第十七話 竜宮淵 その二 side:七瀬華

「そのびしょびしょの服、どうしたんですか」

 私が献栄学園で働き始めて三ヶ月目の夏休み前くらいの時期だっただろうか。

 大山先生がポリ袋に入ったポロシャツやジーンズ、靴下に下着を脇に置いて、隣のデスクで仕事をしていた。

 授業から帰った私は、その不思議な光景に思わず声をかけた。

「いやぁ、なに、着衣水泳の講習ですよ。夏休み前なので、万が一、服を着たまま水に落ちたら、どう対処すればいいか、生徒達に毎年、教えているんですよ。新一年生だけ対象ですがね。七瀬先生。もし、そうなったら、服はどうすればいいか、分かりますか」

 大山先生は、笑顔で質問してくる。

「えっと。服は出来るだけ脱いで、浮く、のが正しいんでしたっけ」

 私は朧げな記憶を頼りに、自信なさげに答える。

 大山先生は、フッと不敵な笑みを浮かべて、

「半分は正解です。浮くのは正しいんですが、服は脱ぎません。考えてみてください。濡れた服は肌にべっとりつきます。無駄な体力を使って脱ぐくらいなら、着たまま浮こうとするほうが合理的だと思いませんか」

「なるほど。でも、濡れた服だと体が冷えませんか」

「確かに、そう思われるのも無理はないですが、実は服を着ていたほうが、体が冷えにくいのです。あと、服に空気を入れれば浮きになるので、服を着ておくメリットはあります」

 大山先生は、満面の笑みで色々教えてくれた。

 きっと、私を含めて新人の先生にはこんな感じで、出し惜しみなく指導してくれているのだろう。そんな気がした。

「それと、空のペットボトルがあれば、五百ミリリットル、一本だけでも子供なら浮き具として使えます。理想は三本くらいあればいいですね。あと、かばんも浮き具として使えますよ。もし、池などでおぼれている人がいたら、投げ入れてあげると人命救助になるかもしれません」

 大山先生は、そう言って、ガハハと豪快に笑った。


 これは、走馬灯なのだろうか。

 いや、違う。

 きっと私の生存本能から呼び起こされたヒントだ。

 暗い闇の中で、途絶えかけていた意識が呼び覚まされる。

 懐中電灯は残念ながらマフラーと共に水底に沈んでいった。

 水中で、顔にまとわりつく髪をかき分けながら、リュックサックを肩から外し、おなか側に持ってくる。

 あとは、力を抜く。

 顔に水面が近づく。


 浮けた。


 私は、息ができなかった分を取り返すように、ひとまず大きく息を吸い込んだ。


 ケホッ、ケホッ

 淵に落とされた時に誤嚥した水でむせる。

 しかし、その瞬間にゾクリとする。

 もし、気づかれてしまったら、と。

 私は息を潜めながらゆっくりと向こう岸のベンチとは反対方向の崖に向かって、足で舵を切る。

 ベンチのある方向は、普通なら安全だ。

 しかし、おそらく殺意を持った何者か、あの香りからミハエルだと思うが、その者にとっては獲物を見つけるには格好の視界の開けた場所になっている。

 私が無事であると知るや否や、何らかの方法で、また襲ってくることもあり得る。

 それに、落とされた時、全く背後に気配を感じなかった。彼の体格なら、背後から肉弾戦に持ち込めば女の私など一捻りだろう。

 下手に森を彷徨うと闇に乗じて、やられるかもしれない。

 少なくとも、時間を味方につけるべきだ。


 リュックを浮き輪代わりにして何とか崖下の茂みにたどり着いた私は、できる限り光源を晒さないように、手袋を脱いでスマートフォンを素早く起動する。

 時間は、午前五時十分。

 時間を確認して素早くスマートフォンの光源を落とす。

 おそらく、私をピンポイントで狙って突き落とせたのは、私が使った懐中電灯が原因だったのだろう。あのYouTuberも、きっと。

 ここから日の出の午前七時までの約二時間。

 確か、ミハエルは朝に花の配達があると言っていた。ミハエルの二十四時間対応の花屋に頼むならば、普通の花屋がやっていない、早朝の配達である可能性が高いだろう。ミハエルの話を信じるならば、だ。

 それでも少なくとも一時間くらい、ここでやり過ごすのが良さそうだ。


 一時間。短いようで長いこの時間をどう過ごすか。

 ひとまず、私はリュックサックの荷物を点検することにした。

 ノートはずぶ濡れで使えない。

 空のペットボトル。これは命の恩人だ。

 今、竜宮淵の水を採取する絶好の機会だが、今後本格的に遭難した時に、水の確保が重要になるかもしれない。あえて、清潔な状態で残しておく方がいいだろう。

 とにかく、今は生徒達の前に生きて帰ること、それを優先せねばならない。

 途中、冷たい水で意識が途絶えかけていたにもかかわらず、不思議と私の頭は冴えている。小雨は、いつの間にか上がって、雲間から満月から少し欠けた月が顔を出していた。


 少し晴れて空気が冷たくなった気がする。

 濡れた身体が凍えている。淵には冷たい風が吹き込む。

 小物用のポーチは濡れているが、ビニール素材のお陰で中身は無事だ。

 ハンカチとハンドタオルで顔や首、手袋を脱いだ手を拭う。

 きっと私は今、酷い顔だろう。ハンカチに少しアイシャドウがついていた。

 何か暖を取れるものを、と思い、カイロを取り出す。これもビニール包装のお陰で中身が濡れていない。

 私は急いで包装を開け、カイロを振った。

 誰かは分からないが、この発明品を作った日本人に感謝しながら、手を温める。

 落ち着いた段階で、大野旅館に連絡して、迎えに来てもらおうと思い、トレンチコートのポケットをまさぐった。


 無い。


 観光地図がなくなっていた。

 きっと淵に落ちた時、マフラーや懐中電灯と共に水底に沈んだに違いない。


 装備の確認を一通り終えて、茂みに身を隠しながら、少し、ボーッとする。

 身体が冷たいのには変わらないが、何だか少し眠い。このまま眠れば、さぞかし気持ちいいだろうと、一瞬考えたが、私は身震いして目を覚まさせる。


 これは、低体温だ。


 太陽が昇るまでまだ時間がかかる。このまま、ここでじっとしていると危険だということだ。


 急いでスマートフォンを確認する。

 時間は五時四十分。

 目標としていた時間にはまだ足りないが、この場所は、別の意味で危険だ。

 私は、覚悟を決めて移動することにした。


 私は月の光とベンチを照らす街灯を頼りに崖と淵の境界を少し歩き、陸に上がった。

 きょろきょろと周りを見渡す。誰もいないようだ。

 景色がかすんで見えるが、まだ大丈夫だ。

 瀬を流れる水の音が近くに聞こえる。

 竜宮淵の地形からすると、この瀬は竜宮淵に流れ込んでいて、瀬を横断する橋の向こう側にベンチが置いてあるから、淵沿いにその反対方向に回り込めば、元来た道に戻れるはず。

 私はそう信じて、歩き始めた。


 視界がどんどん悪くなってくる。

 瀬の音は遠くなったが、元来た道に戻れているのかわからない。竜宮淵自体が真っ白な霧の中に隠れてしまい、そもそも、淵沿いを歩けているのかすら定かでない。

 山道で、ところどころ出ている樹木の根や岩に足を取られつつ、道らしき所を進む。

 林道なのか、獣道なのか、ここまでくると、もはや判別がつかない。

 野生のイノシシや熊にあったらどうしよう、そんな不安が頭をもたげる。

 念のため、スマートフォンで位置を確認しようと試みたが、あいにく圏外だ。

 とにかく、今は少しでも電波の通りが良い山頂付近を目指すしかない。

 歩いているうちに冷えていた体は徐々に熱を取り戻した。


 霧の中、何とか森を抜けて、開けた場所に出た。

 スマートフォンを起動すると、電波が立っていた。

 今、六時二十分。

 これで、ようやく位置情報を確認できる。

 そう思って地図アプリを起動すると、変わらず山の中だ。しかし、近くに林道らしき道があり、その先は国道につながっていた。

 私は霧の中で安堵した。


 地図アプリがどこまで正確か分からないが、とりあえず、付近で風をしのげる場所はないかと少し歩くと、カツン、と足元で金属音がした。

 何だろうと思って、よく見ると、開封された缶詰だった。中には食べ残しであろう赤いスープが残っていた。そして、たき火の跡。

 近くには、チャバネゴキブリの死骸がいくつかあった。きっと、キャンプをした誰かの残したスープ目当てに移動してきて、夜の寒さでやられたのだろう。


 いや、おかしい。


 ここにチャバネゴキブリがいるのは、ありえない。

 こんな森の中で、家屋でしか生きられないような昆虫がいること自体おかしい。

 チャバネゴキブリは暖かい場所を好む。冬であれば、暖房の効いた場所であったり、温暖な水が流れる排水溝の近くであったり、そういう場所を好む。そして、気温が5度を下回ると、死ぬ。

 ここから導き出されるのは、この近くに家屋がある、ということだ。

 地図アプリには表示されない家屋が。


 そう考えていると、後ろをすっと横切る人影が見えた。


 ミハエルか。

 私は思わず、息を殺した。


 人影は私に危害を与えないばかりか、まるで私が見えていないようにふらふらと歩いている。長い髪の女性。彼女の後ろ姿から察するに、あれは『シェイプシフター』だ。


 帰り道の目途が立ち、少し余裕が出た私は、霧に乗じて後をつける。

 向かう先に二階建ての立派な洋館の影が見えた。

 彼女は洋館の扉を開け放つと、扉を閉めずに中に入っていった。


 念のために、スマートフォンを見る。

 六時四十分を示している。


 夜明けまでもう少し時間があるし、霧が深いなか、林道を歩くのは危険だ。

 かといって、吹きさらしの中、霧の中で待つのも、低体温症と、霧が晴れてしまった場合のミハエルからの発見リスクを考えると選択したくないアイデアだ。

 その一方で、不法侵入になるかもしれないが、屋内なら風がしのげるし、『シェイプシフター』の謎に迫るチャンスではある。ただ、ミハエルのように、敵意を持った人物のアジトならば、危険だ。


 どうしようか。私の濡れた身体が震える。

 やはり、低体温症のリスクを考えて、屋内に入ろう。

 私は、少しの好奇心を抱きつつ、戸口でスニーカーを脱いで、洋館に入っていった。


 洋館の床はフローリングで、彼女の濡れた足跡が土と共についていた。

 何となく靴を脱いでいて正解だった。靴のままだと、靴の跡がついてしまっていた。私は彼女の足跡に自分の足を重ねるように歩みを進めた。

 廊下を歩いて突き当たりの部屋が開け放たれており、濡れたまま放心状態の彼女が椅子に座ってじっと一点を見つめている。

 こちらに気づく様子は一切ない。

 私はゆっくりと彼女の顔を観察する。今までは横顔だけしか見ていなかったが、幸い、今は、斜め前から観察できる。

 無表情とはいえ、端正な顔立ちをしている。整ったまゆ毛、長い睫毛、はっきりとした二重、小さめだが十分な高さがある鼻、愛らしい唇。

 まるで絵画から抜け出したような、不思議な美しさがあった。

 だが、瞳だけは虚ろで人形のような不気味さを持っていた。

 私には、この顔に見覚えがあった。佐々木さんが提供してくれた写真に写っている松井美弥だ。

 私が確信を得た時、


 バタンッ


 風で扉が勢いよく閉まる音がした。

 すると、二階から、

「おいっ。いるのか」

 と、男の大きな声が聞こえ、二階の床が軋む音が階段に近づいてくる。

 私は、慌てて、少し空いていた左の扉に身を滑らす。


 ギシッ、ギシッ、ギシッ

 と男が階段を降りてくる。


 やはり、アジトだったのか。

 何か切り抜ける方法を考えないと。

 あたりを見ると、棚には自律して動く何かの液に入った心臓や腸、机の上にはメンテナンス中の顕微鏡らしきレンズ、古びた木箱、赤ペンの入った文献が目に入った。

 ブラフでも何でも良い、決定的な証拠写真を押さえた、拡散されたくなければ、見逃せとでも言って、交渉しよう。

 そう考えて、私は夢中で写真を撮り、美月先生にすぐにメールを送信できるようにした。


 ギシッ、ギシッ、ギシッと階段を降りて、だんだんと私に潜む部屋に足音が近づく。


 私が潜む扉の真横でピタリと、足音が止む。

 背中にヒヤリとした汗が伝う。

 私は、早まりそうになる息をこらえて、両手で口を覆う。心臓がかつてないほどに早く打つ。


「なんだ、ここにいたのか」


 そう言って、男はドアノブに手をかけ、


 バタン


 扉を閉めた。


 私は、ひとまず、ゆっくりと息を吐き、じっと身を潜める。


「全く、あの男が余計な事をしたせいで、何で私がこんな苦労を負わねばならんのだ。いちいちリセットする、変な習性を植え付けやがって。記憶の断片が身体にあるという証拠ではあるのだが、全く。ほら、風呂場に行くぞ」

 男は、そう愚痴をこぼして、おそらく彼女を連れ出したのだろう。

 男の足音の後にペタペタという足音が聞こえて、私のいる部屋から遠ざかっていった。


 私は手袋をした手でドアノブを回し、静かに扉を開ける。

 扉越しに廊下をちらりと見る。


 二人とも退散したようだ。


 私は再び彼女の足跡に重なるように足跡を残し、スニーカーを履いて洋館を出た。


 洋館の外は日が昇り明るくなっていた。

 スマートフォンを見ると七時を少し過ぎたくらいだった。

 霧は少し残っていたが、来た時よりはだいぶ薄れている。

 林道らしき道もここから確認できる。


 この場からさっさと引き上げるのが賢明だと判断した私は、再び森に入り、地図アプリを頼りに林道を進む。


 しばらく歩いたところで、ブーンというバイクの音が聞こえてきた。

 国道は近い。

 はやる気持ちを抑えつつ、慎重に歩みを進める。ここで道に迷っては元も子もない。


 ようやく国道が見えたところで、現在地を美月先生にスマートフォンで知らせ、水に落ちて、道に迷ったので迎えに来てほしいとメッセージを送った。

 ミハエルが犯人だとは、断言できず、まだ私の中の憶測なので、ミハエルのことは伏せておいた。


 十分くらいしたくらいだろうか、大山先生が乗る白い軽自動車のクラクションが聞こえた。

 車はハザードランプが点灯した状態で停まり、中から大山先生が毛布を持って出てくる。

「七瀬先生、大丈夫ですか」

 大山先生が私の顔を覗き込む。

 大山先生の表情は硬く、いつもの笑みはない。

「えぇ。何とか無事です」

 私は寒さで唇を震わせながら、答えた。

 大山先生は無言で乾いた毛布をかぶせて、私を助手席に案内してくれた。

「毛布、ありがとうございます」

 私は乾いた毛布に確かな温もりを感じ、助手席のシートベルトを締めて、そう言った。

 しかし、大山先生は無言だった。私は、その沈黙に気まずさを覚える。

 しばらくして、大山先生は口を開いた。

「七瀬先生。いいですか。朝の散歩は結構ですが、生徒を引率している以上、行くなら行くと私にも声をかけてください。七瀬先生がいないってなって、どれほど心配したことか。先生は一人じゃないんですから、自覚を持ってください」

 大山先生からの忠告はもっともなことで、私には耳が痛かった。

 私の個人的な好奇心のため、周りに迷惑と心配をかけたのは事実だ。

「はい。本当にすみませんでした」

 私は、小さい声で謝罪した。こう面と向かって注意されるのは久々だった。

 私が就職してから指導してくれている先生たちの顔を思い浮かべる。珠紀先生は穏やかに諭すタイプだったし、相澤先生は言葉数少なくコントロールするタイプだった。

 大山先生は、直球だ。だからこそ、言葉が重い。

 私は少し項垂れ、横目で大山先生を見る。

 冬だというのに大山先生の額には汗がまみれていて、頬に汗が伝っていた。

 私を探すために色々走り回ったのだろうか。

 私は、起こした事の重大さに思い至り、毛布に深く顔をうずめた。

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