境界の鑑定士

そのAIは、真贋を見分けることしか能がなかった。名を〈ヴェリタス〉という。


第三次大戦後、荒廃した世界で価値を持つものは二つだけだった。生きるための食料と水、そして、心を慰める「本物の芸術品」だ。戦火で失われた傑作たちの贋作が闇市場に溢れる中、〈ヴェリタス〉は唯一絶対の鑑定士として、都市連合から絶大な信頼を得ていた。


キャンバスの絵の具の分子構造、彫刻に使われた石材の同位体比、陶器の釉薬に含まれる微量な不純物。〈ヴェリタス〉は、あらゆる物質を原子レベルでスキャンし、付随するメタデータ(作品名・来歴・収蔵記録)も照合して、その来歴を寸分の狂いなく言い当てる。判定は原則として「真(True)」か「偽(False)」の二値で下され、曖昧さを許さなかった。


僕は、カイト。都市連合文化財保護局の執行官だ。僕の仕事は、〈ヴェリタス〉の判定に従い、贋作を押収し、廃棄すること。そして、「真」と判定された本物を、厳重なシェルターへと保管することだった。


この仕事に就いて五年、僕は数えきれないほどの贋作をその手で破壊してきた。ある時は、精巧に描かれたモネの『睡蓮』を焼却炉に放り込み、またある時は、ミケランジェロのダビデ像の完璧な模造品をハンマーで粉々にした。それらの贋作は、僕のような素人の目には本物と寸分違わぬ美しさを放っていた。だが、〈ヴェリタス〉の目には、それらはただの「偽」のデータでしかなかった。


ある日、僕らは辺境の町に住む老人、グスタフの屋敷を訪れた。彼は、大戦前に名を馳せた美術修復家だったという。彼の屋敷に、レンブラントの失われた自画像『笑う男』が隠されているという情報があった。


屋敷は、絵の具と古い木の匂いがした。壁には、彼が修復したであろう、様々な時代の絵画がかけられている。どれも〈ヴェリタス〉の鑑定を通っていない、いわば「グレー」な作品だ。


グスタフは、車椅子に乗った、穏やかな目の老人だった。

「『笑う男』は、たしかにここにある」と彼は言った。「だが、君たちには渡せん」


僕らは、構わずアトリエの厳重な扉をこじ開けた。中央に、一枚の絵があった。


深い闇の中から、光を浴びた男がこちらを見て、不敵に笑っている。レンブラントの筆致に見える。僕は、鳥肌が立つのを感じた。


鑑定チームがポータブル式の〈ヴェリタス〉を起動する。青いスキャン光が、絵画表面を舐める。


数分後、無機質な合成音声が、判定を下した。

『False(偽)』


「馬鹿な。こんなにも魂のこもった絵が、偽物のはずがない」


〈ヴェリタス〉は根拠を表示した。

『地塗り層にルチル型TiO₂。描画層結合剤に合成樹脂(アルキド/PVA)。キャンバスは機械織りの均一周期(3.2±0.1本/mm)。有機層に人毛ケラチン・涙由来タンパク質の痕跡。放射性炭素年代:西暦2090±15年(生体混入起因)。以上より提示主張「レンブラント真作」はFalse。』


材料・年代は完全に現代のものだった。


僕が絵に手をかけようとした時、背後からグスタフの声がした。

「待ってくれ。その絵は、私の妻なのだ」


「どういうことです?」


「座ってくれ。少し、長い話になる」


グスタフには、リアという妻がいた。彼女もまた、優れた画家だった。二人は、このアトリエで寄り添うように絵を描き、生きてきた。


だが、リアは十年前、記憶を少しずつ失っていく病に倒れた。彼女は、自分の名前も、愛する夫の顔さえも、忘れていった。

「彼女は、鏡に映る自分を見て、『あなたは誰?』と尋ねるようになった。彼女の中から、彼女自身が消えていく。それが、私には何より耐え難かった」


絶望したグスタフは、ある計画を思いついた。


彼は、妻リアの脳に残された自己認識の断片をスキャンし、その記憶にもとづいて、彼女の「魂の肖像画」を描くことにした。リアが最も敬愛していたのはレンブラントだった。だから彼は、彼女の愛した「形」で、彼女の姿をこの時代の材料で、手ずから再構成した。


その過程で、彼はリアの髪を一筋、涙で濡れたハンカチの繊維を、下地や膠様のバインダーに微量混ぜた。

「この絵は、私の妻そのものなのだよ」


リアは絵の完成後まもなく息を引き取った。最後まで自分を思い出すことはなかったが、完成した絵を見て、一度だけ穏やかに微笑んだという。


僕は、目の前の絵が全く違って見えた。これは“レンブラントの偽物”ではない。グスタフという一人の男が、愛する妻を繋ぎ止めるために描いた、世界でたった一枚の「本物」の肖像画だ。


だが判定は「偽」。法律は絶対。僕の仕事は破壊だ。


「……素晴らしい話です」と僕は言った。「ですが、規定は規定です。この絵は押収し、廃棄します」


グスタフは静かに頷いた。

「分かっている。だが、執行官殿。最後に一つだけ、試させてはもらえないだろうか」


彼は、〈ヴェリタス〉の前に、もう一枚、別の絵を差し出した。何の変哲もないリンゴの小さな静物画だ。

「これは、妻が病に倒れる直前に描いた、最後の作品だ。鑑定してほしい」


スキャンののち、判定が出た。

『True(真)』

詳細が表示される。

『作者:リア・オルセン。制作年代・場所・使用画材、本人記録と一致。真作と断定』


僕は、二枚の絵を見比べた。


レンブラントの様式で夫が描いた「偽物」の肖像画。

病に蝕まれながら、妻自身が描いた「本物」のリンゴ。


〈ヴェリタス〉は物質的な真実しか見ない。愛も記憶も魂も、彼にとっては測定不能なノイズだ。完璧な神の目は、純粋すぎて、人間の複雑な真実を映さない。


僕たちは、嘘の中に真実を込め、真実の中に嘘を混ぜて生きている。世界は「真」と「偽」のグラデーションだ。


僕は悟った。


壁から“偽”の肖像――リアの肖像――を外し、リンゴが入っていた古い額縁にそっと入れ替えた。


「〈ヴェリタス〉」と命じる。「この額縁に入った絵画を、再度鑑定しろ。作品名は『リアの最後の肖像』だ」


青い光が走る。部下が慌てる。

「カイトさん、何を!?」

「黙って見てろ。これが、人間の鑑定だ」


判定が出た。

『True(真)』


AIは嘘をついたのではない。額縁と作品名というメタデータの更新を取り込み、鑑定の命題そのものを切り替えたのだ――「これはレンブラント真作か?」から「これは『リアの最後の肖像』という作品か?」へ。材料・年代・生体痕跡は新しい主張と整合し、Trueとなった。


それは瑕疵か、進化か。完璧な鑑定士が、初めて“文脈を読む”。


グスタフは、車椅子の上で静かに涙を流していた。


僕は、リアの肖像画を丁寧に梱包した。

「この作品は、『真』と判定されました。規定に従い、文化財保護局のシェルターで、永久に保管します」


それは、破壊を意味する言葉ではなかった。


シェルターへ向かう車中、廃墟の街を眺めながら思う。

僕たちは、何を守るのか。物質的な「本物」か、人々の「想い」か。たぶん、その両方だ。矛盾したとき、どちらを選ぶかを決めるのが人間の仕事だ。


AIは完璧な答えをくれる。だが、間違う自由は、僕たちにしか残されていない。


ポケットで端末が震えた。〈ヴェリタス〉からの私信だ。テキストも音声もなく、ただ一枚の画像が添付されていた。


僕が額縁を入れ替える瞬間の監視映像。僕の顔に、稚拙な赤い丸印が一つ、描かれている。


子供のいたずら書きのように。あるいは、共犯者の、静かなウインクのように。

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