胡堂ミカヅキの妖異帖
藤咲メア
第一部 禍福は糾える縄の如し
第1話
ぐにゃぐにゃと妙な形にひねくれた金魚鉢の中で、でっぷり太った赤い金魚がぷかぷか浮かんでいる。
曲面に金魚が近づくと空間が捻じ曲がり、時々魚眼レンズを通して見ているように金魚の姿が膨らんだり萎んだりする。
この金魚、ずいぶん昔からここにいると思うけど、金魚の寿命って何年だっけ。そんなことを、胡堂ミカヅキは真剣に考えていた。
なぜなら彼女は、他にやることがないからである。
時刻は午後5時40分。狭苦しい雑貨店の中に、その周りだけタイムスリップしたような感覚を与えかねない重厚な振り子時計の針がそう示している。しかし、あの振り子時計はきっかり10分遅れていることをミカヅキは知っている。つまり、現在の時刻は午後5時50分である。
雑貨店の店主がミカヅキを待たせて奥へ引っ込んだのは今から20分前。
ミカヅキがここを訪れたのは、貸し出していた人形を返してもらいに来ただけである。その人形をとってくるのにそんなに時間はかからないはずだ。だから、待たされて10分経過したあたりで、「さては便所に行ってるな」とミカヅキは思考を巡らせた。店主はもう90歳を超えた婆さんである。トイレが近くて困るし、くしゃみをすると尿漏れを起こすのだと、モゴモゴ言っていたのを覚えている。
そんなことを考えていると、店の奥からトイレの水を流す音が聞こえてきた。ああ、やっぱりトイレに行っていたんだ。
雑貨店の主のような貫禄の金魚と睨めっこしているうちに、珠のれんをジャラジャラ鳴らしながら、本当の主が戻ってきた。
「いやあ、年取るとトイレが近くて敵わん」
「おばあちゃん、この金魚いつから飼ってるの?」
会話の脈略を無視してミカヅキが尋ねると、店主は首を捻って目を細めた。そうすると目が皺に埋もれて眠っているように見える。
「さあ、知らん。わしのじいさんの頃にはもうおったがな」
90歳越え人の祖父が生きていた時代にちょっと想像が追いつかず、ミカヅキはそれ以上聞くのはやめた。
「人形は?」
本題に入ると、店主はカウンターの上に木箱を置いた。木箱には赤い組紐が巻かれている。
「昨日までは店を一望できる場所に置いとったんじゃが、胡堂屋さんに返すから、木箱にしまっといたんじゃ」
店主は、節の目立つ木箱の蓋を、名残惜しそうに撫でた。
ミカヅキは、店主から木箱を受け取ると、木箱の周りにぐるりと巻かれた赤い組紐を外した。色褪せた木箱の蓋をパカリと開ると、そこには、これ以上詳細を記述する必要がないほど、絵に描いたような日本人形が横たわっている。
「いやあ、助かったわ」
店主は深く皺の刻まれた手を揉んだ。
「万引きしよる近所の悪ガキ共、ようビビッとったわ。その人形は呪いの人形なんでな。ぎょうさん髪が伸びて、目がぎょろぎょろ動くんじゃ、悪ガキ共もこれに懲りて万引きなんぞせえへんわ。嬢ちゃん、若店主によろしゅう言うといてな」
「はいはい、伝えとくよ」
木箱の蓋を閉じたミカヅキは、持ってきていた手提げ鞄に人形の入った木箱をしまった。
店主はまだ名残惜しそうな様子で話を続けている。
「妖怪屋さんや、けったいな生業やおもとったけど、若店主となかよおしといてよかったわ。じいさんも、よーう、なかようしとけいよう理由がわかるってもんじゃ」
「おばあちゃん。うちは妖怪屋さんじゃないって」
ミカヅキは口を尖らせた。
「妖怪じゃなくて、妖異商。その人形の髪が伸びるのは怪異のせい。怪異を起こす人形が妖物」
ミカヅキはリズムよく、パチンと手のひらを打ち鳴らす。
「これらをまとめて妖異と呼びます。うちらはそれを扱ってるの。妖怪屋さんじゃないよ」
「そんな講釈いらん。もう何回も聞いた」
はよ帰り、と失礼にもひらひらと手を振られた。
もう何度かこの店主には、妖怪屋さんではないことを説明しているのだが、全く聞く耳を持たない。ミカヅキは諦めた。一般人からしたら妖怪も妖異もそう違いはない。ただ、前者は人の恐怖が生んだ妄想の産物で、後者は実在する現象であるという明確な差がある。これもまた、一般人にはさしたる違いにはならないだろうが。
ミカヅキは、「うん、じゃあ帰るね」とバイバイと手を振った。
「まいどあり。また贔屓にしてね、おばあちゃん」
そう言って、胡堂ミカヅキは雑貨店を後にする。ミカヅキが戸を開けた時、差し込んできた西日が、彼女の燃え立つような赤毛を緋色に染めた。
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