人魚と魚

衣ノ揚

第1話

 深い深い海の底に広がる私たちの街には、昼も夜もない。

 規則的にそびえるビルは貝殻とサンゴの複合材でできていて、表面は虹色の光沢を放っている。

 ビルの間を、 透明な筒のような水路が走っている。水圧を調整した筒の中を、車両が音もなく滑っていく。これは「ハイ・タイド・ロード」と呼ばれていた。

 街の中心街には「泡通り」と呼ばれるショッピングエリアがあり、化粧品店では、真珠のハイライトや海藻のマスカラが売られている。


「ご協感謝します……すみませんでした」

 警察の彼はそう言うと、私を交番から解放した。

 図書館から帰る途中、たまたま職務質問を受けた。

 私がリュックから筆談用の紙とペンを取り出そうとした時、彼は私が凶器を取り出すと勘違いしたらしく、その場で両手を上げるように命じてきた。

 しばらく鋭い目つきでこちらを見ていたお兄さんも、私の事情を理解すると、申し訳なさそうに謝った。

 世界が急激に発展している反面、治安が悪くなりつつあることも否定できない。

 彼の美しいエメラルドの鱗が、ストレスか何枚か禿げているのを見て、責めるのはお門違いだと思った。


 私は気分転換に、借りた本を読むことにした。

 とはいえ、なんだか、家に帰る気分ではない。暗い顔して帰ったら、家族に心配かけちゃうし、落ち着くまでひとりでゆっくりしたかった。

 人気ひとけのない場所を求めて、街頭の無い暗い方へ泳いでいると、いつの間にか、日光が届いてやや明るい場所に辿り着いた。そこは、古びた商店街だった。

 どこのシャッターも降りていて、明かりもない。お化けでも出そうな雰囲気だ。だが、私はそういう霊的なものは信じていない。テレビ番組の、少年の肩に置かれた女性の白い掌も、コラージュに決まっている。

 という訳で、多少座り心地に欠けてはいるものの、読書するには十分なベンチの上のゴミを、手でバタバタさせて落とし、腰掛けた。

 小説を読むのは好きだ。自分のことを蚊帳の外に置いて、ただただ物語の進行をただ眺める。この時間が安らぎだった。


『When Marnie Was There』

 陸に暮らしているらしい、人間という生き物が書いた本だ。

“Some friendships will last forever”というキャッチコピーに惹かれて、気づけば手に取っていた。

 外国語の本だから、全てを理解するのは難しい。でも、私は陸言語の英語を、少しだけ勉強している。英語は、陸言語の中でも比較的難易度が低いのだと、学校の先生が言っていた。

 辞書で調べながら時間をかけて読めばきっとなんとなくのストーリーは理解できるはずだ。


 ページを開く。

 1ページ目から、タイトルの下に、文章が連ねられていた。物語が始まったのかと思ったら、導入部分だった。1文目から、”barrister”という知らない単語が出てくる。単語を調べつつ読み進めてみると、どうやらこれは第三者が書いた文のようで、筆者の人生について語られていた。


 難しい。本は題材的に児童向けのように思えるが、非ネイティブが読むにはいささか難易度が高い。

 でも、この本は私にとって読む価値がある。導入部分を読めば、これが私の為の本であることはよく分かった。

 これは当たりだ。ワクワクしながら、時々頭をひねって読み進めていると、皮膚が水の流れを感じた。すぐ近くで誰かが泳いでいる。

「おい! その本寄越せ!」

 その時、背後から声が聞こえた。急いで振り返ると、そこには1匹の魚が漂っていた。トビウオ、だろうか。

 周りを見渡しても、他に何もいない。

 さ、さ、さ、魚が、喋った!?


 私は混乱していた。

 魚は言葉を話さない。それは、世界の常識だからだ。

 困惑してフリーズしていると、魚はまくし立てるように語りかけてくる。

「人を呼んだって無駄だぞ。他に誰もいないことは確認済みだからなぁ」

 私は急いでリュックからノートとお気に入りの太軸のペンを出す。急いで書きなぐり、それを喋る魚に見せた。

『この本は、図書館から借りた本だから、あなたにあげられない』

 それから、持っていた本を胸の前でギュッと抱えた。

「へぇ……君声が出ないのか。魔女にでも奪われた?」

 察した魚は、そう言いながら私の周りをぐるぐると泳いだ。

「これ、よく見たら俺が知ってる言葉で書かれてないね。どうせ読めないからもういいや」

『あなたは、どうして話せるの?』

「そうだね……俺は実は君と同じ半人魚で、魔女に魚の姿に変えられてしまったのさ」

 なんて酷い話なんだ。これから、魔女に抗議に行こう。

「嘘だよ。なんでも信じるんじゃないよ。生まれつきさ」

 思わずベンチから立ち上がった私を見て、彼はヒレをバタバタさせた。それがどういう意味なのか分からなかったけれど、喋る魚は楽しそうに笑っていた。

「君は?」

『アンナ』

「そう。俺はマリン」

 私は握手しようとして手を差し出し、彼に手がないことに気がついてひっこめた。

「アンナ、どうせ君は暇なんだろう? こんなとこで陸言語の本なんか読んで、きっとそうに違いないね。俺は、半人魚のことは好きじゃないが、君のことは歓迎するよ」

 暇な訳ではない。することがないだけだ。

「君は文字通り口が堅そうだからね」

 彼はそう言うと、また胸びれをパタパタした。


 次の日も、授業が終わると、喋る魚の彼――マリンは既にそこで待っていた。約束を破ることも、好奇心に逆らうことも私には難しかった。

「早かったな」

 彼は、一方的に話し続けた。

 半人魚は海を支配者であり、人間と同様に、叡智ある生き物だ。地球の陸は人間が、海は半人魚が牛耳っている。

 マリンは、半人魚から隠れて生活しているのだと言う。

 もし、喋れることがバレて騒ぎになったら、最悪捕まえられる。水族館で観賞用、日々の食用として扱われる魚が、言葉を発したとなれば、世間の目は決して暖かくはないだろう。

 逃げるように生活するのも、納得できる。

 彼は、声の出せない半人魚なら、自分のことを周りに広められないので好都合だと思い、私に近づいたようだった。

 マリンは随分とお喋りだった。

「仲間は言葉を話さないし、お前たち半人魚に見つかったら困るしで、俺ずっと黙ってるんだ。君みたいなしゃべり相手がいることが、こんなにいいものだと思わなかった」

 私はただ相槌を打つだけだったが、彼はエンドレスに話し続けた。


 私は、自分が彼の聞き役になれていることが嬉しかった。気遣いではなく、彼にとって本当に私が適役であることが嬉しかった。

 トビウオである彼は、よく移動するし、地上のことも詳しい。私にとっても、マリンの話は面白い。

 利害の一致で私たちの関係は、お互い気が楽だった。

 私は、毎日のようにこの古ぼけた商店街に通った。学校終わりのこの時間は特別なものになっていった。

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