第20話

 鍵を回せば、ガチャリと小気味の良い音が聞こえる。

 いつもより軽く感じるドアは、プレゼンから解放された俺の気持ちを代弁しているかのようだった。


「ただいま」


 パチッと間接照明が点いて、俺の帰りを迎えてくれる。

 つい最近まではこのまま顔を洗ってワイシャツを洗濯、さっさと部屋着に着替えてソファでだらだらする生活だったのに。


「おかえりなさい、今日のMVP」


 今はこうやって顔のいい同僚が迎えてくれるようになった。

 「ただいま」に「おかえり」が返ってくるだけで安心するのだから、人間の心なんてわからないものだ。


「それを言うなら鳴宮もMVPだろ?」


「私があなたの伴侶だからってこと!?きゃー!」


「どう聞いたらこの文脈でその発想が出てくるんだ、プレゼン一緒にしたからだって」


 差し出された手に鞄を預ける。いつものこと……これが「いつものこと」となっている現実に目が眩む。


「まぁ冗談は置いておいて」


「良かった冗談だったか」


「そのうるさい口、塞ぐわよ」


 そう言いながら、じりじりと俺との距離を詰めてくる鳴宮。

 一体何で塞ごうというんだ。


「すっとぼけても無駄よ、唇に決まってるじゃない」


「俺何も言ってない」


「あら、私には『ひなの唇になら塞がれて光栄だよ』って聞こえたわよ」


「怖い怖い、幻聴だ!どうする?今からでも病院行くか?」


「そしたら保険証で私が『藍野』姓になったことがわかるからありかもね!」


 テンションがうなぎ登りの鳴宮を宥めて、なんとかリビングへ押し込む。おかしい、今までのやり取り全部玄関でやってたなんて。


 さっさと着替えて俺もリビングへ。

 鼻を刺激するのは肉の焼ける香ばしい匂い。ぐつぐつぽこぽこと温泉が沸いたかのような音。


「お、もしかして」


 期待を込めてキッチンを覗く。

 フライパンに並べられた肉だねたちが濃厚なとろりとした液体の中で浮いたり沈んだり。


 どうして玉ねぎを熱した香りってここまで芳醇なのか。

 煮込みハンバーグ……!一人暮らしなら家で食べることは叶わないご馳走だ。


 そこに差し込まれるぴ〜っという炊飯器の間抜けな音。


 鳴宮は仕事の時のみならず、家事においても時間管理が完璧らしい。

 ただ、家事を労働だとみなすならば、夫婦は二人で分かち合うべきだと思うのだ。


「すまん、全部やらせてしまったな」


 お箸をカチャカチャと取り出しながら彼女は振り向く。

 高い位置でまとめられた髪かふわっと舞った。


「ん、いいのよ。好きでやってるんだから。今度はあなたの作るご飯も食べさせてね?」


 あぁ多分、世にごまんといる夫婦が幸せを感じるのってこんな時なんだろう。

 胸に流れ込んでこんでくる充足感。もはや多すぎて溢れてしまいそうだ。


 時間がゆっくり過ぎていく感覚。


 「付き合う」というステップを飛び越えたからだろうか、それとも自分の感情にいつの間にか蓋をしていたからだろうか。

 ここには自分の帰る場所がある、そんな単純なことがこんなにも嬉しい。


 異動前に残してきた俺の後悔たちを彼女が昇華してくれたから?

 彼女の周りにいるハイスペックな男性たちを差し置いて、自分という悪友を選んでくれたから?

 そんな小さな理由であってたまるか。


 俺の目を見て話してくれる、悪巧みを共有してくれる、少し強引にでも手を引いて未来へ連れ出してくれる。

 だから俺は。


 結局、何が彼女のお眼鏡に適ったのかは依然わからぬまま……きっと俺が話しやすいとか、元企画課で仕事に理解があるとか、彼女に恋愛感情を抱いていなかった・・・・・からとか、そんな理由だろう。


 だとしたら裏切ってしまって申し訳ない。

 こんなにもこの家を、この家庭を、この関係を守りたいと思ってしまう。


 自分より優秀な妻がもし何か失敗した時も、気を落としてしまったとしても、世界のすべてを敵に回したとしても、あぁ不甲斐ないとしても自分だけは彼女の隣にいよう。


 ほんの刹那に起きた気持ちの変化を悟らせまいと、頬の筋肉に力を入れた。

 知ってか知らずか、鳴宮は嬉しそうに冷蔵庫を開けて俺を手招きする。


「ねぇ見て!ケーキ買ってきたの!私たちだけでお疲れ様会しちゃおうよ!」


 真っ白な小箱には、きっと甘さだけじゃなくて幸せも詰まっているんだろう。

 誰かにケーキを贈るということは、その行為そのものが砂糖菓子のように甘い。


「俺たちだけで、な」


「うんうん。これは家族の時間だから、誰にも邪魔されないようにね?あ、ご飯炊けたんだった。藍野くん食器持ってって〜!」


 ぽんぽんと皿やらお箸やらを手に乗せられていく。

 甘い空気はやや残ったまま。


 やがて食卓に並ぶご飯たち。疲れた身体には美味しいものが一番効く。


 こぽこぽと黄金色の液体がグラスを満たす。

 なんと今日はビールまで許されるらしい。これなら毎日でもプレゼンしてやろうかな……いや、やっぱなしだ。

 こういうのは偶にだからありがたみがわかるんだ、うん。


「今日もお疲れ様、藍野くん」


「ありがとう。鳴宮もお疲れ様、ありがとな」


「んふ、頑張った人間にはご褒美があるのよ」


「それならお前にもないとおかしいだろ」


「私はもうご褒美もらったもの」


 はて、特に俺から彼女に何かを渡した覚えはないけど。


「わかんなくていいのよ。これは私が、私だけがわかってればいいの」


「でも夫婦は嬉しいことも悲しいことも分かち会うべきだろ?」


 少し前の自分なら天地がひっくり返っても口にしなかった言葉。


 向かいに座る鳴宮が目を見開く。

 あぁそうか、俺はすんなりと自分の気持ちを自分のものにしていたが、彼女からすれば突然口説きだしたやばいやつに映るのか。


 グラスの泡はまだ健在だ。


「遂に藍野くんにも自覚が出てきたようね」


 上機嫌にそう言うと、陶器のようなすべすべで真っ白い指は艶やかに自分のグラスを掴んで、缶と同時に傾ける。

 綺麗な7:3、ビールの黄金比だ。


 そういえばいつか鳴宮に「馬鹿にしてる3割、呆れ7割」とか言われたっけ……あれ、逆だったか?


「それにしても後は沙汰次第ね〜」


 プレゼンの話だろう。

 俺としては、また鳴宮と企画を練って、それをプレゼンでぶちまけられただけで満足、もといお腹いっぱいなんだが。


「どうせあの案が通ろうと通らなかろうと、いつか二人で仕事することもあるでしょうし!」


「俺たちが揃う時って、企画課の人手が足らないってことだから地獄じゃねぇか」


 ぱちぱちと弾けた二酸化炭素が、グラスを持つ手を濡らす。


「どうせ地獄にいくなら二人で行きましょうよ。一緒ならきっととびっきり楽しいわ」


 何のことはない、俺たちは今まで背中を預けあって地獄を悠々と闊歩してきたのだから。


「あぁそうだな。きっとひなとなら」


 だからいつか渡す婚約指輪には、とっておきの言葉を添えよう。


 たとえこれが偽装だとしても。


 穏やかな光に包まれた食卓に、グラスが軽く重なる澄んだ音が響いた。














◎◎◎

潜在的な感情を自覚する瞬間は、いつだって美しい。


こんにちは、七転です。

この作品の投稿を初めてから一週間と少し、たくさんの人に見てもらえて幸せです。


世に溢れたわくわくする小説もいいですが、私は決まりきったゴールに丁寧に、鮮やかに、そして綺麗に向かう小説も好きです。



まだまだ書きたいシーンがたくさんあります。

ストックなんて全部吐いちゃったけど、できる限り毎日更新するので、引き続きよろしくお願いします!

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