第3話 痕跡


 朝の支度をしながら、神谷 想(かみや・そう)はいつものようにカレンダーを確認した。


「今日は……シャンプー、ね。OK」


 指で今日の予定を確認する。 だがその視線が、ふとひとつ隣──水曜日に止まった。


『6/4(水) ワインラボ 19:00〜』


「……え?」


 見覚えのない予定が書き込まれている。

 不意に不安になり、スマホを取り出して履歴を確認すると── 数日前に「ワインラボ メニュー」で検索した形跡が残っていた。


「……意味わかんねぇ」


 目をこすりながら机に目をやると、そこにレシートが一枚、無造作に置かれていた。


──ワインラボ

グラスワイン ×5

手作りピザ ×1

タパス盛り合わせ ×1

合計:4,700円(税込)


 想は無言で読み上げる。

だが、まったく身に覚えがない。


「飲みすぎたのか……? ワイン5杯で記憶飛ぶようになったのか、俺……」


 記憶がないことよりも、酒に飲まれてしまったことへのショックが大きかった。

──もう若くない、という焦りさえ感じる。


 だが、身体にまったく異常はない。

酒を5杯飲んだにしては、頭も胃もすっきりしていた。


「……飲み過ぎには、気をつけよう……」


 自戒めいた独り言をつぶやき、職場へ向かった。




 いつものように自販機でホットコーヒーを買い、財布を閉じかけた瞬間──ふと気づく。


「……あれ?」


 財布の中身が、火曜日の夜から減っていない。


「……昨日、ATMで下ろしたんだっけ?」


 いや──していない。

レシートがあるのに、現金は減っていない。

違和感が、じわじわと胸に広がる。


「おはよう、想!」


 元気な声とともに、同僚がいつにも増してテンション高く話しかけてきた。


「おはよう。……なんだよ、めちゃくちゃ元気じゃん」


「いや〜、お前こそだろ?」


 にやにやしながら肘で小突いてくる。


「お前、昨日はお楽しみだったな〜?」


「……は?」


「とぼけんなよ。ワインラボで飲んでたろ、女の子と。あの子、誰なんだ?」


 想の動きが止まる。

──まったく覚えがない。


「仲良く話して、楽しそうに店に入ってったじゃん。あれ彼女? ついにやったな〜この裏切り者!」


「……いや、違う」


「ははーん。さては振られたな?」


「は?」


「ちょっと顔がいいからって調子乗るから……そうなるんだよ!」


「……言ってろ」


 軽口を交わしつつも、想の頭の中は真っ白だった。


 レシート、予定、検索履歴、そして目撃証言。

ひとつひとつは説明できる気がしていたが、並べてみると──“なにも説明がつかない”。


「……ただの飲み過ぎ、じゃないな」


 水曜日の記憶は、まるごと抜け落ちている。

“朝から夜までの全行動”が抜け落ちたまま、日常が再開している。


 それは偶然ではない。そんな気がしていた。


「──水曜日に……何かが起きている」


 確信にも似た予感が、胸の奥でゆっくりと形を成していく。


 彼の身に何が起きているのか。

その真相は──まだ誰も知らない。




第3話 了

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