日常の浸食
その日も彼女の病室を訪れていた。
「僕だよ。入ってもいいかな?」
「―――はいどうぞ」
扉をノックした後に返ってきたのは、聞きなじみのある看護師さんの声だった。
「毎日精が出ますね。
ほら彼氏さんが今日も来てくれましたよ」
「……おはようございます。
今日もありがとうございます」
看護師さんに肩を叩かれる形で彼女は僕に視線を向けた。
彼女の膝にはノートが置かれており、どうやら看護師さんにサポートして貰いながら読んでいたようだ。
チラリと見える表紙の色味からして、いつぞやのエンディングノートのようだ。
「いいんだよ。僕も来たくて来てるんだから」
「彼氏さんも来たので、お邪魔虫は退散しますね」
「もう、ミカさんったら」
彼女はからかわれて恥ずかしそうに顔を俯かせた。
珍しい反応だなと思いつつ、年齢の近い看護師ミカさんとはまるで友人のように接しており、僕とはまた違った距離感なのだろう。
彼女が病気を明かせるような同性の友人がいれば、彼女の価値観を変えれたのかもしれない―――そう思わずにはいられなかった。
だがいつか裏切るかもしれない相手を作るのは彼女の矜持に反するのだろう。
信用出来るのは、それが仕事である看護師か。
もしくは利害関係で繋がった小説家だけだった。
「続きは彼氏さんに読んで貰います?」
「ダメです。これは彼には秘密の内容なんですから。
話したらダメですよ?」
「もう、そんなに恥ずかしがらなくてもいいのに」
「あまり言うと偶にここをサボりに使っていることをバラしますよ?」
「あぁもうわかったから!!先生にだけはバラさないで!!」
気安い関係。本当に彼女は僕と違いコミュニケーション能力が高かった。
ミカさんはノートを閉じると「いつもの場所でいいの?」と確認を取り、彼女の枕の下へとノートを差し込んだ。
「しまう場所、そこでいいの?
ノートが潰れない?」
「いいんです。ほら夢枕ってあるじゃないですか
こうして眠ると幸せな夢を見れる気がするんです」
「幸せな夢ねぇ……」
ノートに書かれている内容がわからないが、夢にまで見たいことが書かれているのだろうか。
内容が気にならないといえば嘘になる。
だが彼女きってのお願いな為今は聞くわけにはいかない。
何より彼女が良いと言えば見せてくれることになっている。
こんなところでネタバレをして彼女の願いを踏みにじるのは本位ではない。
「今日この前話していた物を持ってきたんだ」
「この前の……世界一周車イスの旅についてでしたっけ?」
「違うよ‼しかも規模がデカくなっているし」
あれれ、そうでしたっけ?とワザとらしく笑う彼女。
このままペースを握られてしまうと話が脱線してしまう。
真夏のこの時期、彼女を外に連れ出せる時間も限られているのだ。
早目に要件を切り出した。
「この前言っていたお花を植えたいって話」
「……あぁ、そういえばそんな話をしていましたね」
「忘れてた?割と思いつきだったの?」
「あれから色々ありましたからね。
ただお花を植えたいのは本当ですよ」
「それならよかった……」
僕だけ先走ったのなら恥ずかしかったのだが……。
「まずはこれ。お花の植え方について書かれている本。
よくわからないから、一番写真の多いやつにしたよ」
「選ぶ基準が先輩らしいですね。
ただ私も文字を見るより写真の方が見やすいので嬉しいです」
「それから植え替え用の花と土も買って来たんだ。
……ミカさん、今から連れ出しても」
「はい、検査も済んでますので大丈夫ですよ」
そういうと車イスをベッド傍まで寄せた。
そしてミカさんが彼女の脇を抱え、僕はサポートするように足を持つ。
「日が強くなる前には戻ってきてくださいね」
「はい、わかりました」
すでに夏の日差しは高く照っている。
残り時間は少ないようだ。
「これ……実は病院でやる意味なかったんじゃないかな?」
僕は土を鉢に移しながら嘆いた。
久しぶりに触る土の感触は、慣れない所為か少しだけ不快だった。
彼女はと言うと、車イスに乗ったまま木陰で僕の作業を眺めている。
それもそのはず、車イスから降りられない彼女は作業を手伝うことも出来なければ、パジャマを汚すわけにもいかないからだ。
結果、植え替え作業は僕一人で行うことになってしまった。
これなら移し替えたものを運んだ方がよかったのではないだろうか?
「そんなことはありませんよ。私は言わば現場監督。
下っ端の先輩がちゃんと働いているか監視する役目がありますので。
というわけで文句を言わずにキビキビ働いてください」
そういうと持っていたお花の図鑑を手で叩きながら、威嚇っぽい仕草をしていた。
もしかしたらパワハラとして労組に訴えられるのではないだろうか?
作業はおよそ1時間ほどで完了した。
とはいっても土を入れて、小さなプラスチックの鉢から、少し大きな陶器の鉢へ移し替えるだけの簡単な作業。
彼女のイチャモンが無ければもう少し早く終わっていたと自負がある。
目の前には3つの花が植えられている。
1つは青いアサガオ。僕でも知っている花。
2つ目は濃い紫の花。3つ目は一回り小さなピンク色の花だった。
「こっちの紫色の花はペチュニアですね。
確かお母さんが植えていたはずです」
かつて幸せだった家庭の庭を思い出した。
そう言えば彼女のお母さんはお庭の手入れが好きだった。
それもあって花を育てたいと言い出したのだろう。
「もう一つに関しては見覚えがありませんね。
というわけで、これで調べてくださいな」
「……わかったよ」
僕は彼女の膝の上に図鑑を広げると、夏の花のページを1枚ずつ捲った。
中盤に差し掛かったあたりで写真を見比べる。
「ニチニチソウだってさ。
名前通り、毎日次々と花が咲くらしいよ」
「何だか毎日忙しそうですね。
ですが沢山咲いてくれるのは楽しみです」
アサガオ、ペチュニア、ニチニチソウ。
偶々ホームセンターで目に入った花たち。
きっと彼女の夢を叶えるという名目がなければ僕は名前を知ることはなかっただろう。
「この中なら……私はアサガオが一番好きですね」
「それはどうして?」
「好みに理由も何もありませんよ。
強いて小説っぽく理屈を考えるなら……なんだか私に似てるくせに、毎朝ケロっとした顔で花を咲かせるのは凄いと思います」
「そうだね……僕も本当に凄いと思う」
彼女の顔を見て言った。
彼女がどんな心境で夜を過ごしているのかは想像に難くない。
それなのに毎朝僕が見る時の彼女の表情は、いつもにこやかだ。
これほどの境遇なのに、折れずに腐らず咲き続ける彼女を―――僕は尊敬していた。
「それじゃあ無事に植えたことですし……先輩、今後とも管理に勤しむように」
「……わかっていたけど僕しか世話しないといけないよね」
毎日の水やり。あと肥料とかもやる必要があるのだろう。
当然それらは彼女には出来ない。
元より毎日彼女の元に訪れるのだ。
水をやり忘れるようなことはないだろう。
「当然ですよ。
なんといっても私と先輩の愛の結晶なのですから」
「―――君がそういう表現をするのは珍しいね」
「……本気にしました?冗談ですよ」
彼女はニシシっといつものように嫌味な笑みを浮かべる。
いつものことながら僕は頭を掻いた。
本気に出来たらそれほど救われることか。
だが僕らの関係が、彼女の信念がそれを許してはくれない。
「ただこの花たちを私は我が子のように思っていますよ。
名前だって付けています。アサちゃん、せっちゃん、ニッチー」
「途中までそれっぽかったのに、ニッチーって……」
「先輩はこの子の種を取り続けて、子孫を絶やすことなく育て続けてくださいね」
「なにそのお願い!!一生ものだよね!?
僕の一生、3子育てるのに費やされるの!!
あと素人が種とか取れるの?」
「知りませんよ、そんなこと」
「思いつきで人生決められる僕の身にもなってくれよ」
ただ彼女との唯一の思い出ということであれば、存外悪くない計画なのかもしれない。
彼女がこの世界にいたという証を残すことが出来るのだとしたら―――
それからも僕は毎日病院に通った。
雨にも負けず、風にも負けず……というわけではないが、毎年の異常気象による炎天下ぐらいには負けずに通い続けた。
ある日、彼女と短編の映画をスマホで見た。
ド派手なアクションと伏線の張られた綿密なストーリーに僕らは心を沸かせた。
その夜、彼女の足は完全に動かなくなった。
ある日、ラーメンを食べたいと駄々を捏ねる彼女の為にラーメンを―――持ち込むわけにはいかなかったので、有名店の味を再現したお菓子を渡した。
ただし実物を食べたかった彼女には不評で、リベンジを宣言させられた。
翌日からあれほど少ないと言っていた病院食を残すようになった。
ある日彼女と旅行雑誌でエア旅行を決行した。
讃岐でうどんを食べたいとか、美術館で有名な絵画のレプリカを見たいとか。
元々計画していたようで彼女は喜々として語ってくれた。
―――その日を境に彼女は僕と“実際に旅行に行ったこと”として思い出を語り始めた。
どうやら脳の障害により記憶の混濁が起こっているようだ。
僕は否定することは出来ずただ頷いた。
その間も彼女と植えた花々は咲き誇っていた。
だがアサガオだけが枯れてしまった。
彼女に枯れた鉢を見せると、首を傾げて―――そこに何が咲いていたのか思い出せないでいた。
思い出がひとつ、またひとつと彼女の中から零れ落ちていく。
代わりに記憶違いが増えていった。
彼女が入院して数週間が経過した頃だった。
その日がやってきた―――
「……どちらさまでしょうか?」
彼女は入室した僕を小首を傾げながら出迎えた。
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