ベター・ターム 2

 わざわざ早起きをしてまで、それも放っておいても自分は特別困らないような話を伝えてくれたとうには申し訳が立たない限りだけれど、僕はあいつに言って10分ほど教室に一人にしてもらった。

 このままの精神状態で話を聞いても、事がいいように運ぶと思えなかったからだ。

 思考を可能なだけ研ぎ澄まして、現状の理解に努める。

「………………」

 そうは言っても与えられた情報は少ない。何を考えても可能性の域を出ないだろう。また、可能性を洗い出す時間的猶予も存在しない。

 行うべき現状の把握が不可能だと結論づける。なら、代替案を早々に検討すべきだ。

 ならば、今行うべきは。

 ——僕自身の感情の整理。

 そこに考えが至った僕は、そのまま机に突っ伏した。

 感情の整理が置かれた状況に追いつかないとき、僕は決まって仮眠をとる。別に、本当に寝れなくたっていい。

 身体を楽にして、頭を何かに委ねて、そして周囲に対する警戒をやめる。

 するとそれまで考えていた全部が、まどろみと一緒になって混ざっていく。

 それしかないと思っていた事象が、実は選択肢の一つに過ぎなかったと気づいてbいく。

 そうして、自分の感情がある程度の理性を取り戻したと思えるようになった時に、改めて悩み始める。こうすることで視野を狭めないでいることができるのだ。

 思考を停止して少し机に寝そべっていると、不意に教室の後ろ扉が開く音が響いた。僕は慌てて最低限の身なりを整える。

「うーっす、しょう。どうだ? ちっとは落ち着いたか?」

 声の主は、果たして加藤だった。どうやら例の10分が過ぎたらしい。

「ああ、お陰で」

 受け答えをしながら、両手を頭の上に組んで伸びをする。

 まだ少し頭がぼんやりとするが、なんとかいつも通りの会話はできそうだ。 

「そりゃ良かった」

 そうとだけ言うと加藤は突然、左手に提げていたコンビニのレジ袋からFチキを取り出して僕の机に置いた。買ってきてくれたのだろうか。

「…………」

 無言で加藤に視線を送ると、すでに奴は一心不乱に自分のFチキにかぶりついているところだった。もしかしたら、朝食すら抜いてきたのかもしれない。そう思うと、胸が苦しくなった。

「いくらだった?」

 そんな罪悪感を拭い去りたい一心で、加藤に声をかける。

 加藤はFチキを頬張りながらこっちを見ると、親指と人差し指でマルを作ってみせた。

「100円、ってことか? 確か、もうちょい高かっただろ?」

 僕が疑いの目を向けると、加藤は驚いたように首を横に振った。

「ん。ほっほはっへ。ひまほひほふ」

 多分今のは「ちょっと待って。今飲み込む」と言いたかったのだろう。

「わかった。わかったから、落ち着いて飲み込めよ」

「ふん。ははっへふ」

 はふはふと息をこぼしながらFチキを頬張る加藤を尻目に、僕は自分の水筒のキャップ部分に麦茶を注いで加藤の前の机に置いてやる。朝の早い時間ならまだ冷たいはずだ。

 すると、ようやくFチキを食べ終えたらしい加藤が、無邪気な目を向けてくる。

「おっ、サンキュ」

 どうぞ、という意味を込めこくりと頷いてやると、加藤は喉を鳴らして麦茶を飲んだ。相当喉が渇いていたような様子を見せる加藤に、また罪悪感が刺激された。

「は〜生き返った。マジにあんがとな」

「いや、別に大したことじゃ……」

 そう言いつつも、僕の心中は言いようのない歯痒さに襲われる。それから逃れようと、特に意味のない言葉を続けた。

「そもそもこれ粗茶だしさ、Fチキに比べたら本当些細っていうか」

「ん? もしかしてだけど、お前このFチキの代金気にしてんのか?」

「……………………ああ」

 図星を突かれた。おかげでうまく声が出ない。

 黙りこむ僕に加藤は小さく何かを呟いたかと思うと、あっけらかんとして話し出した。

「こいつらの代金なら、気にしなくていいぜ。どーせタダだし」

「いや、そんなわけには……え? タダ?」

 咄嗟に言い返そうとする僕だったが、予想外の情報の侵入で困惑が思考をかき乱した。

 なおもこともなげに、加藤は続ける。

「なんか姉貴さ、仕事場の先輩に無料券もらったらしくてよ。でもただいま絶賛成果の上がらないダイエット中の姉貴には目の毒らしくてさ。そんなんだから、土曜に実家に帰ってきた時に俺にくれたんよ」

「……………………」

 加藤は淡々と語っているが、多分これは嘘だ。

 そんな情報があったら二週間連続で僕をスイパラに連行した挙句、5キロ強太らせた彼女が黙ってはいまい。本当にきつかった。途中から感覚が麻痺して、ショートケーキが低カロリーに見え出したくらいだった。あんな地獄はもう勘弁だが、そんな彼女からも何の音沙汰もなく、昨日時点ではFマートの公式アプリ、Fペイにもそんな情報は出回っていなかった。

「んでも、俺ん家の周りにもFマートあんまりないから、学校周辺で使うかって思ってさ。ま、俺も罪悪感を分かち合える盟友が居てくれたことに感謝してるよ。そんな訳で、おいしく頂いてくれや。俺の金じゃねえけど」

 Fチキ2個だってそれなりの出費だろうに。こんな嫌味な言い方をしてまで落ち込んでいる僕の負担になるまいと、ヒールを買ってくれて。

「……お前、マジでいいやつだな」

 僕は今まで、こんだけ「イケメン」って言葉が似合う人間を見たことねえよ。

少しくぐもった声で、心からの感謝を加藤に伝える。

 すると加藤は少しだけ驚いた顔をした後に、ニカッと笑って冗談めいて言った。

「いいってことよ。んな事より、冷める前に食えよな。冷めちまうともったいねえぜ」

「ああ、ありがたく」

 僕は少しだけ油の染みた紙袋をゆっくりと破いた。

意味は知っていても、理解するのが難しい言葉の一つ。

「いただきます」

 僕は、やっと理解した。

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