいけませんッ!!」
シン―――…
玉座の間の全ての音が、消えた。
オークの将軍が「馬鹿な!」と声を荒らげ、リザードマンの将軍は無言のまま眇めた目で俺を睨みつけ、骸骨の魔術師は「ありえん…我が解析魔法が見抜けぬとは…」と動揺を露わにする。
そして、玉座の魔王も。全ての視線が、床に転がる無力な人間一人に、槍のように突き刺さる。
終わった。
完全に、終わった。
魔王の厳粛な儀式を邪魔したのだ。一瞬で塵にされるに違いない。
真紅の瞳が、俺を射抜く。
絶望的な沈黙が、永遠のように感じられた。
やがて、魔王の口が、ゆっくりと開かれた。
「……面白い」
地響きのような声には、怒りではなく、純粋な興味の色が混じっていた。
「説明してみよ、人間」
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