第6話 交錯する調査線
午後6時12分。
警察本部の小会議室は、昼間よりも静かだった。蛍光灯の白が紙の上に冷たく落ち、壁一面のタイムラインに色違いの付箋が増えてゆく。志摩一未は、時計の秒針と同じ速度で視線を移しながら、欠けた1分がどこに置かれているかだけを見ていた。
8時29分──霞ヶ関北口。
8時35分──桜町変電所。
8時47分──湾岸東ゲート。
各現場、その前後1時間にデータの空白。
昼過ぎ以降も、市のアラートログと市民団体〈リンク・ロード〉の時刻メモが追加されるたび、付箋の列はわずかに厚みを増す。入口は狙われ続けている。だが中枢は止まっていない。止めないで、止めさせる。
志摩は静かにマーカーのキャップを外し、付箋の端にごく小さい三角形を描いた。△1、△2、△3──。
「“1分”の印、増えましたね」
ドアの影から声。川端杏がファイルを抱えて入ってきた。髪が湿っている。夕立の名残だ。
「逆止弁の癖が確認できた。旧規格のタイプAは、開度をごくわずかにいじるだけで下流センサーの応答が1分弱ずれる。同期を切られていれば、機器は“自分の時計”で記録する」
志摩は頷き、図を1枚受け取る。「入口側で作れる“微差”。合っていたわけだ」
「もうひとつ。麹町の中継ブロックの地上入口を3か所、見つけた。植込みの中の換気口、ビル裏の点検口、そして坂下の通気孔。三角穴が残っているのは、そのうち2つ」
川端が広げた写真には、金属の格子と、指の幅の粉が写っている。黄色い、乾いた線。
志摩は視線を写真から付箋へ戻し、三角形の列をもう1つ書き足した。「“儀式”の順番がある。彼は段取りに忠実だ」
無線が短く鳴った。伊吹の声が、飄々とした調子の奥でわずかに弾む。
『北東の橋の換気塔、動きなし。通行人の流れも平常。……でも、“音”が違う気がするんだよなあ。風の抜け方っていうか』
「気のせいで片付けないのが、お前の長所だ」志摩は返しながら、机の隅の紙コップに手を伸ばした。冷めたコーヒーの薄い苦みが舌に残る。
『九重が地図で次点を出した。坂下の通気孔。粉の色、黄色強め』
「了解。こちらも麹町の入口の2カ所で“粉+三角”を確認済み。川端さん、現地を回れますか」
「回る。ただ、封緘シールが“純正”じゃない。誰かが古い在庫を持っている」
伊吹が口笛まじりに言う。『物持ちのいい人、いるんだよな。こういう時だけ役に立つやつ』
机上の電話が鳴る。市民団体〈リンク・ロード〉の益田咲良から、共有フォルダの更新通知だった。
《搬入口の遅延報告、18時台で計11件。保育園の閉門30分遅れ1件。救急の車両移動、院内での詰まり3件。市民への周知は“パニック回避のため抽象的に”。ただし入口に人の目を置くことを行政に要請中》
志摩は文章を2度読んで、短く返す。《感謝。入口に“見える人”を置く提案、警察でも検討》
電話を切ると川端が言った。「“見える人”は効きます。儀式は視線を嫌う。けど、露骨に囲むと別の入口に移る」
「だから、**“見えない張り”**と“見える人”の配分だ」志摩は時計を見た。「いったん受け持ちを決めましょう」
割り振りは、単純で複雑だ。
換気塔の根元に“何もない顔”で立つ係員。通気孔の影から死角を拾う撮影班。遠巻きに通過する巡回車。
伊吹は「巡回車やる!」と言ったが、志摩は首を横に振った。「お前は走る役。入ったら追う。走って、先回りして、立ち塞がる」
伊吹が肩をすくめる。「いつも通りじゃん」
九重は紙の地図を折り畳んでポケットに入れ、「僕は坂下の通気孔。粉の色、さっきより濃いはずです」と言った。
久我が静かに全体を見る。「UDI側(法医)から、旧防錆塗料の成分に燐酸ジフェニルの痕跡。古い配合だ。帆布繊維と粘着剤の残留も出た。川端さん、テープ痕の粘着剤の種類は」
「天然ゴム+酸化亜鉛。指の保護に使う古いタイプです」
「親指に白テープ」志摩が短く復唱した。「右の踵外側が減る歩き方。帆布の工具バッグ。ミントの包装紙を三角にちぎる癖。全部、入口に落ちる」
午後6時48分。
麹町の裏通りは、雨上がりのアスファルトが鈍く光っていた。川端は小型のLEDライトを手のひらに隠すように持ち、植込みの陰の三角穴にもう一度触れた。三角穴の縁には、ほんのわずかに爪で起こした跡。封緘紙の繊維が1本、風に震えている。
「新しい」
呟いた瞬間、ポケットのスマホが震えた。“減圧アラート・北東翼”。
同時に無線。『換気塔側、風が一段強い。音が変わった』伊吹。
川端は顔を上げ、道路の反対側に立つ九重に手信号を送る。九重が頷き、通気孔へと向かって走った。
志摩は車内で市の監視画面を開き、圧力と時刻のグラフが微妙に剝れていくのを見た。**“たった1分”**の差が、記録の顔を変える。
「来る」
呟きは自分に向けたものだったが、無線の向こうで誰かが返事をしたように錯覚した。
坂下の通気孔の前。九重は息を殺し、格子の影に身を寄せた。黄色い粉が昼より濃い。人の靴の跡。右外側。
通気孔の中で、金属が軽く鳴る。
「入口の入口だ」九重はわずかに体勢を低くし、格子の隙間から白いテープの親指を見た。
指先が三角頭に触れ、ゆっくりと回る。
九重は無線のスイッチを短く押し、「接触」とだけ伝えた。
次の瞬間、麹町中継ブロック・換気温度上昇のアラートが重なった。
志摩はステアリングを握り直し、ウインカーも出さずに車線を変えた。
「川端さん、同期盤は」
「坂下の裏。点検口の奥、左側のラック。封緘が新しければ、今日触られてる」
「了解。伊吹――」
『分かってる。走る』
雨上がりの空気は、靴底に吸い付くように重い。伊吹は呼吸のリズムを乱さず、換気塔から坂下へ、坂下からビル裏へ、“段取りの順番”に沿うように角を抜けた。
ビル裏の点検口は、知らない人間にはただの壁に見える。三角穴は地面すれすれにあり、しゃがまないと見えない高さ。
しゃがんでいる背中があった。灰色の帽子。
伊吹は足音を音にしないように近づいた。背中は角に近く、逃げ道は左右に1本ずつ。
「こんばんは」
言葉はやわらかく、意味は落ち着いているが、返答を期待してはいない。
男は振り向かなかった。親指の白テープが、三角頭から離れ、ゆっくりと体を起こす。
目が合った。
年齢の刻みは深い。水と風を長く浴びた人間の肌だ。
「ここ、入口です」伊吹は言った。「いじると、街が息を詰まらせる」
男は、静かに帽子の庇を指で押さえた。それは肯定にも否定にも見えない仕草だった。
「お前、音を聴いてるだろ」
伊吹の声が、雨のあとに残る匂いの中で透明に響いた。「“始まりの音”。今日も聴きに来た」
男の目が、ほんのわずかに揺れた。その揺れは“怒り”ではない、“寂しさ”でもない。確認だ。
「俺も、たぶん同じ音を聴いたことがある。夜勤の高速の入口で。町が寝ているときにだけ鳴る、小さな金属の声」
男は何も言わない。
伊吹は一歩踏み出した。逃げ道に背中を向けないように、斜めの位置をとる。
「今日は、1分は作らせない」
言った瞬間、背後で細い影が動いた。別の人間が、反対側の角に滑り込んだのだ。
伊吹は舌打ちを飲み込み、身体を半身に切った。“模倣の影”か。
志摩の声が無線で鋭く落ちる。「ビル裏、2つ同時。片方は囮。伊吹、対象の靴を見ろ。右外側」
伊吹は右の靴に視線を落とす。外側が薄い。本物だ。
囮のほうは、一般的なスニーカー。右外側は均一。目が合った瞬間、そいつは身を翻して逃げる。
「囮は任せる」伊吹は言った。「俺はこっち」
男は、一瞬だけ目を細めた。“走る男”を見慣れた目。過去に何度も、誰かとここで動線を交わした目。
「黒田巌さん」
名前が空気を震わせた。
男の肩が、わずかに、ほんのわずかに落ちた。
同時に、麹町中継ブロックの同期盤の封緘が“開”に変わった。
志摩は車を滑り込ませ、裏口のドアを抜け、ラックの前に立った。
封緘シールは剝がされている。三角頭ねじの回転痕が生々しい。
「川端さん、手順は」
川端が息を整えながら追いつき、装置の前に立った。「まずローカル時刻の停止、次に同期ラインの再接続、最後に時刻再配布。この順序を間違えると暴走します」
志摩は頷き、手袋をはめた。「やろう」
2人の間の空気が、急速に集中で満たされる。
“1分”が作られる前に、装置の“呼吸”を整える。
外では、伊吹と男が視線だけで動く会話を続けていた。
「あなたは、入口を守る人だった」
男の瞳が一瞬だけ生温かくなる。過去形。
「今は、入口で自分の仕事をしてる。俺たちは、入口に別の仕事をしてる。ぶつかる」
男が、帽子の庇を上げた。雨上がりの空の色が、瞳に映った。
「入口は、顔だ」
それが最初の言葉だった。しわが動き、声が出る。
「顔は、手を洗ってから触るものだ」
伊吹は頷いた。「だから、その手についた粉を、今日は街に流させない」
ラックの前。
川端の指が、シーケンスの最初のスイッチに触れる。
志摩がタイミングを読み上げる。「3、2、1——切る。同期ライン、挿し直す。時刻再配布、今」
装置のランプが一度だけ消え、ゆっくりと戻った。赤から緑へ。
麹町の“1分”は作られなかった。
外で、男がわずかに顔をそらした。儀式が途切れる音を、たぶん彼も聴いた。
「今日は、顔を洗えなかったみたいだ」
男は静かに言い、帽子を深くかぶり直した。
伊吹は前に出ない。出ない訓練を、今日は選ぶ。
「また来る」男が言う。
「来るなら、俺たちもここにいる」
男は踵を返し、雨の匂いを連れて角の向こうへ消えた。歩幅は一定。右外側が少しだけ擦る。足音に、**“始まりの音”**が微かに重なった。
同時刻。
囮を追った九重は、角でそれを捕まえ、壁際に立たせた。20代の若い男。目は泳ぎ、手は震え、ポケットからは安物の三角ビットが出てきた。
「誰に頼まれた」
「SNSで、5万。“三角の穴を回してみろ”って。止まってたら写真撮って送れって……」
九重は深く息を吸い、吐いた。「入口は遊び場じゃない。顔だ」
男はうつむく。「すみません……」
九重は手錠をかけながら思う。儀式は、模倣を呼ぶ。**儀式の“派生”**が街の周縁に芽を出している。
午後7時11分。
中継ブロックの室内で、志摩は川端と短く拳を合わせた。「助かった」
川端が笑う。「入口は、顔ですから」
「顔を洗うのは、俺たちの仕事じゃないけどな」志摩は小さく肩を竦める。「顔に付いた粉は落とせる」
「明日も同じことが起きます」川端はすぐに真顔に戻る。「入口はひとつじゃない」
「分かってる。だから、地図を増やす。粉の色と、音と、1分を並べる」
廊下で電話が鳴った。UDIからだ。三澄ミコトの静かな声が受話口に広がる。
『入口の粉、もう少し限定できそうです。年代とロットが絞れます。市の倉庫に、紙が残っているかもしれません』
「ありがとう。紙があれば、人にたどり着ける」
『人、です』
ミコトは短く言ってから切った。その一言が志摩の胸のどこかに置かれる。粉も、圧も、ズレも、人が作る。
外へ出ると、街の匂いが少しだけ軽くなっていた。雨に洗われ、入口の粉はどこかへ押しやられたのかもしれない。
志摩は空を見上げ、息を整える。“1分”は作らせなかった。だが、“次の1分”はもうどこかで準備されている。
彼はポケットから小さなメモを取り出し、三角形をひとつ、塗りつぶした。△1の横に、細くかすれた線を足す。
交錯した調査線が、一本の道に変わる時は近い。
だが、その先に立つのもまた、人だ。入口を作った人。入口で生きてきた人。入口をそっと触る人。
志摩はメモをたたみ、胸ポケットに戻した。
夜風が、薄く乾いた匂いを運んできた。黄色い粉の記憶。顔の匂い。
街は、まだ浅い呼吸を繰り返している。
そして、呼吸は、聞く者の耳にだけ、確かな音になる。
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