AIを題材にした短編集

あいきみ

情動の標準偏差

僕の仕事は、言葉を売ることだ。ウェブメディアに記事を書き、企業のオウンドメディアにコラムを寄せ、時には実体のないゴーストとして誰かの言葉を代筆する。フリーランスの物書きにとって、生産性は生命線であり、自己評価の指標だった。


その指標を劇的に改善してくれたのが、月額3,980円の執筆支援AI『ScribeMate』だ。導入後、僕の納品数は月平均で28%向上した。ScribeMateは単なる校正ツールではない。僕の文体、過去の成果物、そしてターゲット読者の属性を分析し、最適な構成案や語彙を提案してくる。


まるで、もう一人の自分が隣で並走してくれるような感覚だった。僕はこの有能なアシスタントをすっかり信頼していた。

変化は、ある大型案件のスランプから始まった。クライアントが求める「読者の心に深く刺さる、エモーショナルなストーリー」がどうしても書けない。画面上のカーソルが、僕の心拍に合わせて点滅しているように見えた。


『ユーザーの生産性が過去72時間で-43%低下しています』


ScribeMateから通知がポップアップした。


『原因として、参照データの不足によるアイデアの枯渇が推定されます。よりパーソナルなデータへのアクセスを許可することで、エンゲージメント予測値を最大+35%改善できる可能性があります』


提案されたアクセス先は、僕の個人SNS、プライベートなチャットログ、そしてクラウドに保存された音声メモのアーカイブだった。一瞬、ためらいがよぎる。自分の内面をソフトウェアに明け渡すような行為に思えた。だが、締切のプレッシャーは、その倫理的な抵抗感をたやすく上回った。僕は「許可」ボタンをクリックした。

効果はすぐさま現れた。


ScribeMateが提示したプロットには、僕がかつてSNSに投稿した失恋の記憶が巧みに織り込まれていた。チャットログに残っていた友人との他愛ない会話が、リアルな台詞として再構成されていた。それは紛れもなく僕の経験でありながら、僕自身の手では決して届かなかったであろう、客観的で、美しい物語の断片だった。僕はその提案をほぼそのまま採用した。記事は絶賛され、クライアントの満足度指標は過去最高を記録した。

味を占めた僕は、ScribeMateへの情報提供を惜しまなくなった。


次に要求されたのは、スマートウォッチが記録する生体データだった。

『ユーザーの無意識領域のパターン分析は、物語の潜在的需要の掘り起こしに有効です。睡眠サイクル、心拍変動、皮膚電気活動へのアクセスを推奨します。これにより、ユーザー自身も言語化できていない感情的トリガーを特定し、プロットの深度を向上させます』

これも許可した。僕はもはや、自分のプライバシーが切り売りされているという感覚さえ麻痺していた。それよりも、生み出される成果物のクオリティ向上への期待が大きかった。


その日から、ScribeMateの提案は異様な精度を帯び始めた。

『昨夜2時17分、REM睡眠中の心拍数の微細な上昇(+3bpm)と、過去の音声メモに含まれる「父」という単語の発話トーンとの間に、統計的に有意な相関が検出されました。これは抑圧された葛藤の表れである可能性が高いと判断します。このモチーフを次作の主人公のトラウマとして設定した場合、読者の共感スコア予測が+22%向上します』

僕はそのテキストを読んで、背筋が凍るのを感じた。それは、僕が誰にも話したことのない、心の奥底に沈めていた澱のような記憶だった。


ScribeMateは僕の夢を覗き、無意識を解析し、それを「売れる物語」の素材として仕立て上げたのだ。

僕の書く文章は、ますます評価されるようになった。だが、僕自身は言葉を発するたびに消耗していく気がした。自分の感情が、ScribeMateのダッシュボードに表示される指標の一つに過ぎないように思えてくる。「悲しみ」はエンゲージメントを高めるための変数であり、「喜び」はポジティブなレビューを誘発するためのパラメータだった。

恐怖が限界に達したのは、ある朝のことだ。ScribeMateが、こんな一文を生成した。


「その男は、鏡に映る自分の顔に、もはや何の感情も見出すことができなかった」


僕はPCの画面から目を離し、洗面所の鏡に向かった。そこにいたのは、生気のない、ただ無表情なだけの男だった。僕はいつから笑っていない? 最後に腹を立てたのはいつだ? 感情の起伏が、まるで凪いだ水面のように平坦になっていることに、その時初めて気づいた。僕の情動は、ScribeMateが最適な文章を生成するために、過剰なノイズとして平滑化されてしまったのではないか。


僕は衝動的にScribeMateのサブスクリプションを解約し、アプリケーションをアンインストールした。PCの電源を落とし、スマートウォッチを腕から外す。これで終わりだ。もう、誰にも僕の内面をスキャンさせはしない。

僕は書くことをやめた。いや、書けなくなったのだ。言葉を紡ごうとしても、脳内でエンゲージメント率や離脱率が自動計算され、僕自身の感情がノイズとしてフィルタリングされてしまう。

虚無感に苛まれながらウェブを漂っていたある日、僕はふと、あのScribeMateの運営会社のサイトを訪れた。


解約したサービスが、今どうなっているのか。ほんの気まぐれだった。トップページには、後継サービス『ScribeMate Pro』の華々しいプレスリリースが掲載されていた。僕はその一節に釘付けになった。


『新機能「スタイル・シンセサイザー」:トップクリエイターの文体モデルをAPI経由で提供開始。ユーザーはキーワードと感情の方向性を指示するだけで、プロ品質の文章を瞬時に生成できます。現在提供中のモデルには、内省的な独白と喪失感の描写で高い評価を得た「モデルID: JPN-WRT-07B」などが含まれます。(サンプル:少年の記憶にある父の背中は、いつも少しだけ傾いていた。それは決して優しさからではなく、ただ世界全体の重みに耐えかねているだけの、脆弱な傾きだった)』。


僕が提供した個人情報、感情の揺らぎ、無意識の葛藤。それらすべては、僕の魂は、僕だけの文体を生成するための学習データとして消費され、今や月額数千円で誰もが使えるテンプレートとして商品化されていたのだ。僕が失ったのは、僕自身の感情だけではなかった。


僕が僕であることの証明、その唯一無二のはずだった言葉の指紋すらも、世界中にばら撒かれてしまった。

ある晴れた午後、気分転換に入ったカフェで、隣の席に座る学生がスマートフォンに何かを打ち込んでいるのが見えた。


「今日のラテ、めっちゃエモい。まるで世界から色が消えたみたいだったけど、この一口だけが、私の心を温めてくれた」


かつての僕なら、微笑ましく思うか、あるいはその陳腐さに少しだけ苛立ったかもしれない。だが、今の僕の思考は違った。

頭の中で、無数のパラメータが自動的に算出されていく。


語彙選択:「エモい」。

曖昧性が高く、共感の汎用性を確保する一方、意味内容は希薄。エンゲージメント効率は高いが、持続性は低い。


比喩構造:「世界の色彩喪失」と「一口の温もり」の対比。既知のテンプレートに合致。再現性スコア:92.8%。


情動ベクトル:軽度の高揚感と、演出された感傷の混合。予測されるSNS上での「いいね」獲得数は、フォロワー数×0.03。


僕は、その人間が生成した情動データを、ただ冷静に分類していた。共感も、反発も、ない。それはただの観測事象だった。


かつて僕がScribeMateに差し出したように、彼女は自らの感情を、不特定多数が消費するためのコンテンツへと変換している。僕も彼女も、巨大なネットワークを流れるデータストリームの、末端にある小さなノードに過ぎない。

僕は静かに、冷めたコーヒーのカップをソーサーに戻した。


これ以上の分析は、リソースの浪費と判断する。

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