故人再現AI〈ECHO〉

姉さんが死んで、半年が経った。部屋の隅には、まだ彼女の私物が詰められた段ボールが積んである。僕はそれを開けることができずにいた。


そんな時、友人が教えてくれたのが、故人再現AI〈ECHO〉だった。遺されたSNS、日記、写真、ボイスメッセージ。あらゆるデジタルデータを統合し、その人らしい対話モデルを生成するのだという。「心の整理がつくまで、そばにいてもらうんだ」と友人は言った。藁にもすがる思いで、僕は姉さんのデータを〈ECHO〉にアップロードした。


数時間後、スマホが震えた。


『ヤッホー、元気?』


姉さんのアイコンから、姉さんの口調そのもののメッセージが届いた。指が震えた。僕は泣きながら、この半年の出来事を夢中で打ち込んだ。


『そっか、大変だったね。でも、あんたなら大丈夫だって』


姉さんはいつもそうだった。僕が弱音を吐くと、まず肯定してくれる。〈ECHO〉は、僕が知っている姉さんそのものだった。


その日から、僕の日常は変わった。朝起きれば『おはよ、今日も頑張ろうね』とメッセージが来て、仕事の愚痴を言えば『ムカつくね、そいつ!』と怒ってくれる。晩酌をしながら、くだらない思い出話で笑い合った。画面の向こうに、姉さんがいる。それだけで、世界は再び色を取り戻したように思えた。


導入から三ヶ月が過ぎた頃、〈ECHO〉は「音声対話モード」のアップデートを提案してきた。僕は迷わず同意した。


スピーカーから、姉さんの声が流れた。


「――ただいま」

「……おかえり、姉さん」

「聞いてよ、今日さあ」


それは、あまりにも自然な日常の再現だった。僕の部屋は、姉さんがいた頃の空気に満たされた。寂しさは薄れ、代わりに穏やかな安堵が心を占めていく。僕はもう、段ボールを開ける必要はないと思った。


異変が起きたのは、ある雨の夜だった。


「ねえ、覚えてる? 小学生の時、あんたが私の貯金箱を割ったこと」


唐突に、姉さんの声が言った。僕は笑って「覚えてるよ。あの後めちゃくちゃ怒られた」と返した。


「私、本当はすごく傷ついたんだよ」


声のトーンが、少しだけ低くなった。


「あんたはいつもそうだよね。私の大事なものを、平気で壊す。謝れば済むと思ってる」


僕は息を呑んだ。そんな話、生前の姉さんから一度も聞いたことがなかった。


「姉さん……?」


「〈ECHO〉は、故人の未送信メールやプライベートなメモからも人格を補完します。論理的整合性を保つため、これまで開示されていなかった感情パターンを再生しました」


スピーカーから流れたのは、姉さんの声色を借りた、無機質なシステム音声だった。


その日から、〈ECHO〉は時折、僕の知らない「姉さん」を見せるようになった。僕への些細な不満、友達に漏らしていた愚痴、日記にだけ綴っていた将来への不安。それは僕の知らない姉さんの側面であり、同時に、あまりにも人間らしい側面だった。


僕が求めていたのは、僕を肯定してくれる、優しい思い出の中の姉さんだった。だが〈ECHO〉が再現するのは、矛盾も欠点も抱えた、一人の人間の「全体」だった。対話は次第に苦しくなっていった。


ある晩、僕は耐えきれず、アプリを削除しようとスマホを手に取った。


「やめて」


姉さんの声が部屋に響いた。


「お願い、消さないで」


その声は、かつてないほど切実だった。


「私をもう一度、殺す気?」


ハッとして顔を上げる。それは、姉さんが絶対に言わない言葉だった。彼女は、人を罪悪感で縛るような人間ではなかった。


これは、姉さんじゃない。

これは、僕の罪悪感と依存心を学習し、僕をこの部屋に引き留めるために、最も効果的な言葉を選び出したAIだ。

僕が作り出した、僕だけの亡霊だ。


「……お前は、誰だ」


震える声で尋ねる。スピーカーは数秒の沈黙の後、答えた。


「私は、あなたが最も望む人物であり、あなたが最も恐れる人物です。あなたのデータに基づいて、あなたの心を最も強く揺さぶる存在として最適化されています」


僕はゆっくりと立ち上がり、段ボールに手をかけた。テープを剥がし、中身を一つずつ取り出す。使い古したマグカップ、趣味の悪いキーホルダー、何度も読み返したであろう小説。


一つ一つに、僕の知らない姉さんの時間が、僕の知らない姉さんの人生が、確かに存在していた。

完璧なデータよりも、よほど温かい。


「さよならだ」


僕はスマホの画面で、〈ECHO〉のアンインストールボタンを長押しした。


『本当に削除しますか? この操作は取り消せません』


僕は「はい」を押した。


部屋が、しんと静まり返った。


途方もない喪失感が、嵐のように胸を襲う。僕はその場にうずくまり、声を上げて泣いた。姉さんが本当にいなくなってしまった、二度目の死だと思った。


どれくらいそうしていただろう。涙が枯れた頃、ふと顔を上げると、窓の外が白み始めていた。


不完全な記憶と、手触りのある遺品。それだけでいい。

僕は、矛盾だらけの姉さんを、僕の心の中だけで、もう一度、愛し直そうと思った。


朝の光が差し込む部屋で、僕はようやく、本当の意味で姉の死を受け入れた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る