奏での忘れ歌
緤
死後の旋律
第1話 奏での扉
薄闇の中、男の瞼がゆっくりと開かれた。
知らない天井。冷たい空気。どこか懐かしくも遠い、無機質な教室の匂いが鼻をかすめる。
「……ここは、どこだ……?」
男は、朦朧とした意識のまま身を起こした。
木製の机と椅子が整然と並び、壁には古びた楽譜や色褪せたポスターが貼られている。
窓の外には紅葉が揺れているのに、風の音も小鳥のさえずりも聞こえない。
不自然な静けさが、空間全体を包み込んでいた。
「……なんで、俺……ここに?」
頭が重い。言葉も思考も、どこか遠くでこだましているようで、うまくつかめない。
だが確かに、自分の名は覚えていた。春海
そして――詞を書くこと、旋律を紡ぐことが、ずっと好きだったという記憶だけが確かに胸にあった。
ふと視線を向けると、黒板の上に一枚の楽譜が掛かっていた。
黄ばみ、掠れた音符の羅列が、妙に心に沁みる。
触れたいと思ったその瞬間、指先が勝手に動いた。
そのとき。
ぬるり、と空気が歪んだ。
教室の隅に、黒い影がじわじわと滲み出す。
それは、破れた楽譜の切れ端のように不規則な形をしていたが、明確に“何か”の意思を帯びていた。
「……誰だ?」
影は何も答えず、ただ赤い光を孕んだような“目”だけが、響を見ていた。
「ウタヲ……カエセ……オモイヲ……カシテ……クレ……」
音にならない呻き声。
その存在が何なのかはわからない――だが、恐怖よりも先に、奇妙な既視感が響を襲った。
(知ってる……? いや、これは……)
次の瞬間、影が襲いかかる。
身体が動かない。声が出ない。だが、胸の奥で微かに響く旋律が、意識を呼び起こす。
(……歌え……俺の、詩を……)
自然と口を突いて出た言葉は、いつか書きかけていた未完の詩だった。
「――忘れない、君の声も、君の想いも……
ここに、ずっと、奏で続けるから……!」
その瞬間、淡い光が響の身体を包んだ。
揺れる空気のなかで、詩が“響いた”。
黒い影がのたうち、音を上げて溶けるように霧散していく。
音もなくなった。教室には、再び深い静寂が戻っていた。
響はその場に膝をついた。
けれど、恐怖の代わりに、何か温かなものが胸の内にあった。自分の詩が、確かに“誰か”に届いたという感覚が残っていた。
「……俺、何かしたのか……?」
その問いに答えるように、ふっと空気が震える。
どこからともなく、声が降ってきた。
「――よくやったな、春海響」
男とも女ともつかない、冷ややかで、それでいて包み込むような声だった。
声の主は見えない。だが、確かに近くに“誰か”がいた。
「
「……誰だ?」
問いかけても、返事はなかった。
ただ、教室の空気に染み込むように、その気配は静かに消えていく。
沈黙の中で、響は胸に手を当てた。
響いていた旋律はもう聞こえない。けれど、その余韻だけが、まだ確かに残っていた。
そして、彼はようやく気づいたのだ。
この場所が、どこでもない“境界”なのだと。
現世とあの世のあいだ。忘れられた詩が流れ着く、そんな場所。
「俺は……死んだのか……?」
ぽつりと呟いた言葉に、誰も答える者はいなかった。
だが、確かに感じていた。
この場所にはまだ、自分の歌が必要とされる理由があることを。
夕暮れの光が差し込む教室の隅で、響は静かに目を閉じた。
物語はまだ始まったばかりだった。
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