第2話

​承知いたしました。雛菊弥生が水瀬海を試す最初の「小さな盗み」の物語を続けます。この「盗み」を通じて、弥生が海の特異な能力を理解し、彼への信頼を深めていく過程を描写します。

​初めての試練──「クレヨンの盗人」

​雛菊弥生との会談を終え、海はどこか興奮と戸惑いの入り混じった心地でいた。彼女の言葉は、まるで彼の心に隠されていた「本物」への渇望を刺激するかのようだった。しかし、同時に、政治という巨大な舞台で「意味を盗む」ことの重さも感じていた。

​翌日、弥生から連絡があった。指定されたのは、とあるカフェの一角だった。そこには、弥生と、彼女の側近らしき数名の人物がいた。彼女は海に一枚の資料を差し出した。


​「水瀬くん。これが、あなたに最初に依頼したい『盗み』です」


​資料には、一人の老練な国会議員の顔写真があった。星野健司。長年、政界の重鎮として活躍してきた人物だが、なぜか常に「人の話を聞かない」「空気が読めない」という印象がつきまとっている。

​「星野先生は、誠実で実直な方です。しかし、彼には長年つきまとう、ある『意味』があります。それが、彼をこの国の未来を担う立場から遠ざけている」弥生は静かに言った。

​「その『意味』とは?」海は尋ねた。


​「二十年前、ある幼稚園訪問での出来事です。彼は当時、地元の子供たちと交流していましたが、その際、一人の園児が持っていたクレヨンを『借りたまま返さなかった』という些細な噂が流れました。彼はすぐに返したのですが、その時のかみ合わないやり取りが、なぜか『子供からクレヨンを盗んだ』という噂になって、今日まで彼のイメージに影を落としているのです」


​海は眉をひそめた。政治家の「盗み」といえば、普通は贈収賄や機密情報の流出を想像する。しかし、これはあまりにもくだらない。


​「そんなことで……」

​「ええ。ですが、この些細な噂が、彼の『人の話を聞かない』『空気が読めない』というイメージを、無意識のうちに人々に補強してしまっている。彼は『クレヨンを盗んだ男』として認識されてしまっているのです」


弥生の目は真剣だった。


「この『意味』を、あなたは『盗む』ことができますか?彼は、本来もっと評価されるべき人物です」


​それは、まさに海が「意味を盗む」という定義に合致する依頼だった。物理的な物を盗むのではなく、人々の脳裏にこびりついた、些細だが根深い「印象」を盗む。

​「意味」を追う、二つの眼差し

​海は、すぐに美菜に連絡を取った。美菜は星野健司に関するオンライン上のあらゆる情報を漁り、特にその「クレヨン騒動」に関する記事やコメントを徹底的に洗い出した。


​「やっぱり、出てくるね。当時の地方紙の小さな記事が元になってるみたい。ネット上でも、たまに『クレヨン盗んだおっさん』とか書かれてる」


​美菜の分析によると、この噂は、星野自身が直接否定することもできず、また大きすぎて無視することもできない、奇妙な「半透明な存在」として人々の意識に存在していた。

​一方、海は杉菜にも協力を求めた。杉菜は星野健司の地元に赴き、当時の状況を知る人物や、彼を長年見続けてきた人々から、直接話を聞き込み始めた。


​「クレヨンねぇ……ああ、そういや、あったねぇそんな話。あれはな、星野のおっさんが、子供の絵を見て『お、この色いいねぇ、ちょっと貸して』って言ったら、子供が『ダメー!』って言って、それでちょっと引っ張り合いになっただけだよ。別に盗もうとしたわけじゃねえ。ただ、ちょっと不器用なだけなんだよ、あのおっさんは」


​杉菜の情報は、噂の「真実」を明らかにした。星野健司は、決して悪意があったわけではない。ただ、不器用で、言葉足らずだっただけなのだ。人々の「彼を誤解したい」という無意識の欲求が、些細な出来事を「クレヨンを盗む」という悪意ある「意味」に編集してしまっていた。

​「語り」の再構築

​海は、美菜と杉菜の報告をもとに、星野健司の「クレヨンを盗んだ男」という「意味」を盗むための手順を組み立てた。それは、直接否定するのではなく、「語り」を上書きする戦略だった。


​第一の手順──「不器用な情熱家」の演出

美菜のハッキング技術を使い、星野健司の公式ウェブサイトや、彼の活動を紹介する公的な資料の隅に、さりげなく彼の「不器用だが情熱的な側面」を強調するようなエピソードや写真を挿入する。例えば、政治活動中に眼鏡をかけ忘れて資料を逆さに読んでいたり、演説中に言葉に詰まって照れたりするような、人間味あふれる「隙」を見せるような情報だ。これは、彼の「空気の読めなさ」を「親しみやすい不器用さ」へと編集する試みだった。


​第二の手順──「新たなクレヨン物語」の拡散

杉菜の協力で、星野健司が実は子供好きで、地元小学校に個人的に文房具を寄付しているという、これまでは公になっていなかった事実を、地元の小さなニュースサイトやボランティア団体のブログに「偶然」報じられるように仕向ける。その際、彼の「子供たちへの細やかな気遣い」を強調する。これは、「クレヨンの盗人」という過去の「語り」を、別の「クレヨンに関する物語」で上書きする試みだった。


​第三の手順──「ユーモアによる昇華」

美菜は、匿名掲示板やSNSで、星野健司に関する過去の「クレヨン騒動」をあえて話題にするスレッドを立てた。しかし、それは誹謗中傷のためではない。スレッド内で、当時の状況を知る人物(杉菜が用意したサクラも含む)が、「あの時、実は星野先生が借りたクレヨンは、子供が描いた絵の途中で、先生が『この青、すごいね!ちょっと貸して!』って言って、子供が『だめ!描いてる途中だから!』って言い合っただけなんだよ。先生も悪気はなかったんだ」という「真実」を、ユーモラスな文体で投稿するように仕向ける。そして、さらに「今では、星野先生といえば、あのクレヨンの話でしょ?なんか、人間味があっていいよね」といったコメントで、ネガティブな「意味」を「親しみやすいエピソード」へと転換させる。

​海は、この一連の「語りの再構築」を、慎重かつ緻密に実行した。それは、人々の意識をゆっくりと、しかし確実に誘導していく作業だった。

​確

かな信頼へ

​数週間後。雛菊弥生の秘書から、海に連絡が入った。再び料亭の個室に招かれると、弥生は静かに茶を啜っていた。彼女は何も言わず、ただ海をじっと見つめていた。

​「星野先生の『クレヨンの盗人』という噂は、どうなりましたか?」海は自ら問いかけた。

​弥生はゆっくりと頷いた。「興味深いことに、彼のイメージが変わりつつあります。あのクレヨンの話は、まだ完全に消えたわけではありません。しかし、それが彼の『不器用で愛らしいエピソード』として語られるようになりました。一部では、彼が子供好きであることの証拠として、皮肉ではなく、本当にそう受け止める人々も現れています」

​彼女は海を真っ直ぐに見て言った。「彼は『クレヨンの盗人』ではなく、『クレヨンで子供と本気でやり合った、情熱的で不器用な政治家』という意味に書き換えられました。まさか、そんな些細な、しかし根深い『意味』を盗み、書き換えることができるとは……あなたの『盗み』は、私が想像していた以上です」

​弥生の表情は、厳しさの中に、確かな感銘の色を宿していた。


​「水瀬海くん。私は、あなたを信じましょう」


​その言葉は、海にとって、単なる依頼の承認以上の意味を持っていた。それは、彼の「盗み」が、この国の「語り」をも動かす可能性を秘めていることの証明だった。そして、雛菊弥生という政界の羅刹が、彼に真の信頼を置いた瞬間でもあった。


​「では、次なる『盗み』について、具体的なお話をしましょうか」


​弥生の言葉に、海の心は高鳴った。いよいよ、この国の「未来」を巡る、本格的な「意味の編集」が始まる。

雛菊弥生からの最初の依頼を成功させ、海は「意味の盗み」が政治という大きな舞台でも通用することを実感していた。そんな彼の日常に、再び予期せぬ人物が現れる。

​怪盗学園の校門前で、一人の女性が腕組みをして海を待ち伏せていた。腰に手を当て、鋭い眼光を海に向けるその女性は、どこか見覚えがある。海が彼女の前を通り過ぎようとすると、彼女は大きな声で呼び止めた。


​「ちょっと待へ!おめだぢ、水瀬海だべ?」


​津軽弁訛りの、張りのある声だった。海は足を止め、彼女に視線を戻す。


​「あんたは……」

​「わいは『月刊トゥルース』の記者、水無月香織だ!覚えでねぇが?この前、星野先生の地元さ、取材さ来てただべ!」


​海は思い出した。あの時、杉菜の情報収集に同行した際、取材と称して地元を回っていた、情熱的な津軽弁の女性記者だ。彼女は海と杉菜が何を調べているか、鋭く勘づいていたようだった。


​「あんたが、星野先生の『クレヨン騒動』さ、関わってただべ。違うが?」


香織は海に詰め寄った。

​海は否定も肯定もせず、ただ彼女を見つめ返した。


「もしそうだとしたら、あなたに何の用ですか?」


​香織は、海を品定めするようにじっと見つめると、一転して真剣な表情になった。


​「わいはな、あんたのやったこと、立派な『盗み』だと思うんだ。あんたは、誰にも害を与えねぇで、人々の心さこびりついた嘘っこな『意味』を盗んだ。わいは、そういうあんたに頼みがあるんだ」


​彼女の言葉は、まるで自分の心の内側を見透かされているようだった。


​「わいの地元さ、『鬼婆の橋』って呼ばれてる橋っこがあるんだ。昔から、そこを通ると不幸になるって噂が広まってて、誰も近寄らねぇ。橋はもうボロボロ、人も通らねぇもんだがら、どんどん廃れていって、地元の商店街もさびれてまった」


​香織は悔しそうに拳を握りしめた。


​「でも、本当は違うんだ。その橋さには、昔、地域の子供らを助けるために、夜なべして橋を直してた、おっかねぇ顔したおばあさんがいたんだ。でも、子供らは『鬼婆だ!』って怖がって、おばあさんは結局、誰にも感謝されねぇで死んでしまった。その話が、いつの間にか、不幸をもたらす『鬼婆の橋』って、捻じ曲がった『意味』さなってしまったんだ」


​それは、星野健司の「クレヨン騒動」と似ていた。些細な、しかし根深い誤解が、一つの場所の「意味」を歪め、そして現実を変えてしまったのだ。


​「あんたさ頼む。その橋の、捻じ曲がった『意味』を盗んで、おばあさんの本当の『語り』を返してやってほしい。そして、またみんなが笑顔で橋っこさ渡れるようにしてほしいんだ!」


​香織の依頼は、弥生のそれとは全く異なるものだった。政治的な駆け引きも、巨大な権力も関係ない。そこにあるのは、ただ故郷の「失われた意味」を取り戻したいという、一人の記者の純粋な情熱だけだ。

​海は、弥生からの次なる依頼を前に、新たな問いに直面していた。

熱血な津軽弁の記者、水無月香織が持ちかけた、故郷の「語り」を巡る盗み。

海は、この依頼を受けるべきか?そして、彼はこの依頼をどのように「盗む」のか?


​熱血津軽弁の記者、水無月香織が持ちかけた依頼は、海にとって新たな「問い」だった。それは、雛菊弥生からの政治的な依頼とは対照的に、個人の情熱と、忘れ去られた真実が絡み合った、極めて人間的な「盗み」だった。海は、夜の怪盗学園の屋上から、津軽の空を想像した。そこに架かる「鬼婆の橋」。捻じ曲げられた「意味」の重みが、彼に挑戦状を叩きつけているようだった。


​「やるか……」


​海は、小さく呟いた。彼の「盗み」は、他者に害を与えるものではなく、世界の「語り」をより良い形に「編集」するものだ。香織の依頼は、まさに彼の信念に合致していた。

​「鬼婆の橋」へ、意味の潜入

​海はすぐに、七瀬美菜と近月杉菜に香織の依頼を伝えた。美菜は目を輝かせた。


「津軽弁の鬼婆か!面白そう!デジタルデータから鬼婆伝説のルーツと変遷を追ってみるよ!」


杉菜は、煙草をくわえながら面倒くさそうに言った。


「また、変な依頼に首突っ込んでやがんのか。でもまあ、人の『意味』を引っぺがすってのは、ある意味、あんたの天職かもな」


そう言いながらも、杉菜の顔にはいつもの気だるさの中に、わずかな興味の色が浮かんでいた。

​美菜は、津軽地方の古い文献、郷土史、地元新聞の過去記事、そしてインターネット上の掲示板やブログを徹底的に検索した。彼女は、「鬼婆の橋」という言葉が最初に使われた時期や、その「意味」が広まった経緯、そして「おっかねぇ顔したおばあさん」に関するわずかなポジティブな記述を見つけ出した。


​「面白いね、海。この『鬼婆の橋』伝説、最初は単なる子供のいたずら半分の噂だったのが、時間が経つにつれてどんどん尾ひれがついて、まるで本当に鬼が住み着いているみたいになってる。でも、ここに数件だけ、おばあさんが橋の修理で夜遅くまで働いていたのを見た、って証言が残ってるよ」


​一方、杉菜は津軽へと向かった。彼女は「月刊トゥルース」の香織のコネを使い、地元のお年寄りや、昔から橋の近くで商売をしていた店主に聞き込みを行った。津軽弁で語られる、ぼんやりとした記憶の断片を、粘り強く紡ぎ合わせていく。


​「ああ、あのばあさんねぇ……確かに顔は怖かったけど、悪い人じゃなかったんだぁ。夜中にカンカンって、橋直す音聞こえてきてさぁ。あの橋、ガキんちょが遊びに行くのに危ねぇって、ばあさんがいつも気にかけててだなぁ。いつの間にか『鬼婆』って言われるようになってまったけど、あれは、ばあさんのこと怖がってだガキどもが、適当に言っただけだべぇ」


​杉菜が持ち帰った情報は、美菜のデジタルデータと見事に合致した。伝説の背後にある「真実」は、単なる誤解と、幼い子供たちの無邪気な恐怖から生まれたものだった。そして、その誤解が、年月を経て固まり、橋の「意味」そのものを変えてしまっていたのだ。

​「語り」を解体し、再構築する七つの手順

​海は、集まった情報をもとに、「鬼婆の橋」の「意味」を盗み、本当の「語り」を取り戻すための手順を考案した。


​第一の手順──「語り」の隙間を埋める

美菜が、地元の郷土史研究会のウェブサイトに、匿名で「鬼婆の橋」の伝説に関する「未解明な点」を指摘する考察を投稿する。その中で、かつて橋の近くで小さな修理工房を営んでいた「無名の職人」の存在を示唆し、その人物が夜間に橋の修理に携わっていた可能性を示唆する。これは、人々の意識の中に、「鬼婆ではない別の物語」が入り込む余地を作り出すためだ。

第二の手順──「記憶の破片」の発見

香織の協力を得て、地元小学校の児童たちが、社会科の授業の一環として「地域の歴史を学ぶ」という名目で、「鬼婆の橋」の周辺を散策する機会を設ける。その際、海は事前に、橋のたもとの目立たない場所に、古びた、しかし丁寧に手入れされた「小さな木片と釘」を埋めておく。まるで、橋の修理に使われた道具の残骸のように見えるそれは、子供たちによって「偶然」発見される。

第三の手順──「子供たちの視点」の公開

発見された木片と釘は、香織の雑誌「月刊トゥルース」の地元の子供たちのコーナーで紹介される。記事では、子供たちが「これはきっと、昔、橋を直してくれた優しい人が残したものだ!」と無邪気に語る様子が描かれ、木片と釘を大切に持ち帰る姿が写真と共に掲載される。

​第四の手順──「新たな足跡」の演出

杉菜が、夜間に「鬼婆の橋」の周辺を散歩する地元住民の間で、匿名で「最近、夜中に橋の方から、トントンって、心地良い木の音が聞こえてくるって噂だよ」という話を流す。それは、かつておばあさんが橋を直していた時の音を連想させる、幻のような「音」の噂だった。

第五の手順──「優しい陰影」の投影

美菜のハッキング技術を使い、地元の商店街の防犯カメラの映像を、夜間の時間帯だけわずかに「ノイズ」を発生させるように操作する。そのノイズの中に、橋の影が、まるで誰かが橋を修復しているかのように揺らめく「幻影」が映り込むような映像を、意図的に作り出す。この映像は、商店街の店主たちに「不思議な現象」として話題になるように仕向けられる。

​第六の手順──「感謝の痕跡」の創造

海は、再び夜の橋へ赴いた。彼は、橋の目立たない場所に、小さな花を一本挿した。その花は、まるで誰かが橋の guardian に感謝の意を捧げたかのように見える。そして、その花を見つけた人々が、次々に同じように花を供えるようになる。

第七の手順──「意味の再定義」

最後に、香織が「月刊トゥルース」で、橋の「意味」に関する総括記事を発表する。それは、「鬼婆の橋」の「恐怖の伝説」を直接否定するのではなく、子供たちの発見、夜間の不思議な音、そして花が供えられるようになった現象を繋ぎ合わせ、「橋は、本当は地域の子供たちを見守り、黙々と支えてきた、名もなき『守り手』の場所だったのだ」という、新たな「語り」を提示する。

​橋に灯る、新たな光

​数ヶ月が経った。「鬼婆の橋」は、もう「不幸をもたらす橋」とは呼ばれなくなっていた。代わりに、子供たちは「お守り橋」と呼び、夕暮れ時には橋のたもとに、誰かが供えた花が飾られるようになった。夜になると、かつておばあさんが橋を直していた時のように、微かに「トントン」という音が聞こえる、と噂する者もいた。

​地元の商店街にも、少しずつ活気が戻り始めた。橋を渡って買い物に来る人々が増え、かつては閑散としていた道に、笑い声が響くようになった。

​香織は、学園の屋上で海と向かい合っていた。彼女の瞳は、興奮と感謝に満ちていた。


「やったな、海!あんたは、本当に『鬼婆の橋』の『意味』を盗んで、あたしたちの故郷さ、本当の『語り』を返してくれた!」


​海は静かに頷いた。彼の心は満たされていた。雛菊弥生の依頼は、政治という大義名分があったが、香織の依頼は、純粋に誰かの心を救い、場所の「意味」を回復させるものだった。それは、彼の「盗み」が持つ、もう一つの側面だった。


​「おっかねぇ顔したおばあさんも、きっと喜んでるべなぁ」


香織は目を細めた。

​その夜、海は静かに月を見上げていた。彼の「盗み」は、確実に世界を変え始めている。

そして、今度は、いよいよ雛菊弥生からの、より大きく、より危険な「意味の盗み」が始まる番だった。

​「鬼婆の橋」の「意味」を盗み、水無月香織の故郷に安寧を取り戻した海は、充実感を覚えていた。彼の「盗み」は、確かに人々の心を動かし、世界を少しずつ書き換え始めていた。しかし、彼の行動は、見過ごすことのできない存在の目に留まっていた。

​怪盗学園と対をなす存在──それは、探偵学園だった。盗みを芸術と捉える怪盗学園に対し、探偵学園は、犯罪を暴くことを哲学とする学び舎だ。校舎の壁には迷宮入りの事件簿が並び、廊下には凶悪犯罪の証拠品のレプリカが飾られている。ここでは、探偵は正義であり、真実であり、怪盗にとっての宿敵だった。

​海がいつものように屋上で風に吹かれていると、見慣れない二人の少女が学園の敷地に入っていくのが見えた。一人は知的な雰囲気をまとった黒髪の少女、もう一人は活発そうな茶髪の少女だ。二人は、怪盗学園の生徒とは明らかに違う、洗練された制服を着ていた。

​その日の午後、海の教室に、その二人が現れた。担任教師に促され、二人は自己紹介を始めた。

​「探偵学園から来ました、明智湊です」

​黒髪の少女が凛とした声で言った。その名前に、教室はざわついた。探偵界の伝説、明智小五郎の孫だ。

​「うちも探偵学園から来たで、金田一小百合や!よろしゅうな!」

​茶髪の少女は、関西弁で明るく挨拶した。こちらもまた探偵界のもう一人の巨匠、金田一耕助の孫。探偵学園のサラブレッド二人が、なぜ怪盗学園に?誰もがその意図を測りかねていた。

​二人は、表向きは「交流授業」と称して怪盗学園に潜入してきたのだ。しかし、その真の目的は、怪盗たちの動向を探ること。そして、最近怪盗界で話題になっている「意味を盗む怪盗」──水瀬海の正体を探ることだった。

​下校時、海が昇降口に向かうと、二人が待ち構えていた。

​「水瀬海やな?あんた、最近学園で変なことしとるらしいやんか。創設者の銅像盗んだり、七瀬莉央先輩の顔を盗んだり……」小百合が好奇心に満ちた目で言った。

​「その『盗み』は、私たちの探偵としての信念に反します。物的証拠や事実を歪め、人々の認識を操作する行為は、犯罪に等しい」湊が静かに、しかし有無を言わさぬ口調で続けた。

​海は、挑発に乗るつもりはなかった。「僕の盗みは、誰にも害を与えていません。むしろ、真実を再定義することで、世界をより良い方向へ導いている」

​「そうかな?あんたのやったことは、単なる『詐欺』や。証拠を隠滅し、真実を捻じ曲げとるだけやないか」小百合が関西弁でまくし立てる。

​「真実とは、一つではありません。語り方によって、その意味は変わる」海は冷静に反論した。

​湊は、海の言葉を黙って聞いていたが、鋭い視線を海に向け、口を開いた。「あなたの言う『盗み』は、私たちの辞書では『虚偽』と読みます。あなたの行動は、すべて私たちが暴くべき『謎』です。私たちは、あなたを徹底的にマークします」

​小百合も負けじと続けた。「あんたのやってることは、あたしたちの美学に反するんや。次に変なことやったら、容赦せぇへんで!」

​こうして、名を捨てた怪盗、水瀬海は、探偵学園の誇り高き二人の美少女探偵から、徹底的にマークされることになった。彼の「意味を盗む」という行為は、今や「犯罪」として、探偵たちの追跡の対象となったのだ。

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