第4話
『どうせ残ってるでしょ?』
そんなチャットが来たのは、時計の短針が9を指した頃だった。
プライベート用ではなく社内チャットを使っているところから察するに、鳴宮も残っているのだろう。
そういえば昼間にナンパされていた時も、今日残るって言ってたっけ。
『不本意ながらな』
『とか言っちゃって〜!一度企画課にいた人間はこの残業地獄からは逃れられないのよ』
なんだその嫌すぎるジンクスは。
『フリースペース来れる?』
『えー……』
積み上がった書類の山。そりゃ今日で全部捌けないのはわかっているけど手を付けたい気持ちもあるんだが。
『来ないと私の指が滑って企画課のグルチャに結婚報告しちゃうかも』
『その手には乗らん』
数十秒後、送られてきたのは企画課グループチャットのスクショ。
おい、あと送信ボタン押したら頭の悪そうな結婚報告が流れるじゃねぇか。
『やめてくれよ』
『愛しの旦那様と喧嘩したい訳じゃないから、あなたの嫌がることはしないけれど。どうしてもって時には、ね?』
『誰が愛しの旦那様だ、誰が』
既読はつかない。
大方俺が諦めたと予想してあいつ
まぁPCだけで仕事ができないこともないから行くけども。
自分の行動が先読みされているのはどこか腹立たしい。照れくささが同居してるのは、言わない約束だ。
鳴宮は相手が俺じゃなくても先読みできるんだろうか、なんてちょっと繊細ぶりながら廊下を歩く。
やっぱり一人で残るとろくなことがない
エレベーターに足を踏み入れる。
いつもは知り合いに会う鉄の箱も、21時を過ぎれば静かなもので。
フリースペースにたどり着くと人影は一つ。言わずもがな鳴宮だ。
「ほら来たぞ」
「いらっしゃい、無理してない?」
既に本腰を入れて仕事をしているのか、机にはいくつかの資料が広げられている。
「仕事ではな」
「あら、含みがある言い方じゃない。こんなナンパされるほどかわいいかわいい妻の頼みだってのに〜」
何が嬉しいのか彼女は相好を崩す。
企画課にいた時はよくこの笑顔を見た気がするが、最近はすっかりご無沙汰だな。
「はいはい、それで深夜にこんなとこに呼びつけて何かあったか?」
「ん〜〜〜、お昼のお礼を言いたかったの」
あぁ、請求書の。
「全然いいのに。夫婦なことをバラされるよりは遥かにマシだからな」
「それと比べられるの、嬉しくないわね」
お前だろうが、最初からジョーカーを切ったのは。
「考えてみ?バレたらバレたでお前も大変だぞ。なんで『藍野なんだ』って」
「んふ、そんなの何時間でも語れるわよ。プレゼン資料でも作っておこうかしら」
キャスター付きの椅子を滑らせて、鳴宮は身体をこちらに寄せる。
だめだ、これじゃあ
頬に熱が集まるのを感じる。まったく……素直な妻には勝てる気がしない。これはあくまで偽装だってことを忘れそうになる。
「それに時間を使うくらいなら企画でも考えてくれよ、エースさん」
手をひらひらと振って、俺もPCと向かい合う。もちろん椅子を少し彼女から離すことも忘れない。
少しの間、キーボードを叩く音だけが部屋に響く。
あれ、これなら経理部屋で黙々と仕事しているのと変わらないのでは?と思い始めた頃、隣から缶コーヒーが滑ってくる。
「これは?」
真っ黒なラベルのそれを手に取って、鳴宮の方へ視線を投げる。
「……買いすぎちゃったから」
そんな訳あるか。どこの誰が自販機で間違えて普段飲まないブラックコーヒーを買うんだよ。
「ありがとうな、わざわざ」
「だ、だから偶然買いすぎちゃっただけだって」
さっきまでとは違って目線は合わない。
これこそが鳴宮の魅力だ。
うちの会社の人間はまったくわかっていない。美人だとかノリがいいとか仕事ができるとか、彼女の魅力の小さな一部にすぎないのに。
俺の頬の熱が移ったかのように、彼女の耳は赤い。
「こうやって二人で仕事してると昔を思い出すよな」
話しながらもマウスを動かす手は止めない。終電なんて真っ平ごめんだ。
「あなたが企画課を裏切る前ね」
「人聞きの悪い……人事は仕方ないだろ。俺はお前みたいにクリエイティブな人間じゃなかったんだよ」
あぁ懐かしい。当時は若かったから、鳴宮の才能に嫉妬してたっけ。
だから恋愛対象じゃないんだよな。どちらかと言えば超えるべき壁というか。
今はどうだ。何をどう転がしたらそうなるのか、夫婦になってしまった。
新婚って雰囲気でもないのが笑えるところだが。
「今でも『あなたがいれば』って場面、多いわよ。企画課には」
「お世辞でも嬉しいな」
「もう〜!どうして言葉を素直に受け取れないかな〜この人は!」
足をバタバタと動かす鳴宮。子どもか。
幼くなった彼女をなんとか宥めながら、システムに乗った見積書や請求書を確認していく。
◆ ◇ ◆ ◇
PCの右下を見れば、いつの間にかいい時間。いや、ここに来た時点で相当な時間だったが。
「そろそろ帰るか〜」
「そうね。あ、企画課にいた時は駅までだったけど、今なら最後まで一緒じゃない」
今思い出したかのように彼女は言う。幸か不幸か、寝る直前まで一緒だな。
「それで、どうしてこんな遅くにフリースペースに呼んだんだよ」
もう一度聞く。まさか本当にお礼を言うためじゃないだろう。
彼女の耳は再びじわじわと色を取り戻す。
キーボードを叩く音も今は聞こえない。
「『一緒に帰りたかった』じゃだめかしら?」
俯きながら発せられた言葉は、俺の胸を貫くには十分な鋭さを持っていた。
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