第35話 氷結地獄
轟音と共に、火山の斜面から魔物が姿を現した。
全身を炎に包み、岩の甲殻を纏った巨獣。体高は五メートルを優に超え、灼熱の吐息で周囲の空気を揺らす。
銃を撃ち込む兵士たちの列は、熱気に押し返されるようにじりじりと後退し、秩序が崩壊しかけていた。
「だ、駄目です! 弾が……効いていない!」
悲鳴が飛ぶ。
巨獣の一歩ごとに地面が赤く焼け、避難キャンプのテントが炙られて焦げ落ちていく。
このままではここにいる数百人が熱で焼かれるのは明らかだった。
「桐嶋!」
課長・高村の声が鋭く響いた。
莉理香は迷わず前へ出た。
胸奥の竜核が脈動し、背骨を這うような熱が身体を駆け抜ける。
両目を細め、彼女は掌をゆっくりと掲げた。
(……運動を、止める。熱を奪って、上へ逃がす……)
深く息を吸い込む。
次の瞬間――
――ひやり。
掌の前に広がる空気が凍りついたように澄み渡り、霜が地面を這う。
目には見えない「風の導管」が天へ伸び、奪われた熱を一直線に押し上げていく。
キャンプ全体の空気は一気に冷え、兵士も避難民も、皆が思わず吐息を白くした。
「な、なんだ……冷気だ!」
「彼女から……!」
驚愕の声が上がる。
視界に映るのは、莉理香の掌から放たれた冷気の奔流――そうとしか思えなかった。
灼熱の巨獣が踏み出そうとした瞬間、その全身を白い霜が覆う。
燃え盛る炎はしゅうしゅうと音を立てて消え、岩殻は凍結によりぱきぱきとひび割れていく。
「……今だ!」
救護課の仲間が叫び、銃火器を構えた現地兵が一斉に引き金を引いた。
先ほどまでは弾かれていた弾丸が、いまは違う。
脆くなった甲殻を次々と貫き、巨獣は耳をつんざく咆哮を上げて崩れ落ちた。
辺りに広がるのは、氷の匂いと沈黙。
火山の轟きすら遠くに霞むほど、空気は冷え切っていた。
その場にいた誰もが、言葉を失っていた。
魔物を仕留めたのは銃弾かもしれない。
だが、それを可能にしたのは――たった一人の人間から放たれた冷気だった。
「……い、今のは……」
「精霊術、なのか……?」
現地兵士たちの囁きが広がる。
だが答えられる者はいなかった。
ただ、掌をそっと下ろした莉理香の姿が、白い吐息に包まれているだけ。
その瞬間、遠隔で状況を見守っていた配信リスナーのコメントが流れた。
《なにこれ……リアルでブリザード魔法!?》
《いや待て、今の温度変化やばくない?》
《銃が効いたのは彼女が凍らせたからだよね……》
《英雄爆誕の瞬間を見てるんだが》
胸奥でラギルが低く笑う。
『フフ……よくやったな、莉理香。運動を奪い、天へ逃がす。理にかなった“冷の息”だ。――まるで竜の吐息よ』
その言葉に、莉理香の背筋がぞくりと震えた。
だが顔に浮かんだのは、ほんのりとした笑み。
周囲から見れば、救護員がただ無邪気に成果を喜んでいるようにしか見えない。
「大丈夫です。……もう、前へは来させません」
その声は柔らかく、それでいて確信に満ちていた。
能天気に見える少女の背後に潜む竜の力――誰もまだ、その深淵を知らない。
巨獣が倒れ、ただ冷たい空気だけが漂う。
地面には白い霜が広がり、さきほどまで炎に炙られていたテントは、今や冷気の帳に守られていた。
最初に声を上げたのは、避難民の母親だった。
腕に火傷を負った幼子を抱きしめながら、涙声で叫ぶ。
「……涼しい……息ができる……!」
その一言が合図となったかのように、周囲から感嘆の声が溢れ出した。
「煙が薄くなった……!」
「熱が引いたぞ!」
負傷者の呻き声の中に、歓喜と安堵の響きが混ざり合っていく。
現地医師は手袋を外し、驚きで震える両手を胸の前で組み合わせた。
「……この冷気があれば……避難所の中だけでも、火山ガスと瘴気を抑え込める……! まさか、こんなことが可能だとは」
涙ぐみながら呟く医師に、救護課の三浦が短く頷く。
「だから連れてきたのよ。彼女は災害救護の切り札だから」
その言葉に、周囲の兵士や避難民が改めて莉理香の姿を見る。
冷気の中心で佇む少女は、ただ困ったように笑い、肩をすくめていた。
「私……ただ、やれることをやってるだけなんです……よ?」
本心だった。
自分の力が多くの命を救えることは自覚している。
ただ必死に――守りたい一心で力を放っているだけなのだ。
だが、全員が希望に包まれていたわけではない。
キャンプの外れ、現地治安当局の幹部たちは重苦しい表情で囁き合っていた。
「見たか……。ただの魔物退治ではない。環境そのものを変えてしまった」
「災害を抑える存在……だが、逆に考えると災害そのものに等しい」
冷気に包まれたテント群を遠巻きに見つめる彼らの背筋を、冷たい汗が伝う。
もしあの”怪物”がその気になれば、街ごと氷漬けにされる未来が簡単に想像できてしまうからだ。
「……あれは、異常だ」
「いや――救世主だと人々は叫んでいる。扱いを誤れば、我々の国自体が揺らぐ」
矛盾する二つの評価。
恐怖と希望が同じ姿に重なり、誰も正しい答えを出せずにいた。
一方その頃、配信のコメント欄は騒然としていた。
《あれ?精霊術師だったっけ?》
《いやいや、ちょっと見ないうちにどんどんおかしなことになってるぞ》
《あの冷気の広がり方、完全に災害級じゃん》
《でも実際に人助けはしてるんだよなぁ……それならヒーローじゃん》
《怪物か救世主か……リアルタイムで議論されてるの草》
画面越しに見守る無数の目が、同時に震えていた。
驚愕と恐怖、そして賞賛と期待――そのすべてが渦を巻いていた。
その中心にいる莉理香は、疲れたように結界の中へ腰を下ろす。
掌にはまだ冷気の余韻が残り、吐く息は白く揺れている。
それでも彼女の顔には、穏やかな笑みが浮かんでいた。
「……大丈夫。これなら、少しは火山の熱も和らげられる。みんな、ここで休めるよ」
無邪気に、柔らかく。
その声はたしかに、絶望に沈む人々を救う光だった。
***
一息ついたところで、再び地鳴りが響いた。
避難所の背後にそびえる火山の斜面が再び大きく裂け、灼熱と黒煙の奥から異形が這い出してくる。
――その数は一体、二体ではなかった。
獣型、爬虫類型、昆虫型。大小さまざまな魔物が黒い奔流となり、崩れ落ちる斜面をそのまま滑り降りてくる。
「う、嘘だろ……! 数が多すぎる!」
「キャンプに直行してくるぞ!」
現地兵士たちは青ざめ、銃を乱射する。だが弾丸はあまりにも足りない。
数の暴力は防ぎきれず、前線は音を立てて崩壊しかけていた。
その時――
「……下がってください、ここは私がまとめてやります」
救護課の列から莉理香が一歩進み出た。
凛とした声に仲間たちが息を呑む。
いつもは能天気に笑い、冗談を言う彼女が、この時ばかりは迷いを消した顔をしていた。
胸奥で竜核が脈動する。
ラギルの低い声が、少し心配そうに響いた。
『莉理香よ……本当に群れごと凍らせる気か?』
(ええ。……ここで止めないと、みんなが死ぬ!)
莉理香は両腕を大きく広げ、掌を重ねるように前へ突き出した。
空気の振動が急速に収束し、周囲の熱が吸い取られていく。
次の瞬間――
――ごう、と音を立てて広がる白銀の奔流。
凍気の渦が火山斜面を舐め、魔物の群れを一瞬で覆った。
先頭を走っていた獣型の魔物は、一歩を踏み出した瞬間に氷像と化し、次の瞬間には粉砕されて砕け散る。
爬虫類型は氷漬けの彫像となり、昆虫型は羽ばたきごと凍り固まり、雪のように地に落ちた。
十秒足らず。
数百の魔物が、一斉にその活動を止めた。
――それは神話に語られる“
「な……なんだ、あれは……」
「一瞬で……群れが……!」
兵士たちの声は驚愕で震える。
視界の先に広がるのは、白銀の荒野。
つい先ほどまで魔物で埋め尽くされていた場所には、砕けた氷像と霜の山しか残っていなかった。
「今のうちに! 残りを押さえてください!」
莉理香は息を軽く整えながらも、きっぱりと声を張った。
現地兵が慌てて突撃し、凍気の波を逃れた少数の魔物を掃討していく。
圧倒的な冷気の一撃は、確かに流れを変えていた。
だが――その光景を配信で見ていたリスナーの反応は、もはや阿鼻叫喚だった。
《ちょ、待って待って待って!!》
《さっきの範囲攻撃の比じゃないんだが!?》
《精霊術師だったっけ?→いやいや、これもう精霊術師の領域じゃねえよ》
《マップ兵器か?》
《えぐすぎて声出た……》
コメント欄は滝のように流れ、悲鳴と賞賛と混乱が入り乱れる。
視聴者でさえ、何を見せられているのか理解が追いついていなかった。
一方で、現地の治安当局幹部たちは顔を引きつらせていた。
「……一瞬で数百体を……」
「こんなの、人間の力じゃない……」
人々は「救世主だ」と歓喜し、避難民は涙ながらに手を合わせる。
だが同時に、幹部たちの心には別の声が渦巻いていた。
「……あれを敵に回したら、対処できないぞ」
希望と恐怖が、同じ姿に重なっていく。
冷気に守られた避難所で、莉理香は静かに仲間へ笑いかけた。
空港での彼女は能天気な一般人にしか見えなかった
――そのはずなのに、今や彼女の意思ひとつで、大自然の災厄すら押しとどめてしまう。
「……大丈夫。これで、もう前へは来させません」
――怪物か、救世主か。
その答えを決めるのは、彼女自身の心だけだった。
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