木犀の香に雨が染む
citta×ponta
序
名づけ
<小野
昭和四九年、三月の下旬。
厳しい冬から散り積もった雪は春の日差しに融け、照りつけられた草木がいや生繁る季節。芽吹きかけの小花たちが萌える日をいまか、いまかと待ちくれ震えている。
岐阜県飛騨の神岡町に、
高原川の激しくも豊かな音色が溶ける古美やかな町並みを、一台の車が駆ける。
まだ予定日より随分と早い陣痛だった。
病院に駆け込むと、「呼春さん」と呼ぶ看護婦さんはもう顔見知りで、「あら、葉一さんもそんな青い顔しちゃって。これで五回目でしょう。相変わらず初々しい夫婦ねえ」なんておどけた感じ。そんなふうに言われても痛いものは痛いし、怖いものは怖い。
六年前に長女が生まれた。翌年に長男、また翌年に二女が生まれ、そこで葉一さんとはちょっと一休みをして、三年後の昨年に三女が生まれた。
そしていま、このお腹をふくらませている子は女の子と聞いている。
長男には女の子ばかりで申し訳ないけど、寂しい思いをさせないように追々の努力で解決するとして、いまは、これから生まれてくる四女のため、わたしは精一杯に命を絞る。
こうして小野家に、新しい子供が生まれた。
疲弊した心身を葉一さんが慰めてくれる。このひとは柔和な見かけに寄らず手が大きい。剣を握ってできた豆で皮が分厚くって、わたしの肩を抱きしめてくれると毛布みたいに温かい。
葉一さんの胸に頭を預けて、わたしは掠れ切った喉で話した。
どんな名前にしようか。じつは病院の道すがら、思いついた名前があるんだよ。不安でいっぱいの車窓から、枯れた土に芽吹きかける小花の健気さを見つけて、お腹の子が無事でいてくれますようにって、そう願っていたの。
そうしたら葉一さんは優しく微笑んで、「僕も呼春さんと同じものを見たよ。それじゃあきっと考えた名前も同じだね」と、汗を吸った髪の毛を撫でつけてくれた。
ああ、いったいどんな子に育つのかな。
わたしに似てせっかちな子かな、不器用な子かな。葉一さんに似て優しい子かな? 葉一さん、わたしたちで幸せな子にしなくちゃいけないね。ほかの子たちと仲良くしてくれるかな。わたしたちと仲良くしてくれるかな。
話していたらちょっと疲れてきてしまって、まぶたを閉じていると、ぱたぱたと足音が近づいてくる。「呼春さん、葉一さん、たいへん!」と、看護婦さんが慌てた様子で子供を運んできた。
わたしたちは怖くなって、飛び跳ねるように顔を上げる。
やけに静かに泣いている声が聞こえて、元気がないわけではなさそうだけど。
運ばれてきた四女の顔を覗き込む。
わたしは、葉一さんと顔を見合わせた。
本当にわたしたちの子ですか? あらためて確認しても、看護婦さんは頷くばかり。子供を取り違えたわけではないみたい。あまりにも不思議で、わたしたちは黙り込んでしまう。
その女の子は毛髪の色素が薄く、透き通った瞳が、桜色に輝いていた。
わたしとも葉一さんとも似つかない、日本人離れした容姿をしていた。
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