次元の狭間でママ始めました。ただしお客様は人外に限ります。
すまげんちゃんねる
序章 - 人ならざる者たちの交差点
第1話 呪いで声が媚薬になったセイレーン
カラン、と重いグラスがカウンターに置かれる音。
それがこの店の静寂だ。
次元の狭間にひっそりと浮かぶスナック「アニマ」。
地図には載らない。
たどり着けるのは、己の人生に迷った魂だけ。
カウンターの隅、指定席とばかりに紫煙をくゆらせる男がいる。
名はクロウ。どんな品でも次元を超えて運ぶ、超一流の運び屋だ。
彼の隣にはこれまた規格外の巨躯を持つ男。
名はカイ。かつて魔王を屠り世界を救い、そして平和に飽いた元勇者。
「フン。またくだらんガラクタを持ち込んだのか」
カイがクロウの手元にある小さな木箱を睨む。
「…これはガラクタじゃない。ロマンだ」
「ロマンで腹は膨れん」
「勇者様は腹が減るのか。羨ましいことで」
いつもの光景。
真面目な元騎士の少女アストリッドが、ため息混じりにグラスを拭く。
「お客様。お静かにお願いします」
「アストリッドちゃん真面目だねぇ」
カウンターの内側から気の抜けた声がする。
怠け者の天才魔法使いレナだ。彼女は指先から小さな魔力の渦を出し、おしぼりを勝手に温めている。仕事をサボるための魔法だけは超一流だ。
この店の心臓。
この店の絶対的支配者であるママ、ルージュは静かに微笑んでいただけ。
妖艶な赤いドレスに身を包んだ彼女が、カウンターの内側に立つ。
ただそれだけで、この混沌とした空間はひとつの完璧な『絵』になる。
彼女の正体は伝説の魔剣。
持ち主の魂を喰らい、永い時を経て人の姿を得た存在。
もちろんそんなことを知る者は、この店にもほとんどいない。
その時だ。
チリン、と古びたドアベルが、場違いに可憐な音を立てた。
入ってきたのは、一人の少女だった。
深い海の青を溶かしたようなドレス。濡れたようにきらめく長い髪。
誰もが息をのむほど美しい。
だが尋常じゃない。
彼女が存在するだけで、店の空気が甘く痺れるような香りに満たされていく。
店にいた三人のモブ客が、途端にとろんとした目つきになる。
カイの眉がぴくりと動き、殺気にも似た闘気がわずかに漏れた。
クロウは気怠げに煙草の火を消す。
レナは「おや」と魔力サボりをやめ、興味深そうに目を細めた。
少女がおずおずと口を開く。
その声は、まるで蜂蜜に溶かした真珠のようだった。
「あ、あの…ここが、悩める魂を救うお店だと…聞いて」
瞬間。
三人のモブ客が椅子からずり落ちそうになった。恍惚とした表情で。
アストリッドが慌てて彼らを支える。
「だ、大丈夫ですか!」
だがモブ客は少女を見つめたまま、だらしなく笑うだけだ。
「フン…やかましい小鳥だ」
カイの低い声が響く。それはあからさまな敵意だった。
少女の肩がびくりと震える。
だが、ルージュだけが動じない。
彼女は客席をゆっくりと見渡し、美しい唇で完璧な微笑みを作った。
「いらっしゃい、可愛いお客様。どうぞこちらへ」
その声には誰をも魅了する媚薬効果などない。
だが誰をも黙らせる、絶対的な『格』があった。
「私の声…呪われているんです」
カウンターに座った少女、コーラリアは涙を浮かべた。
ルージュに促され、事情を語り始める。
「私はセイレーン…歌で船を導き、時には心を惑わす一族です。でも私は歌だけでなく、この…普通の話し声までが、男性を狂わせる媚薬になってしまう呪いをかけられました」
「呪い、ですか」
アストリッドが同情に満ちた声を出す。
「はい。嫉妬した森の魔女に…こんなのおかしいです。歌う時ならまだしも、ただ話すだけなのに…」
コーラリアが俯く。
その声のせいで、ルージュの隣に立っていたアストリッドまで少し頬を赤らめている。
「先日も、故郷の村の井戸が枯れてしまって…その深刻な相談を長老にしていたら…長老は私の顔を見て、『君の瞳が井戸なら、私は喜んで溺れるのだが』なんて言い出す始末で…」
「そ、それは非道すぎる!」
アストリッドが拳を握りしめる。
「真剣な話が、何一つできないんです。私、ただ…普通に話がしたいだけなのに」
「へぇー。面白い呪いじゃん」
レナがカウンターに頬杖をつきながら言った。悪気はない。純粋な好奇心だ。
「声帯に直接作用する強制魅了と、精神に働きかける感応呪術のハイブリッドかぁ。かなり高度な術式だね。ちょっと解析させてもらってもい…」
「レナ!」
アストリッドが嗜める。
「自業自得だろう」
氷のような声が、背後から突き刺さった。カイだ。
「歌で人を惑わし破滅させるのが、お前たちセイレーンの本性。その声は呪いなどではなく、お前の魂そのものが持つ性質じゃないのか」
「ちが…違います!」
コーラリアが顔を上げた。その瞳には悔し涙が滲む。
「歌うことと、話すことは違います!私は、好きで人を狂わせているわけじゃ…!」
ふと、今まで黙っていた運び屋のクロウが口を開いた。
「…森の魔女。リブルの谷の魔女か」
コーラリアは驚いて彼を見た。
「え…どうしてそれを」
「あの魔女は嫉妬深いので有名でな。自分の庭の花より美しい花は全て枯らす。お前の声が、よほど気に入らなかったと見える」
淡々とした事実。だがそれは、コーラリアの呪いが本物であることを裏付けていた。
コーラリアは再び俯き、か細い声で呟いた。
「呪われる前から…そうでした。私は歌が好きで、ただ皆に聞いてほしくて歌っていただけなのに…。私の歌を聞いた船乗りは航路を忘れ、私の歌を聴いた王子は婚約者を捨てた…」
ぽつり、ぽつり、と。
彼女の魂から零れ落ちる、過去の後悔。
「みんな、私のせいだって。私が、あの人たちを狂わせたんだって…」
それは悩みというより、懺悔に近かった。
「だから…もうこんな力、いらないんです」
店の空気がシンと静まり返る。
誰もが彼女の悲痛な告白に言葉を失った。
その時だった。
カウンターの内側で、ルージュが静かに、だがはっきりと告げた。
まるでコーラリアの独白の続きを、知っていたかのように。
「可愛いお客様。あなたは呪いを解きたいんじゃないのね」
コーラリアが顔を上げる。
その目は、何を言われたのか分からないという戸惑いに揺れていた。
ルージュは慈愛に満ちた、しかし全てを見透かすような瞳で彼女を見つめる。
「あなたの魂は、熟成された悲しみの味がするわ。でもその奥に、ほんの少しだけ…狡猾な安堵の香りも混じっている」
「安堵…ですって?」
「そうよ」
ルージュはゆっくりと言葉を続けた。
その声だけが、店の隅々まで支配していた。
「あなたは呪いを言い訳にしたいだけでしょう?」
「な…!」
「自分の持つその強大な歌の力。それがもたらす結果と責任。その全てから逃れるための、最高の言い訳を手に入れた。そうじゃないかしら?」
図星だった。
コーラリアの顔から、さっと血の気が引く。
唇がわなわなと震え、何も言い返せない。
そうかもしれない。
呪いをかけられ、普通の会話すらできなくなった時、悲しみと共にどこかでホッとしていた自分がいた。
『私のせいじゃない』
『これは呪いのせいだ』
そうやって、自分の力が招いた悲劇から目を逸らすことができたのだ。
ルージュはコーラリアの魂の揺らぎを、満足そうに味わっていた。
「素晴らしいわ。その葛藤、その欺瞞。実に複雑で、奥深い味わいよ」
彼女はすっとシェイカーを手に取った。
カラン。氷が一つ、シェイカーに放り込まれる。
その音は、まるで宣告のゴングのように響いた。
シャカシャカシャカシャカ…!
リズミカルに振られるシェイカー。
アストリッドもレナも、カイもクロウも、固唾を飲んでその光景を見守る。
やがて、冷気をまとったシェイカーから、澄み切った液体が冷えたカクテルグラスへと注がれた。
そこには、ただの水のように無色透明な液体がなみなみと満たされているだけ。
飾り気は一切ない。
ルージュはそれを、コーラリアの目の前に静かに置いた。
「『サイレント・ヴォイス』」
カクテルの名を、彼女は囁くように告げた。
「音を殺す魔法をかけたわ。これを飲めば少しの間、あなたの声は何の力も持たなくなる。誰かを狂わせる媚薬の効果も、誰かを魅了する歌の響きも、全てが消える。あなたはただの、声の小さな女の子になれるのよ」
ルージュは妖しく微笑む。
「さあ、どうするの?一気に飲み干して、その忌々しい呪いと、その煩わしい力から解放される?それとも…」
「…………」
「それが本当に、あなたの望みなのかしら?」
究極の選択。
コーラリアの視線は、目の前のグラスに釘付けになった。
これを飲めば、楽になれる。
もう誰かを傷つけることもない。誰かに責められることもない。
ただの女の子として、静かに生きていける。
だが、本当に?
歌を失った私に、何が残る?
誰の心も揺さぶれない、ただの音を発するだけの私が、生きている意味はあるの?
矛盾した感情が、嵐のように彼女の中で渦巻く。
力を憎みながら、誰よりもその力に固執していたのは、自分自身だったのだ。
長い長い沈黙だった。
一分か、一時間か。
店内の誰もが、彼女の決断を待っていた。
やがて。
コーラリアはゆっくりと顔を上げた。
その頬を伝っていた涙は、いつの間にか乾いていた。
彼女は目の前のグラスにそっと手を伸ばす。
だが、それを手に取ることはなかった。
代わりに、グラスをくい、と押し返す。
「……いいえ」
静かな、だが芯の通った声だった。
不思議なことに、その声には先ほどまでのねっとりとした甘さがない。
ただひたすらに、澄み切って響いた。
「私は、逃げません」
彼女は自分の両手を強く握りしめる。
「私の声から。私の歌から。そして、私の力が引き起こした、全ての結果から」
コーラリアは席を立ち、ルージュに向かって深く頭を下げた。
「ありがとうございました、ママ。私、自分の本当の望みがわかりました」
そう言って顔を上げた彼女の瞳には、強い光が宿っていた。
それはまるで、夜明けの海の色だった。
店を出ていくコーラリアの背中は、入ってきた時よりもずっと小さく見えた。
だが、その一歩一歩は、確かな重みを持っていた。
チリン、とドアベルが鳴り、彼女の姿は夜の闇に消えていく。
「……彼女、大丈夫でしょうか」
アストリッドが心配そうに呟いた。
カイが鼻を鳴らす。
「フン。茨の道を選んだな。力に振り回されるか、力を支配するか。見ものだ」
グラスに残された『サイレント・ヴォイス』。
ルージュはそれを優雅に手に取ると、一滴残さずシンクに流した。
「ふふ」
空になったグラスを丁寧に拭きながら、彼女は満足げに微笑む。
「最高の物語になりそうだわ」
そして、ルージュはカウンターの向こう側から、まるであなたの魂を見定めるかのように、まっすぐに見つめて言った。
「ねえ、あなたもそう思わない?」
カラン。
どこかで、氷の溶ける音がした。
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