実話怪談集
AGE
第1話 バケツ
※これは筆者が現役教員の瀬川さん(仮名・50代男性)から直接聞き取った体験を再構成したものである。
舞台は中部地方の市立中学校。瀬川さんが新任で赴任して間もない、ある雨の夕暮れの出来事だ。学校は東西に長く、東側には昇降口や職員室、保健室、事務室などが集まっていて、朝から放課後まで常に人の出入りがある。
一方、西側は普通教室の並びのさらに奥に特別教室や倉庫があり、4階の端まで行くと突き当たりに非常階段がある。
「西の端って、空気がちょっと違うんです。薄暗くて、音が籠もるというか、歩くと靴音がやけに響く。空気が動かない感じがあって、夏でもひんやりしてる」
その非常階段のドアの前は、半ば物置き場のようになっていた。古い段ボール箱、壊れた机の脚、壁に立てかけられたモップの柄や掃除用具。
そして、その一角に灰色のプラスチックバケツが一つ、いつも置かれていた。
バケツは学校備品によくある業務用のタイプで、少し色が褪せ、縁には細かいひびが入っている。持ち手の金具は錆び、何度も水を汲んだ跡が内側に輪状の筋となって残っていた。
別に不気味なものではなく、ただの掃除用具の一つ――そう瀬川さんも思っていた。
「それが、そこにあるのが当たり前になってたんです。誰も動かさない、動かそうともしない。場所が決まってるかのように、いつも同じ位置にある」
出来事があったのは、梅雨の終わり近く。
昼前から降り始めた雨は次第に強まり、放課後になっても小降りになる気配がなかった。灰色の雲が低く垂れ込め、西側の廊下の窓ガラスは絶え間ない雨粒に覆われていた。
その日、部活動はほとんど中止になり、生徒たちは早めに下校した。廊下から聞こえるのは、時折水を打つような雨音と、遠くの階段を降りる足音だけ。
瀬川さんは職員室で事務作業をしていたが、ふと思い出したように立ち上がった。理科準備室に置きっぱなしの資料を回収しなければならない。
理科準備室は西校舎の奥にある。普段なら何のためらいもなく行く場所だったが、その日は雨のせいで廊下の奥が妙に暗く、重苦しく見えた。
西校舎の廊下に足を踏み入れると、音の質が変わった。
東側の明るい廊下では、蛍光灯の微かな唸りや教員の声、生徒の笑い声が混ざっている。だが西側は、雨音と自分の靴音だけが支配していた。
窓の外は滝のような雨で、視界は数メートル先まで白くかすんでいる。
「歩きながらね、だんだん音が遠くなるんですよ。自分の足音だけが残って、他の音が全部削ぎ落とされるみたいな感覚になる」
床は雨で湿気を帯び、わずかにぬめりを感じる。蛍光灯はところどころが切れかけていて、足元に落ちる光はまばらだった。
非常階段のドアが見えてきた。
ドアはいつもと同じ重厚な鉄製で、その隣に例のバケツが――あるはずだった。
だが、いつもの位置から少しずれていた。
壁際にきちんと収まっているはずが、今日は廊下の中央寄りに出てきている。まるで通路を塞ぐかのように、わずかに前にせり出していた。
「そのときは、掃除のときに誰かが動かしたんだろう、くらいに思いました。でも、近づいたら……様子が違うのが分かったんです」
バケツの縁から、濡れた黒髪が垂れていた。
雨水を吸い込んで束になった髪は、艶を失い、先端からは水滴が「ポタ、ポタ」と音を立てて床に落ちている。
滴が当たった床には、すでに小さな丸い水たまりがいくつもできていた。
そして、その髪の下――白い顔が半分だけ覗いていた。
肌は血の気がなく、蝋細工のように滑らか。大きな黒目がこちらをまっすぐに見上げていた。
「人形か……そう思おうとしたんです。でも、あの目は……生きた人間の目でした。濡れた光を放っていて、瞬きもせずに、ただ僕を見ている」
瀬川さんは足を止めた。
その瞬間、さっきまで確かに聞こえていた雨音が、すっと遠のく。代わりに耳に残るのは、自分の呼吸と鼓動だけ。
「足が動かなくなったんですよ。逃げようと思えば逃げられるはずなのに、身体が固まって……目を逸らしたらダメだ、って直感が働いたんです」
女の顔は動かない。
ただ、その視線だけが瀬川さんを縫いとめている。冷たく、湿った重みを持った視線が、喉の奥から胸へ、そして足の裏まで染み込んでいくようだった。
その女が、ゆっくりとまぶたを下ろした。
ほんの一瞬の動作――だが、次に開かれたとき、その目はわずかに大きくなっているように見えた。
黒目の奥が深くなり、そこに引きずり込まれそうな感覚がする。
同時に、床に落ちる水滴の音が、はっきりとしたリズムを刻み始めた。
「ポタ……ポタ……ポタ……」
それは自然な滴下音ではなく、誰かが数を数えるように一定間隔を保っていた。
女の唇が、かすかに動いた。
それは声ではなく、濡れた空気に溶けるような囁きで何を言っているのか聞き取ることができなかった。
瀬川さんの全身の毛穴が開き、背中を冷たいものが駆け上がる。
声は耳で聞いたというより、頭の奥に直接響いたようだった。距離は数歩しかないのに、その響きは異様に遠くから聞こえてくるようでもあり、同時に耳元で囁かれているようでもあった。
瀬川さんは反射的に身体をひねり、視線を振り切るように廊下を歩き出した。
その背後で、バケツがガシャンと倒れる音が確かに聞こえた。
だが振り返る勇気はなかった。
足音が速くなるにつれ、鼓動も激しくなり、呼吸が浅くなる。
ようやく職員室の灯りが見えたとき、瀬川さんは全身が汗でびっしょりになっていた。外は雨のはずなのに、その冷たさよりも、背後からの視線のほうがはるかに現実味を持っていた。
翌日、朝の見回りで瀬川さんは恐る恐る西校舎の端へ向かった。
非常階段の前には、例の灰色のバケツがあった。
中は空で、底には乾いた埃がたまっているだけだった。
だが、床の一角には煤が混じったような水滴の跡がまだ残っていた。
並びは歪でありながら、昨日聞いたあの「ポタ……ポタ……」という一定のリズムを思い起こさせる配置だったという。
https://kakuyomu.jp/users/MadRaccoon-dog/news/16818792438413385434
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