第7話 プラチナム・サタデー〜拍手なき旋律と、心に残る一杯〜
夜の始まりは、グラスが重なる小さな音からだった。
それは言葉にならない挨拶のように、静かに夜を開いた。
『KITANO GARDEN』街の坂を登りきったその場所に、今夜だけ開かれたナイトパーティ。ドレスコードは「月光と調和するもの」。
控えめな光がガーデンを照らし、生演奏のピアノとトランペットが揺れている。
東條ナオはバーカウンターの中で、ひとつひとつ氷をグラスに落としていた。
しゃら、しゃら、と沈黙の代わりに音がする。 スーツの袖は少しだけ濡れている。準備中の通り雨の名残だ。
「毎年、このイベントは空気が違いますね。」
そう声をかけてきたのは、花の搬入を終えたばかりの山根カズキだった。
「ええ。静かな照明に花が映えるよう、設計してるみたいです。」
「じゃあ、その雰囲気でつられて、こっちは飲みすぎないように気をつけないとね。」
カズキが小さく笑って去ると、ナオはシェイカーに手を伸ばした。
客たちは、ゆっくりと集まり始めている。
喧騒はない。けれど、期待という温度だけが、グラス越しに伝わってくる。
カウンターの前に、ひとりの女性が座った。黒髪をゆるく束ね、深いグリーンのドレスをまとっている。
周囲とはどこか距離をとっているような佇まい。だが目だけは、何かを探している。
「カクテルに詳しくないの。甘くなくて、でも、静かな味がいいわ。」
ナオは頷くと、グラスを冷やし、リキュールの小瓶を2種選んだ。
ひとつは無色透明のハーブ酒、もうひとつは薄いプラチナシルバーのスピリッツ。
氷の音とともに注がれた液体が、グラスの底で静かに層を作る。
「いただくわ。」
彼女は一口、口に含み、しばらく目を閉じた。そして、グラスを持ったまま、ほんの少し笑った。
「……ありがとう。きっと、音楽と似てるわね。」
グラスを置いた彼女は、小さく微笑んだ。
「混ぜすぎても、足りなくてもダメで。ちょうどよさって、難しいわね。」
ナオはグラスを拭きながら、頷いた。
「そうですね。たぶん静かにしたい時ほど、人は音や味に助けを求めるのかもしれませんね。」
彼女はグラスを回しながら、そっと目を伏せた。
「……それでも、少し救われた気がするわ。」
沈黙が、少しのあいだ流れる。
ふたりとも、何かを言いかけては言わず、ただ時間だけがグラスの縁を回る。
ふいに、空からひとしずく。すぐに雨が来ると分かる、夏の湿った風だった。
「雨天中断とさせていただきます!」
司会の声に、客たちはガーデンから建物内へ流れていく。音楽も、光も、途切れた。
人の波が去ったあと、ナオはバーカウンターの端で片付けを始めた。
そしてふと、あの女性がまだ残っていることに気づいた。
彼女は、誰もいないホールの奥にある、アップライトピアノの前に立っていた。
ナオは声をかけなかった。ただ、グラスを磨く手を止めた。
彼女は鍵盤の前に座り、両手を膝に置いたまま、しばらく動かなかった。
音を出すか、それとも飲み込むか。
そんな間が、夜の空気に張り詰めていた。
が、やがて、ひとつ目の音が、夜の空気を震わせた。
──『What Are You Doing the Rest of Your Life?』
柔らかく、しかしまっすぐに。
言葉の代わりに、彼女の過去と静けさが、音になっていく。
それは、拍手のない演奏だった。
ただそこに、静かに“彼女という音”が流れていた。
演奏が終わっても、拍手はなかった。そもそも聴いていたのは、ナオただ一人だったから。
彼女はピアノの前で深く息をつき、立ち上がると、ゆっくりとカウンターへ戻ってきた。
ナオは彼女が戻るのを見計らって、新しいグラスに同じカクテルを注いで差し出した。
「…少し、昔の自分に会った気がしたわ。」
ナオは、無言で新しいグラスを差し出した。
淡い光を受けてきらめくカクテルを、彼女は一瞬だけ見つめてから受け取る。
一口、口に含んで──そっと笑った。
「……今度のは、最初よりも、心に染みるわ。まるで、あの音が少しだけ、グラスに残っていたみたいに。」
グラスを静かに置きながら、そう呟いた。
ナオは軽く礼をするように首を傾けた。彼女は少し間を置いて、ふと笑いながら言った。
「ねえ、あなた、カクテルって……飲みたい時より、話したくない時に頼むものじゃない?」
「そうですね……言葉より先に届くものが、たまには必要かと思いまして……」
彼女は小さく吹き出す。
「今夜は、少し効きすぎたかもしれないわね。」
沈黙が、少しのあいだ流れる。
ふたりとも、何かを言いかけては言わず、ただ時間だけがグラスの縁を回る。
やがて彼女は立ち上がり、ハンドバッグを肩にかける。
「…さっきのカクテル、名前あるの?」
ナオはグラスを見つめたまま答えた。
「ありません。アレは、今日だけのものです。」
「……じゃあ、名前は訊かない。でも覚えておくわ、この味。」
ナオはわずかに微笑むと、静かに言った。
「僕も、さっきのあの音、ずっと覚えているよ。」
彼女は何も言わず、小さく頷いてその場を去った。
ゆっくりとしたヒールの音だけが、ガーデンの石畳に残った。
ナオはひとり、空になったグラスを磨きながら、目を閉じた。パーティは終わっていた。
照明が落ち、花だけがまだ瑞々しく咲いていた。
「いい夜だったな。」
独り言のように呟くと、背後の扉が音もなく開いた。
花の籠を抱えた山根カズキが、最後の片付けに来ていた。
二人は軽く会釈を交わすと、それ以上は言葉を交わさなかった。
夜の坂道は、静かだった。
それでも確かに、誰かの心に、そっと灯った音があった。
響きは消えても、記憶だけは、夜に残ったまま。
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